夏の夜 波の音



その女と出会ったのは、夜の江ノ島の海だった。

調理の専門学校に通いながら、夏の間だけ江ノ島の海の家で土日にアルバイトをしていた。


その日は8月の一週目の土曜日で、昼間から客が絶えなかった。

夜もBBQの客が数組いたり、海で泳いでそのまま流れで飲みにくる客もいたりして、とにかく騒がしかった。

店は夜の8時には閉まる。
店の電気も全て消し、トイレやシャワールームにも全て鍵をかける。


店長や他のスタッフはとっくに帰って行ったが、自分は家に帰りたくなく、店の前のビーチ沿いの石段で、人間たちだけが作り出している喧騒と、波の音を聞きながら、花火禁止の場所で花火をしている人たちをぼんやりと眺めていた。


「ガチャガチャ」

店は、海と石段の間に建っている。
扉は一切ないため、入り口のところにはチェーンをかけてはいるが、もちろん跨いで侵入することはできる。
侵入したところで、何もないけれど、時々明け方に店のソファーで寝ているやつもいるらしい。


おそらくその人影も、海側の階段を登って侵入してきたのだろう。

泥棒…だとは思わなかった。
自分の店のトイレの扉をガチャガチャとまわして、開かないとわかると、自分が座っている石段の方へ向かって歩いてきた。


「トイレですか?」


普段だったらめんどくさくて、こんなふうに声なんてかけなかっただろう。

でもその時は、考えることもなくそう声をかけていた。

暗くて顔はほとんど見えなかったが、影の様子から、女だろうなとは思った。


「そうなのー!トイレどこにある?」


姿もよく見えず、顔ももちろんよく見えず、その女の声だけが、やけに鮮明に耳に響く。声だけが、その女を認知できる女の一部だった。


僅かな街灯の灯りの下にその女が来た時、その女が、キミドリ色のワンピースを着ているのが分かった。
さっきまで店でBBQをしていた客のひとりだった。


その女は男女数人で、集まってBBQをしていた。
食べ終わった皿を片付けに行った時、
「ねぇお兄さんいくつ?」とその女とは別の女が聞いてきた。

「19っす」

えー若い!未成年じゃん!
いやもう成人ではあるのか!
お酒は飲めないけど!
と男女は盛り上がった。


「そこで寝ている26の男は未だに童貞なんだよ〜」

自分もそうです、とは言わなかった。
そうなんですねー、と適当に笑っておいた。


全員酔っていた。もしくは、全員酔っているように見えただけで、全員は酔っていなかったのかもしれない。



ひとつだけ空いている店のトイレを案内してやった。
女は礼を言いながら、暗いトイレに入っていき、すぐに出てきた。

吐いたりしたわけではないようだったことと、そこで眠ったりしてしまわなかったことに安堵した。

そのまま礼を言って、去っていくだろうと思っていたが、その女はトイレから出てくると、手についた水をはらいながら自分の隣に座った。


「ありがとねー。さっきお店にいた人?」

そういうと、スマホの懐中電灯を自分の方に向けてきた。

目を細めながら適当に答える。


女は自分の顔を見ても、首を傾げたままだった。


「いくつなの?」

同じ質問をしてきたので、同じように答えると、さっきと同じような反応をされた。


見知らぬ人と話をするのは得意ではなかったが、夏の夜がそうさせたのか、波の音がそうさせたのか、もしくは、暗くてほとんどお互いの顔が見えなかったからか、その女が隣に座っていて不快感は全くなく、むしろ心地が良いと感じた。

それは不思議な感覚だった。


その女は相当酔っていたようだったが、自分にまともな質問をしてくれて、まともな受け答えをしてくれた。



しばらくすると、女の友達の男がその女を探しにきた。

その男も自分の隣に座って話し始めた。


さっきまでは、ろくでもない大人に見えたが、彼らの仕事のことや、話を聞いていると、立派な大人だと感じた。

それは彼らの経歴とかではなく、彼らの話し方や受け答えの仕方から、そう感じられたのだ。


自分に対して1人の人間として、自分のことを敬いながら、対等に話をしてくれていると感じたからかもしれない。

そんな大人に、自分は今まで出会ったことがないような気がする。

大学へは行かず、とりあえず専門学校へ行くという選択を、初めて肯定されたような気がした。

それと同時に、今まで自分で自分の選択を否定して生きていたことに気づいた。


しばらくすると、彼らの友達がやってきて、彼らは立ち上がった。


「お店開いたら食べにいくからね!頑張るんだよ!」

そう言ってその女は自分の肩を優しく叩いた。



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