見出し画像

私と卓球~コウメイ先輩のこと~

「卓球部はスクールカーストの底辺」といわれる。スクールカーストという概念自体が恣意的という話はさておき、当事者としては理由があると思う。

ほかのスポーツに比べ、少年少女における卓球は基本的に白か黒かの世界だ。強くなりたいというモチベーションがなければ基本の反復もものにならない。基本ができなければ上達しない。上達してより上に行くためには高いアスリート意識と自己管理能力が必要となる。上の試合でさらに勝つためには自分の戦型(前陣速攻やカットマンなど)と強みを知り、更にそれを活かして相手の弱点を突く戦略脳を持つことが要求される。

これだけ篩(ふる)いの厳しい世界でそれでも勝つ人間と同じだけ(あるいはそれ以上に)、負ける人間がいるのである。そして敗退は本人の自己責任で、どこまで行っても自分のせいだ。そんな競技でもし「負け」が常態化してしまったり、そもそも最初から「勝ちたい」「強くなりたい」というモチベーションが生まれなかったりする人間が出てしまったら。それが思春期の大切な時期に、生活全般に及んでしまったら…?

なにを隠そう、私がそうだった。

そもそも、卓球部自体に好き好んで入部したわけではなかった。
元々は野球をやりたかった。小学校に野球スポーツ少年団があり、あまり運動が得意ではなく、華々しく運動神経を披露する同級生たちに隠れたベンチウォーマーだった私も、高学年になると試合に出してもらい、生なかヒットを打てるようになった。その喜びもあって、野球をやりたいと思うようになったのだ。

だが、中学校では隣町のチームと合流する。強いし、粗暴で柄も悪い。瞬く間に自分は目をつけられ、「お前、守備位置決まったな。ベンチだ」「お前にヒット打てたことあったっけ?あれ?試合で何本か??え?そんなことあったっけ〜?笑」とどつかれた末に侮辱されることになった。いつの間にか同じ小学校出身の奴らも真似をするようになり、こうしていじめが始まった。

今だから格好つけて言うのであれば、「こんな言い方で人の大切な宝物を汚す連中を『仲間』と呼んで尊敬することはできないし、もちろん一緒に遠征に行って一緒の風呂に入って一緒の部屋で寝ることは出来ない。こうはなりたくない」と考えた。悪く言えば、いじめっ子に罵られてすごすごと逃げるように卓球部に入った。本当は同じく小学校の頃から続けていたピアノを主にしたいとも思ったが、特に才能があったわけでもなし、音楽部は部活内容が違ったので、無理な話だった。

卓球部でもいじめは続いた。小学校の頃から微妙な間柄だった同級生Sが、すわ今のうちに部内での地位の確保とばかりに私を罵り始めたのだ。「部活の同級生は7人。選手は6人。まあでもベンチは決まってる。コイツ」と私を指差し、その後の練習でも「お前は負け犬」「部活に必要とされていない」「この部活にいたのお前」とネチネチと嫌味を言うようになったのだ。どこのブラック職場だと言うべきか、ブラック職場の貧乏くじを幸か不幸か早めに引いて悪い意味で免疫ができたと言うべきか。

流石に私も憤慨した。Sを見返すため、夜遅くまで残って素振りを繰り返した。

だが今思えばそれは練習のための練習だった。ラリーは相変わらず続かなかった。だがそれを先輩が見ていて、新人総体の一年生大会出場2枠に、自分を推薦してくれた。先輩の部長が「Kennyは一生懸命やっているから、出場させてやってくれないか」と顧問とコーチに頭を下げてくれたらしい。

もちろんそれは嬉しかった。Sの鼻をたった半年で明かしてやったと思った。

だが、後日譚が残念な成功譚というものはあるもので、その新人総体が終わった後、自分はそんなに伸びることはなかった。いや厳しく言えば、元々そんな実力など持ち合わせていなかったのに評価されたことで、そしてSを見返すという歪(いびつ)な目標が達成されたことで、私は次に何をするべきなのか全くわからなくなってしまったのだった。

結局見えないところで基礎をきっちり磨いて実力をつけていたのは、Sら他のメンバーだったのだ。基礎のフォームも疎かだった私は瞬く間に同級生に追い抜かれ、一年の冬が終わる頃にはSが目論んだ通りの序列になってしまっていた。部長も顧問もコーチも、基礎固めの時期に先輩に媚を売って甘い汁を吸ったばっかりに駄目になった選手としてしか、自分を見ることは無くなった。

この頃の卓球部にはもう一つ問題があった。人数が多すぎたのだ。卓球のスタメン6枠、それを含む正選手枠8枠(くらいだったと記憶している)に比べ、一個上の学年の人数は16人。二年三年と経つうち、出番がもらえないのを今更ぼやいたって自己責任だし逆転はできないのだと悟ってか悟らずか、情熱を失くした者、実力の差を悟った者、顧問やコーチと確執のあった者があぶれ、部活で充実した選手生活を送っている者たちとは対極、某漫画卓球部のような「無気力閥」をなすようになっていたのだ。

コウメイ先輩も、出番をもらえない一人だった。

ただ、コウメイ先輩は「無気力閥」の人間ではなかった。二軍から一軍へと上がって来たこともない。真面目に練習をこなしていた。筋はあまり良くなかった…というか運動自体があまり得意ではない僕と同じようなタイプの性格で、学年での位置も目立たない陰キャといった感じだった。

僕は自然と、そんなコウメイ先輩の近くで練習していた。今思えば、二年の頃が一番辛かったと思う。なんのために練習しているかわからなかった。早く終われ、早く終われ、と念じながら練習に行き、Sが華々しく活躍しているはるか後ろでぼさーっとしながらプレイし、頭の中は阪神が勝ったか負けたか、家に帰ってプレイしていた野球ゲームか、図書館で読んだ本のことか、少なくとも卓球のことではないのは確かだった。

卓球は弱くて陰キャなのに学年でトップ3には入る成績だったから、自然と妬みから野球部やSたちから「頭はいいがバカ」とか「死ね」とか「この中学校にいる意味ないだろ」とか聞こえよがしに罵声を浴びせられた。自分なりにやりたいことがあって、二年後半には生徒会の選挙にも出た。自分だけ落選。代替わりし、新人総体では同級生で唯一試合に出してもらえなかった。無気力な人間に何をやらせても無駄だとコーチも顧問も思っていのだろう。恥の上塗りに、罵声はどんどんエスカレートした。

そんな私が、自分の暗澹たる状況における唯一の希望として、どんなに落とされても腐らずに練習を続けているコウメイ先輩を見ていたかも知れないのは今だから言えることかも知れない。二年後半になれば実力の差は如何ともし難くなる。生まれつきの運動音痴に、試合で緊張して練習の成果が出せない(そもそも成果が出るほど真面目に練習してない)、負け癖がついた脳が勝手に「どうせコイツには勝てないし」と一切の作戦を放棄して、強い選手のサンドバッグになって負けるのだ。大会があるごとに一回戦で敗退して、残りはやりたくもないSの応援をするだけだ。学校の帰り道は、一人歩いて田舎の田んぼ道を帰った。自分がなんのために生きているのか全くわからなかった。コウメイ先輩の姿と、全く同じだった。

それでもコウメイ先輩は真面目に練習を続け、最後に個人戦の試合にだけ出してもらい、そこで負けて終わった。顧問もコーチも大した労いもかけず、引退後は卓球部に存在した痕跡すら無くなっていた。受験勉強をしっかりやっていたかどうかは定かではないし、成績もそんなに良い方ではなかったから、部内ではすっかり忘れ去られた。そして義務教育を終え、中学を卒業していった。地元の工業高校に進学したらしいが、そんなことを知っているのも近所の私くらいで、瞬く間に中学校からコウメイ先輩に関する情報は消え去った。

そうしているうちに私は三年になった。罵声を浴びせてくる野球部の連中はいよいよ女子の黄色い声援を浴び、艶な話が出てくるようになり、私は遠巻きにそれを見るだけだった。私は選挙で落選して試合に出してもらえなくなってからというものこの中学校での立身出世は諦めていたが、さりとて二年の頃のような死んだような日々だけは嫌だと、三年に上がる前に自分の将来を真剣に考えようと思った。文系に行くなら自分のような弱い立場の人を守れるような弁護士。理系に行くならスポーツでデータ分析を行えるようなプログラムを開発できるエンジニア(今思えば文脈は使いようで、『裏方の仕事をさせてください!』という体で野球部に入部するという手もあった。まああんな連中のために尽くしたくはないが)。志望校に合格するため、貯めておいた小遣いを使って「電話帳」という厚さの47都道府県の高校入試問題を買った。それでも合格するための全てをやった気にはなれず、開成高校やラ・サール高校の入試問題まで解いた。

そんな折のことである。先輩が卓球部に教えに来て、仲間内の進学先での様子を語ってくれた。そしてその中で、なんとコウメイ先輩が高校でも卓球を続けていることを知ったのである。

もちろん、部活で一方的にこちらから見ていただけで、絡んだこともほとんどないコウメイ先輩だったから、普通であれば話半分に聞いて、あとはコウメイ先輩のことなど忘れていたことだろう。

だが私はその事実を聞いた瞬間、身に雷が走るほどの衝撃を受けた。いや、いや、いや、中学の卓球で勝てんかった人間が高校で勝てるようになるわけないでしょ。むしろ高校は他地区の強豪でもなかなか勝てないようになるレベルの高い世界になるから、中学でも試合に出してもらえなかったコウメイ先輩とか瞬く間に実力は底辺になるんじゃないの?高校は中学以上に、ましてや柄悪い兄ちゃんたちが遊んでるような地元の工業高校なんか、一旦卓球部の弱カスとしてレッテルが貼られたらもう自分に自信を持つことなんて永遠にできないんじゃないの??

だが、コウメイ先輩は卓球を続けているらしい。私は襟を正すことにした。地区総体まで残り3か月。勉強は蓄積があるし、最高学年になったんだから、少なくとも部活は最後だけ頑張ろう。もう遅いだろうけど、コウメイ先輩だって卓球続けてるんだ。もちろんコウメイ先輩が建設的な理由で卓球部を選んだかはわからない。もしかしたら他に何をやりたいともなく、惰性で卓球を選んだのかも知れない。だがあの負けても負けても真面目に練習を続けていたコウメイ先輩の姿を注視していた私には、どうしてもネガティブな理由で卓球を続ける決断をしたとは思えなかった。

コーチに弱点を聞き、コーチに練習相手になってもらった。マネージャーに名乗りをあげ、裏方としての仕事も積極的にこなした。最後だけ練習してももう遅いと最初はバカにしていた同級生たちとも、いつしかまとまりが生まれてきて、休日は一緒に練習したり、練習後に一緒に『ピンポン』や『バトル・ロワイヤル』などの映画を観に行ったりする時が増えた。弛んでいる後輩がいれば叱った。勉強ができないとの悩みを打ち明けられればいつだって教えた。どうせ卓球部には叶わない夢と分かっていても、恋話に乗って、俺あの子が好きなんだと恥ずかしそうに言った時もあった。最後の3か月だけ、本当に充実した卓球部生活を送ることができた。

最後の地区総体は、団体戦は出してもらえず、ベンチで声を張り上げた。個人戦は一回戦でやる気のない選手を破って念願の一回戦突破を果たし、二回戦で優勝選手にストレートで負けた。後ろで、どうせ私が勝つなどとも思っていなかっただろうコーチが「こんなものだ」とタオルを渡してくれたのを、指導者ゆえの含蓄で労ってくれたのだろうと解せるほどには私は教養と察知力をつけていたのかも知れない。

私には何が足りなかったのだろう。いじめのせいもあるかも知れないが、やはり自己責任にしたほうが身のためと思った。練習量や練習の方法の考案、戦略を考えることの大切さがわからなかったから、とも思ったが、そんなものは枝葉末節と思う。最も重要なのは、自分で自分をセルフマネジメントし、強みと弱点を総合的に把握した上で必要な努力と投資を行っていく「全ては自分のため」の競技文化に馴染めなかったことであり、それができない選手はどう言い訳しようと単なる「負け犬」であるという競技の厳しさがわからなかったことなのだ、と今は思っている。

コウメイ先輩のその後は知らない。実家が通勤路にあるから、今も実家暮らしであればどこかで顔を見ているだろうが、それはなかった。だが私はコウメイ先輩のその後はこれからも知ることはないだろうと思う。コウメイ先輩もまた、卓球という競技文化の厳しさがわからなかった、朴訥な先輩だったのだと思う。高校で選手として大成したという話も、もちろん聞くことはなかった。

だが思う。中学校で弱かったのに、それでも高校で卓球を続けるという決断ができたコウメイ先輩のことだから、今もどこかで自分の誇りを持って卓球をしてますよね。しているというか、自分の卓球を生きてますよね。周りからはどう思われているのか知らないけど、少なくとも、あなたのその決断に敬意を評している変わり者がここに一人いますよ、と。

私はその後、無事第一希望の進学校に合格し、紆余曲折はあったものの楽しい高校生活を送ることができた。彼女こそできなかったが、中学の卓球部の頃に比べれば高校デビュー成功と言っても良いだろう。野球部の連中、とつるんでいた女子連中から相変わらず駅で七日町の通りで「お前、顔が気持ち悪いんだよ!」と言われたし、バスケ部の人間にメールしたら「お前になんてアド教えた覚えねえよ。腐れ。メアド拒否ったから」と返ってきた。高校で気を措くことなく話せる友達ができた一方で、「外でどんなに活躍しても中学では負け犬」という呪いに泣くこともあった。

まだ幼かった自分は、卓球部での日々のことをいわゆる「黒歴史」として忘れようと努めていた節がある。そういった焦りが、いまだに変わりきれていないと判断されてしまったのだろう。自分に罵声を浴びせてくる連中が正しいとしたら、そのような論理になるかと思う。中学の頃から好きだった女の子に高校で活躍して告白しても「中学の時にイケてなかった人はちょっと…」と言われて、なおのこと中学コンプレックスは強まった。そして高校卒業して、用事で学校にいく時、駅で鉢合わせしたその女の子の一団に出くわし、ボスの同級生の女の子から「きめえんだよ、クソ卓球部!」と罵声を浴びせられ、自分の高校生活の成功で得た自信は崩れ去った。そいつの進学先は誰も名前も知らないような大学だったらしいから、早稲田大学に合格していた身ならちょっと見下して煽るくらいのことはしてもよかったのかも知れないが、ちょっとそれは痛いと思ったのでやめて、結局すごすごとその場を離れていった。そういうことがあったので、高校の頃は生徒会長も務めて、華々しかったですね、と言われても、そんなものはビールの泡のような上澄みですよ、と答えることにしている。どんな栄光を手にしても、名誉を得ても、自分に必要だったのはコウメイ先輩を見習って立派に卓球を続け通すことだったのだと思う。

大学時代は正直、イケてたともイケてなかったとも言いづらい。弁護士の夢は忘れた。理系のエンジニアになる前に化学と物理が全く理解できなかった。そのかわり、将来に迷っていた高校一年の秋に朝読書で読んだ文学作品に魅せられて、文章を書くことを生涯の仕事にしたいという思いがこうじ、大学に入った。ただ大学で「おべんきょう」をして「努力賞」をもらうのもちょっと違うと思ったので、文芸創作学科には入らず、語学と政治思想を研究して「見聞を広めながら卒業後に書くための準備をする」ことにした。今だから言えることで、当時は将来への不安でそんな戦略をドヤ顔で語れるほどではなかったが、それでも映画を観、実家からの仕送りを叩いて舞台に足を運び、本を読み、落語を聞いた。そして卒業後、病気を患ったこともあり、就職もせず文章を書く道を選んだ。何年か根無草で書くうち、就職しないと書けないものがあると考え、就活をして、新聞社に内定をもらい、記者として働き出して今に至る。

勘の鋭い人はお分かりだろう。自分も知らないうちに「卓球選手」になっていたのである。得意な戦型は文章を書くことであり、中上健次さんや白洲正子さんのフォームを模範としている。学校で威張りくさっていた学生どもがパワーゲームに勝利して有名企業に就職するまではよかった、その後何したらいいかわからない…という姿を見るたび、こんなセルフマネジメント意識の低い人間はいつまでも二軍の社畜飼育場にいろ、としか思えない。そういえば面白いことがあった。大学卒業間際に、住んでいた学生会館の卓球台で、体育会卓球部の先輩と卓球をする機会があった。どうせ弱い選手だったから、あれよあれよと煽られて惨敗するかな、と思ってコートに立ったら、信じられないくらいに身体が動き、ラリーも続き、挙句「君、強いな」と言われたのである。「いや、いや、選手としてはほんと底辺で…」「そうなん?Kennyは強い選手の動きしてるよ」

残念ながら先輩は法科大学院に進学して勉強漬けになってしまったので、卓球をするのはそれっきりになった。その時抱いた「脳のセルフイメージが変化することで、スポーツ選手としてのポテンシャルもある程度変化するのではないか」という仮説は検証されないままだったが、負け犬でもこう思うのだから誰かがこういう事業を立ち上げてくれることに期待している。そして思う。コウメイ先輩が卓球を続けた理由はわからないけど、安西先生、卓球がやりたいです!

「私と卓球」の長い原稿もここまでだ。一筆書きで泣いたり笑ったりな話にできるかと思ったが、まとまりのない話になってしまった。最後まで読んでいただけた方がいるのであれば、私の恥ずかしながら、、、というところである。

そして、卓球を再びやり始めたとき、梯子を登り切ったら梯子を外す、のたとえ、私の脳はきっとコウメイ先輩のことを忘れ去るだろうと思う。大人になるとはそういうことだ。それでも、コウメイ先輩の姿が私の人格形成に果たした役割が大きいのは確かだ。だから毎日、通勤でコウメイ先輩の家の前を通るたびに、心の中で小さく、「卓球続けられて、本当に良かったです」と頭を下げている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?