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「倉本聰の森と老人」から、学びのための本質を考える。

昨年のことなのだが、「倉本聰の森と老人」という番組をNHKで放映していたのを見た。それもたしか再放送だったと思う。
その内容は「学ぶ」ということを語っていた。

そのテレビ番組の中で語られていたことは、本は読まなくなった意味を語っていた。
本を読むことで知識は身につくが、知識は知識でしか無いことに気づいたという。そこで、時間はかかるが自分で感じ経験することの大切さに気づいたと述べていた。

そして、本を購入することはするのだが、すぐには読まずに置いておくらしい。
では本をどう活用するのか。
本の役割とは、経験を積んでから本を手にすることで、本で語られている知識と自分自身で培った知識が繋がり深い理解へと導かれるために、本の役割があるのだと言う。
本来の「学ぶ」と言う意味をそのテレビ番組で語っていたのだった。

自分自身に置き換えて考えてみる。

ボクは焙煎士である。
ボク自身もローストが上手くなりたくていろんなことをこれまでに考え、そしてトライしてきたのだが、経験から語るとすれば、人が頭の中で考えついたことのそのほとんどは、真理には到底辿り着けないものであることに気づき始める。

だから世の中に出回っているローストの理論が、ボクにはどうもしっくりとこなくて、現在の当店のローストは独自の論理を構築することに至っている。
経験上、頭の中に思いついた99%以上の理屈や理論は、到底真理に近づけるものでは無い。
だからコーヒー焙煎は難しい。

では、真理とはどこに存在しているものであるのか?

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