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個を消費する戦における大義名分

 戦に教訓などない。
 個人的な諍いや争いにもっともらしい大義名分をつけることはできたとしても、誰かが誰かを率いて戦う組織的な戦に、それをするだけの正統な理由など、定量的にも定性的にもつけることなどできない。

 たとえ戦争によって、経費はかかるもののその後の経済的損失をどれだけ回避することができたと言われても、納得しない人がいる。そして虐げられている民族がその存亡をかけて抗っているのだと言われても、それを理解できない人がいる。
 どちらも、戦いが大々的になることによる多量の命の損失を説明できない。私達がもっとも敏感になるのはお金や尊厳ではなく、実際のところ「命」である。なぜならそれは本当に取り返しがつかないものであり、絶対に他者が自由にできないものであるはずだからだ。そうだから、まだ自分自身がそれをどうこうする、左右する行為というものには納得できる余地がある。
 けれど、集団的な争いは個人の意志によるものではなくなる。それとは別の、集団的な何か(集団を1つの個としてまとめ上げてしまう何か)によって動かされていくものである。そのようなものに、個人の命が危険にさらされ、そして大量に失われていくということに、もちろん大義名分も教訓もない。それは単に、集団を個としてひとまとまりにすることによる、被害の見かけ上の軽減である。
 つまり集団の中で個が死ぬ場合、個にとっては人生の終わりだが、集団にとってはかすり傷である。集団になった途端に、その生きる目的は生きることではなくなる。集団の生は争いにおける勝利だ。だから常に、個にとって集団は敵として存在しているに等しい。

 私達は、戦が「良くないものだから」、それを忌避しているのではない。そのような倫理的な判断などではなく、ただそれが、個人のためにならないものである時に、そこに拒否反応を示すことになるのだ。
 だから、むしろ戦でなくとも、集団によって個の生命を素材として、燃料として、経費として扱うような行為は全て、私達にとってなんにもならないものだと思った方がいい。
 戦には教訓などない。それは個にとってという意味である。もし、それを犠牲にしてもと言うのなら、集団にとってはもちろん、教訓や大義名分になることはあるだろう。

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