見出し画像

強い正しさと弱い正しさ

正しさはときどき息苦しい。

正しいとはなにか。

正しさは、絶対的なものではなくて、相対的なものだ。

なぜそうするのか、なにをやるのか、あるいはなにをしたのか。
それを濁りなく説明できるように常にいること、そしてそのとおりに行動すること。それはきっと正しい。

なぜそうするのか、が人に説明できない。
人に説明しても理解される合理性がない。
こういう場合、どこかに間違った、あるいは明確な根拠のない判断が含まれている。

なにをやるのか、それが定まってないままに行動することやゴールが明確でないままに進めることは誤った行動につながる。
そして、根拠のある判断に基づいて定めたとおりに動かなければ、間違ったものが生まれ、間違ったことが起きてしまう。

正しさを追求すること、それ自体は根拠に基づいて説明できる透明性の高いものであるし、結果的にいい効果をもたらすことが多い。
まったく悪いものではないし、いいはずのものなのに、どうしてどこか息苦しさを感じるんだろう。


人はときどき間違ったことをしてしまうから。

間違った判断、間違った行動、あるいはうまく説明できないことをしてしまう。

正しさだけで作られた世界は、そうした弱さを排除する。なんとなく、たぶん、そう思う、つい、思わず。そんなものを見逃さない。

弱さを完全に排除することはできない。どんなに意識を高く持っていても、人は間違える。怠けることもある、嘘をつくこともある、忘れることも、うっかりすることもやっぱりある。

強い正しさだけが基準の強い世界では、人は弱さを見せようとしない。強さを装わなければならない。
知らなくても知ってると答える、やってないことをやったと言う、あるいはその逆もある。知ってても知らない、やってないと隠す、嘘をつく。
小さな嘘や隠し事の積み重ねで見せかけだけで作られた正しさが、正しい判断を誤らせ、大きな事故や事件につながることがある。

正しさは大事だ。だから、小さなミスでも言い合える、小さなミスでも指摘し合える、そんな空気が必要だ。ミスしたら、仕事が遅れる、迷惑かける、恥ずかしい、ダメだなぁと思う、全部そのとおりだけど、それって当たり前だし誰にでも起こりうるものだよね、と。

正しく見せなければならないという気持ちが強くなるほど、見せかけの正しさの誘惑に負けそうになる。正しくしなければ、という思いは息苦しく、重い。そんな思いをさせる正しさの追求は本当は正しくないのではないか。

弱さを前提に正しさを組み立てたい。どんな偉いひとでも、子どもでも、ひとは間違える。間違いを隠したがる。大事なのは、そうした弱さをさらけ出せること、それを指摘しても空気を悪くさせないこと。間違いを明らかにすることで、間違いだらけになっても、それでかまわない。

間違いを認めあえる、許容しあえる、そうしてやり直せる、正しさを。



この記事が参加している募集

熟成下書き

読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。