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なぜ黒澤明は海外で評価されるのか?

映画監督・黒澤明が、世界のクロサワとなるきっかけは、1951年に『羅生門』がヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲ったことである。

『羅生門』は、公開当時、日本国内で一定の評価は得ていたが、ストーリーが難解だとして、批判的に受け入れられていた。それが、突如、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、国内での評価は一変する。

そしてまた、このグランプリ獲得によって、世界に日本映画の存在を知らしめ、黒澤明はその後、世界的巨匠として評価されていくようになる。

「スシ・サムライ・フジヤマ・クロサワ」

海外における日本のイメージは、「スシ・サムライ・フジヤマ・クロサワ」とされる場合がある。寿司も侍も富士山もわかるとして、「クロサワ」という一人の名前が日本のイメージになってしまうのである。

それほど、黒澤明は、海外での人気・評価が高い。

日本国内でも、黒澤明はもちろん評価されているが、海外での人気や評価は、ちょっと異常とも思えるくらいだ。

『スター・ウォーズ』の冒頭シーンは、黒澤明の『隠し砦の三悪人』のほぼパクリであるし、フランシス・フォード・コッポラが『地獄の黙示録』の撮影中、スタッフとともに繰り返し『七人の侍』を観ていたというのは有名な話である。

また、2018年、英国のBBCが世界の映画批評家209人にベスト10をアンケートし、外国語映画(英語以外)のトップ100を発表した際、堂々の一位は黒澤明の『七人の侍』だった。さらに、トップ100のうち、黒澤明作品は、『羅生門』(4位)、『生きる』(72位)、『乱』(79位)と、4本もランクインしている(他の日本人監督としては、溝口健二が三本、小津安二郎が二本、宮崎駿、成瀬巳喜男がそれぞれ一本ずつランクインしている)。

しかし実は、このアンケートに応じた日本人の批評家は、誰一人として『七人の侍』をはじめ黒澤作品をベスト10に選んでいない。黒澤明作品を評価したのは、全て外国の批評家である。

なぜ、黒澤明はここまで、国内以上の人気・評価を海外で得ているのだろうか?

その理由を一言で表すと、日本的なものを、西洋的に表現したからと考えられる。

日本文化の「型」

日本的、西洋的ということを文化という点で考えた場合、日本文化は、複雑で曖昧なものを、複雑で曖昧なまま受け入れ、その中に「型」を見出してきた文化といえる。

日本の代表的な建築家の一人である菊竹清訓は、自身の建築論を語った著書『建築代謝論 か・かた・かたち』の中で、認識のプロセスについて、以下のように述べている。

<かたち>を現象として感覚する段階から、<かたち>のなかにある普遍的技術あるいは法則性を理解する第二の段階に、そして最後に<かたち>の原理ともいうべき本質的問題をあつかう第三の段階

『建築代謝論 か・かた・かたち』より引用

この引用文だけだとわかりづらいので、端的に書くと、人が何かを認識する際、以下のプロセスを経るということである。

  1. 見たままの姿を感覚する「かたち」

  2. そこから法則性を見出す「かた」

  3. さらに真理は何かを思考する「か」

現象の中に見出される法則性「かた」を、より洗練させ、法則性そのものに美と意味を見出してきたのが日本文化である。

能、歌舞伎、書道、茶道、剣道、柔道、弓道など、日本の古典芸能や”道”には、いずれも洗練された法則を持つ「型」がある。

西洋文化の場合、どうか。現象の法則性は、「パターン」として識別され、それは、原理を知るための過程でしかない。西洋において真理を追求する哲学が発達したのはそのためだ。

これを表すと、以下のようになる。

西洋の真理の追求
日本の型の洗練

西洋文化の場合、複数の図形が秩序なく並ぶ複雑な現象に対して、真理は丸・三角・四角だと追求する。それに対して日本文化は、法則性を見出す。三角を結ぶと新しい三角が現れる。これは、この複雑な現象の「型」だ、と。

これを見た西洋の人々は、「Wow!」と感嘆する。彼らが行ってきた方法論とはまるで違うからである。しかも、その「型」は、洗練されていて美しい。

これは、現象に対するアプローチの違いでもある。

例えば、比較文化論で言及されることだか、西洋と日本では、住居空間の使い方が異なる。西洋は、部屋の決まった場所にベットがあり、テーブルがあり、机がある。それらは最も使い勝手のよい場所に配置され、固定される。

日本の古い家屋の場合、昼間はちゃぶ台が置かれ、そこで食事をする。同じちゃぶ台が机となり、夜になると、机は片付けられ、そこに布団が敷かれる。

これは、居住スペースの狭さという物理的制約の違いから生まれたことでもあるが、しかし、限られたスペースという現象に対するアプローチが異なっているのである。

西洋は、現象を人に適応させる。日本は、現象に対して人が適応するのである。

これは、上述したように、現象の形を変えてでも真理を追求する西洋文化と、現象はそのままに、その中に型を見出す日本文化との違いでもある。

黒澤明の西洋的アプローチ

黒澤明の作品に登場する人物は、侍であり、侍のような強い現代人である。そして、描かれるテーマは、ヒューマニズムという万国共通の理念である。日本の侍という、西洋からすれば好奇、もしくは神秘的なものを通して、ヒューマニズムという万国共通のものを、西洋的アプローチで描いた。

黒澤明の西洋的アプローチとは、わかりやすさである。黒澤明の作品においては、全ての場面で輪郭がはっきりしている。登場人物の輪郭。ストーリーの輪郭。動きの輪郭である。

なぜ輪郭がはっきりしているのかというと、黒澤明の作品はすべて、わかりやすい「対比」で描かれているからである。善人と悪人の戦い。師匠と弟子。静と動の動き。激しいアクションシーンに対して静かな音楽。

このような「対比」により、それぞれがより明確に輪郭を持って浮かび上がる。圧倒的なわかりやすさを生み出している。

そしてまた、黒澤明は、役者には強烈な演技を要求する。それは、わざとらしいとも言えるようなわかりやすさである。さらには、役者だけでなく、雨、砂埃、さらには太陽にまで演技、つまり自然という現象の姿を変えさせた。『羅生門』の大雨や太陽、『七人の侍』の決闘シーンにおける豪雨、『用心棒』の砂埃などである。

侍という日本的なものを西洋的に描いた、というのは、こういうことである。西洋人にとって、慣れ親しんできた方法論をさらに強烈にした形であり、実に受け入れやすい。そして、共感、感動する。

小津安二郎との違い

黒澤明と並び、海外で評価される日本の映画監督として、小津安二郎がいる。

しかし、黒澤明と小津安二郎が海外で評価されているポイントは異なる。小津安二郎は、日本的なものを、日本的に表現した監督である。

複雑なものは、複雑なまま。曖昧なものは、曖昧なまま。小津安二郎の作品には、黒澤明のようなわかりやすさはなく、曖昧である。子どもたちに面倒くさがられた親が、悲しい思いを抱いている時にも、悲しい表情はせず「綺麗な夜明けじゃった」と語るのみである。しかし、なぜかそこには侘しさや寂しさが感じられる。

それらを描くため小津安二郎が用いたのは、反復する構図、すなわち「型」とも取れるものだった。相似形の構図に代表される「型」を繰り返し描き、洗練させ、そして「悲しい」と言わず「悲しい」表情もせず「綺麗な夜明けじゃった」の一言で、悲しみを感じさせるのである。

これを観た海外の人は「Wow!」となる。西洋文化的な、真理の追求とはまるで違う。

西洋的アプローチと日本的アプローチ。真理の追究と曖昧さの洗練。わかりやすさと複雑さ。黒澤明と小津安二郎の決定的違いはここにある。

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