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こころは悩む”もの” - こころの治癒①

(心のカタチより)

皆さんこんにちわ。
ぽち☆いいます。私の話を読んでいただいている方々に感謝いたします。スキやフォローをいただいた方にとても感謝しお礼を申し上げます。その感謝を込めてスキを多くいただいた以前のnote『こころの治癒』のマガジンを綴ることにします。

このマガジンは、今までの数々の話を基に悩みや心の病を持たれる方・お近くにそのような方がいらっしゃる方に知っておいてほしい話になります。

この話はぽち☆の経験からではありますが、20数年にわたり複数の方と接し”こころの治癒”を促したお話しです。そして、その方々に共通しているのは心を知っているようで実はよく知らないことです。

例えば、人は辛くなると何かのせいにしないと居られなくなります。

そうなった理由には”心を知らない”からそうするしかなかったのですが、それを自覚してないがため「自分の心のせい」にすることを知る由もなっかたのです。

「自分の心のせい?」と思われるかも知れませんが、”心を知らない”とはそう云うことです。”自分のせい”ではなく”自分の心のせい”です。

そのような方に限ってよく言われるのが「自分の心は自分が一番わかっている」です。もし、心が分かっているのなら、自分に起きる悩みは辛くはしないでしょう。

人は思い込みをすると本質を見失います。心を知っているか、本当はよく知らないのか。ここは一旦決めなくて、自分に悩みがあるのなら原因は”別にあるのかも”と思うのも無駄ではないはずです。

そもそも、悩みを辛く思うのが自分の心である以上、自身を苦しめるのも自身の心です。それは”自分の心のせい”と思わなければ、何かのせいにするしかできず、治癒させる心の存在を自ら見失わせてしまいます。

そのようなぽち☆が接した方には、メンタル・パニック・DV・自○未遂など数々の悩みを持たれた方がおりました。誰かのせい、何かのせいにして”自身の心のせい”にすることを知る由もなかったのです。

まず人は、そこから自身の心を見間違ってしまい、治癒させる心の存在すら判らずに怠っているのです。

もし、自身の心が原因と知ることができれば、治癒する”もの”が心と解るのです。それは、その心が一番望むことにも気づけるのです。

”こころの治癒”とは、メンタルなどを治すのではありません。その治(ただ)す心を知るための治癒なのです。心を知る事こそがその扱い方を自ずと知り、心を治(もど)す術をも知り得れるのです。人は誰もが”幸せになりたい”と云います。ならば、心が幸せを感じることが一番大切な治癒となるのです。

そもそも、心の病とは何なのでしょう。心を知らないからその定義は曖昧なままです。そんな心は日常的に浮き沈みする”もの”です。沈んでいるから病ではないのです。それを心も知らず誰かが定義つけ病を信じさせる治療するのです。それが幸せを感じ戻させもせず、不幸を感じさせる病(たね)を心に植えつけてしまうのです。それには自身も知らないから互いにそうしてしまうのです。

人は悩み多い生き物ですが、幸せを感じているときは悩みなどを忘れられる生き物なのです。それは自身の心にとって”幸せ”に勝ることはないという証(ちゆ)をこころが持つからです。

「心を自分の”もの”にする」

そのようなぽち☆の経験がご参考になるかは、あなた自身の心でどう感じるかにあります。それはぽち☆がそう言ったからそうしないとイケない、や、いやいや違うでしょ、と思う方には何の役にも立たない話です。

それらは知らず知らず感情が邪魔をして「心を自分の”もの”」にさせないからです。

ぽち☆が話ているのは、心を知るための数々の点(はなし)に過ぎません。その点をどう繋ぎ合わせ、それを自身の心にどう残すかは自由です。ただ一つ云えるのはその繋ぎ方に”納得”が伴わなければ自分の”もの”となりません。

その人その人に人生(けいけん)があるように、自身がどう繋ぎたいかで納得の仕方も変わるのです。自分が”幸せになりたい”と思っているのなら、その繋ぎ方はある程度同じになりますが、心を自分の”もの”にするコツは幸せを感じれる納得が大切になります。

「一つずつ納得することだけを心に残せば十分」

ぽち☆の話す”こころの治癒”には、もともと自身が持つ心を使います。その心は漢方のような自然(カラダ)にある”もの”を服すので副作用はありません。

その心には”幸せになりたい”があります。この思いがある限り”幸せ”を感じることが唯一心を治癒させるチカラに変わります。これが心の中心にある漢方と云うことです。

そんな漢方とは『気持ち』です。

”病は気から”の「気」は気持ちの気。だから、自身の気持ちと同じであれば納得もすれば治癒もします。

ぽち☆の話は繰り返し読むことで新たな納得が見つかります。その一つずつ納得することだけを心に残せば十分に心のクスリとなります。

人は”心を知らない”でいたのです。習ってないから知るはずもありませんが、心は1人に一つずつ必ず持っている”もの”です。その心が自分にとって良いことも悪いことも教えてくれますが、それは自分のためどちらの経験も必要だったのです。

ぽち☆ができるのはこころの中にある”気持ち”を感じさせるお手伝いぐらい。あとは”気持ちのままに”なりたい自分を取り戻す”自覚”をするかは自分しだいです。

ー・ー

通常マガジンは5〜6本話にまとめてました。今回のマガジンはその制限をやめております。それは幾つのお話しになるか分らないこともありますが、絡まった心の紐を少しずつ解くように話したいからです。

『いつも気持ちのままに』となるように。

まえがきが長くなってしまいましたがここからが本題です。笑

「こころは悩む”もの”」

以前にも”こころの治癒”という(note内で)お話ししましたが、もう少しゆるりとお話しします。

その最初に「こころは悩む”もの”」を知ることが不可欠です。

ところで、皆さんの知る心とはどんな”もの”でしょうか。まさか空想な”もの”とは思ってないでしょう。ただ、心を然程(さほど)知らないのではないかと思われます。

それは、学校の先生に『心』という漢字とその意味を辞書で調べた程度しか習ってないと想われるからです。

辞書にあった例として「精神が司るところ」とありました。でも、その”精神”とは何でしょう。”精神”をさらに辞書で調べてもまた解らない言葉で綴られ続きます。

それは、誰もが自分に心があるとは思っていても、どの辞書にも”心のあるところ”や”心のカタチ”は書いてないからです。自分のカラダのどこかに心があると思ってもその”もの”が解ってなかったのです。

それもあたり前、その辞書を監修する人も習ってないからです。

要は自分には心があると言えても、誰もそれ以上の説明ができないことを”心を知らない”と云います。(もし。知っている人がいたらすみません。誰もを「殆どの人」とでも読み替えてくだされば幸いです。解る人はですが。。。)

そんな心に自分たちは常々悩まされ苦しんでます。

それもあたり前ですよね。心を知らないのだから、どこの心が悩んでいるかさえ判らず、藻掻くしか出来なかったのだから。

それも今まで心を知ることをしなかったから仕方ないのです。自身がそうしていたのだから。(今、ここを読まれている方々は少なからず心を知ろうとしている方と想います)

それでは、悩んだり苦しんだりした”出来事”を原因と見間違えて、本来、解決する”もの”を見失わせてしまいます。そもそも、原因となる箇所(もの)を治療できなければ治るものも治りはしないのです。

出来事はあくまでも『理由』でしかなく、それを原因にはできないのです。

例えば、ケガをした時はどうしてますか?
ケガをした理由を考えるのが先か。ケガの箇所を治療するのが先か。で判ります。

もちろんのこと。先に痛いキズを治療しますよね。何故、キズを先にするか。それは、痛い思いは不幸を感じさせるからです。不幸は誰もが嫌なはずです。

人は心が不幸に感じることがとても”嫌”なのです。その不幸を感じる箇所とは『こころ』になり、こころが不幸と感情を湧かすのです。

本来、「出来事(りゆう)」と「こころ(げんいん)」は別るべきことです。それを”心を知らない”がために、その両方を一緒に考えてしまう癖が人にあります。それが本当の原因にも気づけなくさせ治癒する”もの”を見失うのです。

”こころの嫌”は感情を湧かすしかなく、その感情に心を囚われる癖がでます。それは、原因を先に治癒できなければ理由も解消するはずがないのです。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」

ならば。
その感情(できごと)に心を囚われる癖をなんとかしなければなりません。

人はまだまだ心のことを知りません。辞書にも書いてない事にはムリがあるからです。ネットでは自分の出来事などを例にいろいろと書かれた記事を観ますが、それは知らず知らずそこに書かれた感情も拾ってしまうのです。

”心を知らない”のなら知らないままで、今出来ることもあり、それが「こころは悩む”もの”」と自覚する事からはじめるのです。

悩むは”嫌”を感じさせる感情です。その嫌は心を不幸にさせます。ならば、出来事で悩む事態を一旦止(や)めることは誰でも出来るのです。それをするには「こころは悩む”もの”」を嫌意外の自覚にするのです。

考えれば判ることですが。
悩む→嫌なこと→不幸に感じること
が今までの自覚です。悩んだ時点で不幸を連想し感情に心が囚われてしまうのです。

それが心に染みついた”悩みは不幸”という今の自覚です。それを止めるのです。人はその自覚の裏腹に本音は辞めたいと思ってます。その理由は辞めることが”幸せ”と知っているからです。

しかし、辞めることは逃げることにもなり、悩み続ければ心は育たず繰り返す心を作ってしまいます。

ならば、ムリに辞めようのではなく、今出来ることとして”一旦止める”のです。止めるには保留の意味があります。その保留は解決できる時まで”そのまま”にするだけです。

「こころは悩む”もの”」の自覚をするなら一旦止めるキッカケにするのです。それが”今より幸せ”に心を引き戻すのです。

それは自身も気づかない小さな幸せかもしれませんが心に間違いなく小さな余裕を創る理由になります。それは「塵(ちり)も積もれば山となる」。その繰り返しがしだいに実感するこころの余裕を拡げあげるのです。

人は感情に振り回されやすい癖を誰もが持ちます。”心を知らない”とはそういうことです。

出来事などの感情は一旦止めて、こころと云う原因を先に幸せを感じることが今の自分にできることです。まずは「こころは悩む”もの”」の自覚から”心を知らない”を知れば、それが”心を知った”一歩となります。

それが”こころの治癒”のはじまりです。

今回はまえがきがあったのでかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただいたことに感謝・感謝です。ありがとう。

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