復職の診断 僕のゼロ地点

8月22日、復職の診断が出た。

担当医は(今でこそ)いい意味でユルい人柄なので、
休職期限までに復職の診断が出るのは既定路線だった。

診断は、近況の報告や考えていることをただ聞いてくれる。
こちらから話さなければ、薬を出して様子見と言うだけ。
(かといって、話しても対応が変わるわけではない)

精神的衰弱の状態において、他者は基本的に何もできない。
それは本人が本人の問題を、本人で自覚し解決するものだ。
河合隼雄の書籍を読んでから、僕はこれをよく理解した。

それから診察では、(表現は悪いが)担当医を壁として、
普段は人に言えない、漠然とした不安や思考を投げた。

これがどれだけ有難いことであったか。今はわかる。
医師が特別すごい人だったという訳では無い。

ただ、僕がそういう風に無条件で(診察代は払っているが)、どんな話でも聞いてくれる人を必要とするタイプの患者で、
それを自覚的・効果的に利用させてもらえただけのことだ。

今日は、お盆を挟んだので久々の診断だった。
診察室に入ると、先生はいつも全く同じ調子で、
最近どうですか。とだけ、機械的に聞いてくる。

僕は、普段は人にしないような、どうしようもない話を、
漠然とした不安や、抽象的思考をただ無責任に投げかける。
その場で考え、思い出したように、縷々と言葉を繋げ語る。

最近よく感じること、考えること、バラバラの思考と言葉。
noteでも何度か書きながら、長々と纏まらず、しまったもの。

以下、下書きの一つを一部引用する。

復職の期限が近づいている。
それまでに、考えたいことがいくつかある。


仕事について。将来について。生き方について。
哲学について。価値について。人間関係について。


どれも大切な事だが、どれだけ考えても、目を凝らしても、
霞がかかったように朧げで、その形が判然としない。


何かを掴んだような、なにかに触れたような感触だけは、
この期間に何度かあって、微かな感覚だけが寂しげに残る。


今、大いなる真実の歓喜は、専らその喪失として表象する。
これは、真実の確信を求めた結果の、皮肉な成果物である。
…もし私が詩人だったなら、さも荘厳に、そう自らを慰める。


私が求めた真実(のようなもの)は、確かにあるのだろう。
それは意味として存在するよりも、無意味として存在する。
それが空であり、私であり、自然であると実感を持つ。


それが真であるとするなら、生の本質は無為であるが、
人間として生きるためには、それは受け入れがたい。


それは人間が(より正確に言うなら個人の正常な人格は)、
自ら生に意味を見出すことで確立される存在であるからだ。


要するに、自己とは、人格とは、存在とは、価値とは、
生きるということは、意味を生産する事であると言える。


汎ゆる人間は、自らの人生をストーリーとして生成する。
それは大抵、アイデンティティの確立として結実する。

私達は一定の年齢において、自らの出自と経験を見返し、
所属集団に対して、正または負の方向に舵をきる。
個人の人生観とは、余さず操舵される船である。

8月某日の日記

これは、要するに、僕自身の人生の価値や意味について。
現代人の生きる道を、明恵上人の言葉で再解釈を試みた、
僕の、「あるべきよう」を考えようとした過程だ。

診察で、勿論これほど饒舌に、大袈裟に語る訳はないが、
内容としてはそれほど変わらない、似たようなことだった。
違いはデカルト的コギトや、神的なものに触れるくらいだ。

担当医は、ただそれを(少し興味有りげに)聞いてくれた。
そして、いくつかの質問と、一般的な所見を述べてくれた。
それから、既定路線であった、診断を出して書類を書いた。

今は、帰宅して暫く経って、本を読み、シャワーを浴びた。
そこで改めて、ぼんやりと考えてみる。自分の価値について。

大抵の人には、ルーツを遡れば大切なものがあると思う。
それは、親・家族・友人・恋人といった他者との関係。
または、趣味・仕事・夢・使命のような、為すべきこと。
他にも、国・文化・宗教・地元などの帰属する集団など。
そしてなにより、自分自身の存在や生命そのもの。

究極的には、それを突き詰めて、一度地に足をつける。
そこに根を張り、養分を得て、再び返り咲けば良い。
…はずなのでは無いか、と想像する。

というのも、僕にはどう考えてもそういうものがなかった。
無いというのは嘘だ。歴史も、意味も、価値も、存在もある。
ただ、あらゆる価値が、相対化され、眼前に並列に並ぶのだ。

僕はそれを、恣意的に選び出さなければならない。
その意志が必要であるという感覚が、受け入れがたい。
それを正しいものであると証明する根拠が、確信がない。

恣意的に自らのルーツを選択するなど、有り得る事だろうか。
そんな傲慢で、おそれを知らない選択を、僕はできない。
これは、村上春樹やオウムのアプローチに似ている。
…というのが最近の問題だった。

僕は、僕の人生に対して、それほど高い価値を見積もらない。
しかし、僕の人生の、他者に対する影響は、見過ごせない。
だからこそ、僕の人生の価値を証明する必要があった。

僕は、正直、別に死んだって構わないと思っている。
いつからか、僕は誕生日を特別な日だと思わなくなり、
神社で手を合わせても、なんの願いも浮かばなくなった。

それでも、僕の親や、祖父母や、関わった人に対して、
自ら死を選ぶ事は、様々な意味で申し訳ないと思う。
ただそれだけで、僕は生に縛られていると言える。

…ここまで書いておいて、我ながら尊大で厚顔無恥だと思う。
これはつまり、他者にそれほど影響力を持つほどには、
自分の価値を認めているということでもあるのだ。

考え方を変えれば、僕は生きているだけで価値がある。
…ここまでポジティブな言い方はまるで実感がない。

更に言い換えるなら、生きているだけで義務は果たしている。
…もちろん、義務などというのは勝手に背負っているのだが。

しかし、この義務が僕なりのルーツであり、縛りで紐帯だ。
根本的な疑問は解決しないものの(興味としては残る)、
僕の抱えた不安について、コペルニクス的転回を得た。

僕は生きているだけで、とりあえずは良いのだ。
この理論には、神の証明も、正しさも必要ない。

僕は、全く当たり前のことを、とても間抜けで迂遠な方法で、
鬼の首をとったように語っているように見えるかもしれない。

それでも、僕にとって、この頓知はなかなかいいと思うのだ。現時点では、これを僕のルーツ、ゼロ地点としようと思う。

偶然にも、この時点で僕は24歳の誕生日を迎えた。
ここ最近の誕生日の中では、記念すべき日になりそうだ。

こんな文章を書いたことを笑える日が来たら、
僕は間違いなく幸せに生きているに違いない。
それは、心から喜ばしいことだと今は思う。


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