宗教について思うこと

「良い人」になりたいと思いますか?
私は「良い人」になりたくて「素敵な人」になりたくて幼い頃からずっと生きてきました。
考え、学び、その願いは自分を妨げ、苦しめる指標であると、どうにかこうにか心得ることができました。

「良い」「素敵」「優しい」「徳がある」なんて漠然としたものだろうと、途方に暮れつつ、それはでも情けなく諦められない自分がいます。

だって、
悪いより「良い」の方がいいじゃない。
素敵じゃないより「素敵」の方がいいじゃない。
優しくないより「優しい」の方がいいじゃない。
ないより「徳がある」方がいいじゃない。
とても頑固な私です。わかっていても、やっぱり。

「宗教」というものに興味がある。
今まで出会って来た心に引っ掛かり続ける素敵な人、
また伝記などでその生き様に憧れる人、何らかの宗教を信仰していた傾向があるから。
何か強い信仰のある人の醸し出す凛とした揺るがない美しさ、律された穏やかな空気感、惹かれるものがある。

それは宗教の強さなのか。はたまたその人個人の強さなのか。
その宗教が崩れたとしたら、その人も崩れてしまうのか。
一体どこまでその人の人格形成に宗教が介入しているのか。
私は宗教がないから弱いのか。宗教があったら絶対にあの人のように強くなることができるのか。

そんなことを漠然と考え続け、関連の本を手に取ってきました。
「宗教」それはあまりにも大きなものであり、私のいま有する情報知識はあまりにも微々たるものであるが、これからも考え続ける上で、足跡としてここに文を綴っていきたい。

石田明人さん著書「宗教を「信じる」ことはどういうことか」より

“キリスト教の歴史全体を眺めれば、そこにはプラスの面もありますし、同時にマイナスの面もあるのです。
明らかに善い側面がある一方で、明らかに悪い側面もあるので、この宗教文化を全体としてはどう評価すればいいのか、正直に考えようとすればするほど、迷ってしまいます。
しかし、矛盾のように見える全体がこの宗教文化の全体なので、どちらかの一面だけを強調して他方を無視することは、評価として不誠実です。
重要なのは、人間は信仰を持っていても、いなくても、善い面もあれば悪い面もあり、さまざまな矛盾や限界を抱えながら生きていく、という単純な事実を認めることではないでしょうか。“
“「キリスト教」は、時代的にも地域的にも広がりが大きすぎて、関わっている人も多すぎて、もはや一つの宗教として単一的な評価を下すことはできません。
「キリスト教は素晴らしい」と全肯定することはできませんし、「キリスト教はダメだ」と全否定することもできないのです。
それらはいずれも、歴史や現実の一部分を見ることでなされる偏見にすぎません。
ですから信徒たちは、そうした矛盾の歴史や中途半端な実態に耐えなくてはいけません。
言い換えますと、キリスト教徒は「キリスト教徒である」という自覚やアイデンティティそれ自体にはあまりこだわりすぎない方がいいと思うのです。“

どんな物事も良い面も悪い面も宿しているということ。イエス・キリストも。キリスト教という宗教そのものも。
宗教だけでなく物事へ白黒はっきり断言することの愚かさを改めて感じさせられた。

良い悪い、その両方なるべくたくさんの具体例をもっていることで浅はかな判断はされないのではないかと思った。そして他者から受け取る判断に動じない自分でいられると思う。
自分の良い面一つばかり公にしたり、特化しすぎると、いずれ自分の首を絞めるのではないだろうか。
もっともっと自分をオープンにして、沢山の経験を積み重ね、沢山の自分の面をもつこと。

「嫌われること」「評価されること」を怖がりすぎなくていい。
私のほんのほんの小さな欠片の、そして、その反面だけを切り取られただけの話ということ。
恐れずに他者からの愚かな〇と×を山のように受け取って、それを全部抱えて、へこたれずに進んでいけばいい。
大切なのは沢山の事例を持つことだ。

思い出したのは小説「塩狩峠」。キリスト教が迫害されていた時代の物語。
キリスト教にもこのような時代を経て今があるということ。
判断なんて移ろっていくということ。他者からの「判断」なんてあてにならない。
「自分」がどう思い、その思いをどう言動に落としこんでいくかということなのだと思う。

そもそも「判断」というのはとても弱い物であり、必要以上に怖がる必要はないということ。
でも頑固な私は、やっぱり他人からの「判断」が怖く、なるべくであれば「良い」判断をしてもらいたいと思ってしまう。

その中で今回学んだ助けになる考え方は、規模が大きくなればなるほど、確かな判断が難しくなるということ。判断そのものにも大きな幅が生まれるということ。だからどんどんどんどん「私」という規模を大きく育てていくことが自分を守る盾になりうるということ。

私はヨガインストラクターをしている。ポーズなどに重きを置かれがちですがヨガの「哲学」も長い歴史と共に存在している。その「ヨガ哲学」にも興味があり、コツコツと学びを深めている最中である。
私も「ヨガ」の歴史の一部を担っているということ「ヨガ」の断片であるという自覚をもっともっていくべきだと感じた。
伝える立場というのは「ヨガ」の歴史すべてを担っているということ。
私の言動によって「ヨガ」そのものの評価を大きく下げかねないという。流れを遮ったり滞らせる可能性も秘めているということ。
「ヨガ」を入口にして人を集める新興宗教の存在も沢山あると言います。

私は信仰しているという自覚がないだけで熱心にヨガの教えを信仰しているのかもしれません。そのつもりはないし、家族や友人、恋人、ヨガのお客様に強いるつもりもありません。
さまざまな宗教の教えや、心理学、哲学、倫理学、社会学、色々なことに興味があり、本を読んできた。
自分が未熟であり、自信がなく、もっと幅を広げたいと強く思っているから。
私は沢山の思考、考え方、捉え方に助けられるようにして、今ここまでどうにかやっと生き延びることができました。そんな私にとって、それらがない状態というのが想像できません。
だから大げさでなく、周りの皆はどうやってここまで生き延びてきたのだろうと思ってしまうのです。

こうやって綴る私の考え方が正しいとは思っていないし、ヨガの哲学が絶対であるとも決して思っていません。
でも、私自身が助けられたのは確かな事実であり、だからこそ、他の誰かの助けになる可能性はほんの少しかもしれないけれど、あると信じている。
だからこそ、ヨガインストラクターとして、NOTEの執筆者として、発信していきたいと思っているのです。
「確か」なものはありません。でも、選択を積み重ねながら生きていかなくちゃいけないのは確かで、だからこそ、その小さなお守りになってほしいと願っています。

「良く」ありたいと願うこと。
「良い選択」はどれかとなるべくこまめに立ち止まって問うこと。
問うても問うてもやっぱりわからないと感じること。
葛藤や矛盾に出会うこと。
その中で選んだ選択肢に誇りと愛と責任を持ち続けること。
そして手放した方の選択肢について思いを馳せることを忘れないこと。
それが大切なのかもしれないと思う。

一貫性は誰もが憧れ、それを持つことが難しいからこそ、素敵に映る。
信仰がなくとも一貫性を持つことは可能だ。
信仰があったとしても、どこまで一貫性を持つことができるかというのは人それぞれなのだ。
それは宗教の神の強さではなく、その人個人の強さであると私は思う。
キリスト教の教えも、仏教の教えも、ヨガの教えも、変わることなくずっと存在し続けている。
なにを信仰していようと、していまいと、目の前にある岐路で私は選び続けないといけません。どんな宗教をもとにしてようと、どの教えを指標にしていようと、今向き合っているその一つ一つの選択と行動の積み重ねが「私」を育んでいること。
それは宗教のせいにも、何のせいにもできないということ。

どこまで行っても孤独だ。

果たして神様はいるのだろうか。

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