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生と死の悲喜劇(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 今回はサマセット・モーム『サナトリウム』を読みました。
 サナトリウムという場所は不思議な場所でら生と死が隣合っているにも関わらず、喜劇にも悲劇にもなる。モームの作品は、喜劇と言えるだろう。ただ、人は死ぬ。それはそれとして、クールにかわして、いや、ドラマティックにはなっているが、それを飲み込むような展開がその先には待っている。
 物語の最後で結核のカップル。男は結婚すれば寿命が半分以下に縮まる。女は安静に暮らしたらそこそこ長生きできると先生から診断されていた。彼らはその言葉を信じてないかのように、車で新婚旅行に出かけていく。
 愛は寿命長さではなくて、愛し合っている長さが大事なのかもしれない。
 男が、自分は早く死んではいいが、君は長生きして欲しいという台詞がある。
 男には自分の方が早く死ぬ覚悟ができていふのだ。なんと勇猛果敢な人間なのだろうか。自分はいつ結核で死ぬかわからない。でも、それまでは強く生きようとする気持ちは、相手に対しての敬意の表れだと思う。
 生と死をこんなにも軽やかに書くなんて、個人的にはすごいことだと思うし、死が後ろを向かずに、未来の方向に向いているセリフや描写には美しさを感じた。
 
 僕は「死」を書くことが出来ない。それは厨二病的な物語に迷い込んでしまうし、残された人物達が自意識過剰気味な考え方をもって、その後を暮らしてようになってしまうからだ。
 ただ、『桜の森の――』で語った死にはどこかしら美しさを感じてしまう臭いを感じとぅてしまう。人が一生に一度しか体験出来ないこと、数少ないもののうちの一つなのだから。
 その発想自体が厨二病なのかもしれない。
 あと、所属していた劇団の作演出が言っていたのだが、「死を書いてしまうと簡単にドラマになる」と。確かに人が死ぬことで、物語は大きなうなりを見せて、一気に山場を迎えれる。僕はその意見にどこかで肯定的にいて、尚且つ実践しているのである。
 先に書いた小説の『錯覚の春夏冬』で作家の千住公平が死ぬが、それはギミックとしてのものなので、感情云々ではなかったのに、それにつられて永井が反応をしたのは、書いてた僕にしては驚きだった。
 言っておくと、僕はぼんやりとしかあの話は考えてなかった。アドリブ奏法で小説を書いていて、一応、起きることは頭の中で考えているのだが、それだけ出なく突発的に入れたくなふものを後先考えずにいれる。それをいれることで、登場人物たちがどう反応するのか見極めているところがある。
 もし、気になる方がいるなら、『錯覚の春夏冬』を読んでみて欲しい。あれは久しぶりに僕が考えたことを素直に書いた作品だから。
 
「死」についての哲学を読もうとして何回も失敗したことがある。哲学書は、結局、僕には勉強する本なのだ。だから、心にストンと入ってくるものではない。頭脳であれやこれと思索を巡らせる本だ。
「そういうもの」
 と言われてしまうと議論が終わってしまうのだが、哲学書は感情に全然訴えかけていない。哲学書で何かしら閃いたという機会は少ない。哲学書ではないけど、歴史の本で、これは面白そうだと思って、今は読んでいないけど、いずれは続きを読もうと思っているものはある。
 僕の小説は、体験を元にしたフィクションが多い。それをもう少し薄めて、フィクションの濃度を高めたいと思っていたところで、人文関係の本で閃いたなんて、個人的には嬉しい。それはまだ、頭の中で抽象的にあって具体性を持ち合わせてない。もっと書きたい欲が出てきたら書こうと思っている。年内には完成させたい。
 
 話がズレてしまったが、「死」と言うものは、僕の中ではどこ尊いものであり、敬遠しているものである。
 ましてや、モームみたいに生と死が隣合った場所を舞台に小説に書けるかと言えば自信がない。
 死はもっと非日常的なものだと思っている。モームの場合は舞台がたまたま日常と非日常の融合した場所だ。その場所のチョイスがいいと思う。普段の生活で人はバタバタと死なない。だから、僕も体験したことがほぼゼロに近いから書けないのだろうか。でも、そこからイマジネーションで、書くことが作家の作家たる所以なのかもしれない。
 そして、モームはそんな僕みたいな葛藤なく書いている。
 当然なんがら相手は雲の上の人間なのだから。

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