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檸檬読書日記 森見登美彦万歳、本棚隙間問題発生、南瓜ノ種地獄襲来。 1月23日-1月28日

1月23日(月)

森見登美彦の新作が出た!嬉しすぎる。
ずっと待ち望んでいて、漸く漸くです。
その上その新作が、ホームズのことを書いているとか…。もう最高ではないか、ありがとうございます。

森見さんの作品は、1冊と特集を残して殆ど読んでしまったから、新作と聞いて舞い上がっている。これで残りの1冊を心置きなく読める。むふふ。もう勝者の気分。(どういうことだ?)

だがしかしここで問題になってくるのは、今買うか、はたまた、文庫が出たら買うか、だ。
表紙も素敵だし買ってしまいたい、が、単行本置き場がもう詰まってきている…。それに森見作品は全て文庫で集めているからなあ。うーん…待つ、か?
悩ましい。(幸せな悩みだな)



C・A・ラーマー『マーダー・ミステリ・ブッククラブ』を読む。

ミステリー、何よりもアガサ・クリスティ作品が好きなアリシアとその妹・リネットは、好きを語り合うための読書会を立ち上げる。
集まったのは、年齢も性別も性格もバラバラな5人。1回目は順調にアガサ・クリスティを語り合いうが、2回目の読書会で問題が起きた。そこには既にメンバーのら1人の姿はなく、その上行方不明だという。アリシア達読書会のメンバーは、協力し合って行方を探していくのだが…。

という話なのだが、とても楽しめた作品だった。
アガサ・クリスティ、特に『ポアロ』作品が好きな人にはきっと刺さるんじゃないかなあという感じ。
全員がアガサ・クリスティ好きとあって、作品達がちょこちょこ出てくるのも魅力的で、事件もきちんと作品に絡んでいるから、その点もアガサ・クリスティ好きとしては堪らないものになっている。

ミステリー本体も、先が読めず、鍵となるものは幾つも登場するのに、それがどれも謎だらけで、どうやって繋がっていくのか分からず、ワクワクする。先が読みたくなる。

とはいえ、解決は結構あっさりめで、いつの間にか終わってしまったという感じなのだが、それでも総じてとても楽しめた。

この作品、3巻まで出ているらしく、4巻も発売予定なのだとか。アガサ・クリスティ好きとして、この先も集めて読みたい作品だ。
その上次の2巻は「オリエント」の名をした船が舞台なのだとか。絶対面白そう。

いやぁ、この作品読んだらアガサ・クリスティ作品を、読みたくなってしまったなあ。大好きな『ポアロ』と『ミス・マープル』シリーズは、老後にゆっくり1から順番にと思っていたけれど…。悩むー。(これまた幸せな悩み)





南瓜の種。
この硬い殻を、爪切り(未使用)で周り半分をパチパチと取って、パカリと割いて、中から緑色の南瓜の種を出していく。

干して周りの薄皮を取った種を放置したまま、やろうやろうとは思っていたものの、中々やる気が起きずにいた。けれど漸く決意。
凄い大変だから、やる気が出ないとなかなか…。
でもこのまま放置するとまた増えてしまいそうだから、今日こそはやる!いや、今日から少しずつ…。(え)

頑張るぞー!おー!




1月24日(火)

少し本が増えすぎて本棚に隙間がなくなってきた。そろそろ整理していかなくてはなあ。

とはいえまだ全然余裕はあるけれど、不思議なことに新しい本棚になって隙間がたくさん出来た途端、隙間が減っていくのが嫌になるという矛盾が発生している。
本棚に納まりきらず積み上げていた時は何も感じなかったのに、空きが出来た途端埋めたくないという欲求が…よく分からない感情が出てきた。自分だけなのかな。

最近割と好みも変わってきたし、この機会に一新してみようかな。
本当最近好みなのか成長なのか、漫画が読めなくなってきた。(とはいえ、好きな物はまだたくさんあるけれど)昔は本より漫画が殆どだったのに。
まあでも、残念だけれど仕方ないよなあ。
それとも、世間の好みと自分の好みがズレてきたということだろうか…。おっと。いやでもそれは昔からか。大概話題になる前か後だったもんなあ。自分の中で盛り上がるのは。

とりあえず、整理しよ。



高原英理・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「蛇」を読み終わる。

稲子という女が見た夢の話。

とても短い話ではあるが、登場人物がごちゃっとしていて、結局誰が生きていて誰のことを言っているのやら分からなくなって、結局何がなにやら分からないうちに終わってしまったから、自分もきっと夢を見ていたのだろうなと思った。


小鳥が稲子の手にとまって羽ばたくと、そのつばさも玉虫色に光った。玉虫色のなかに、鮮やかな色が五色も七色もあった。
「ああ、きれいだ。」と思うほかに、稲子は一切の感情がなかった。宝石の尾の小鳥がいることも、その鳥が手にとまったことも、不審と思わなかった。


夢とは、そういうものだよなあ。不思議、という概念がなくなる。
この作品も「ああ、きれいだ」と思うほかに、なかった。

そういえば、川端康成作品にはよく「玉虫色」が登場するけれど、一体どんな色なのか知らないなと、ふと思った。
現代小説では見かけないけれど、昔のものだとよく見かける。でも、あまり気にしたことがなかった。
丁度いい機会かなあと思って調べたら、思ったよりどぎつい色で驚き。緑色が主で、そこに光の干渉か、黄色とか青とか赤とか、色々な色が反映されてギラギラ輝いている。本当にギラギラ、という感じ。

綺麗なものって、実際に見ないで想像の中で留めた方がいいことの方が多いよなあ。と思いました。




1月25日(水)

ずっとポストってなんだろうと思っていたけれど、ツイートのことだったのかぁ。へー。
いやはや、こうやって乗り遅れていくんだろうなあ。

でも、皆がサーフィンでブイブイ波に乗ってる中、自分はいつまでも浮き輪でプカプカしていたいなあ。身を任せます。
きっと必要な情報は、自分が欲しいと望めば、自ずと入ってくるものなのです。きっとね。




1月26日(木)

高原英理・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「犬」を読み終わる。

犬は「死神の御使」だという伝説があり、だから飼い主が死んだ場合、飼い犬も殉死しなくてはいけないという習慣のある町の話。

これもまたとても短い。
だが短いものの、畏れ渦巻く世界観に惹き込まれ、じわじわと恐さを感じた。最後は引きずり込まれるようだった。いや、落とされるかな。

それにしても、川端康成は犬があまり好きではなかったのかなあ。
そういえば川端康成は猫派だったっけ。あれ、それは三島由紀夫だったかな。あれ?



葉室麟『読書の森で寝転んで』を読む。


近頃、本が売れないのは、人生に挑む気合いが欠けているからではないかとも思うが、どうだろう。人生という戦場に出ていくからには、読書という武器が欠かせないと信じていたが、いまは違うのだろうか。


そういうのもありそうだよなあ。
自分という人生をどうするかよりも、周りを見て調整していくという感じだから、挑むというのは少ないのかも。
今も尚知識という武器は欠かせないとは思う。でも今はインスタント時代だから、直ぐに手に入らない且つ自分で取り入れなくてはいけない読書は、疎遠されてしまうのかもなあ。
読書は、自分と向き合うのに最適な手段だと思うのだけど…。
それほど、自分と向き合うことが減っているということなのだろうか。はたまた、向き合いたくない、とか。でも他人と向き合うのと同じくらい、人によってはそれ以上に、自分と向き合うのって怖いもんなあ。確かに確かに。



後約1年半かあ。
最近自分の心が離れていくのを感じる。
無力感と意味あるのかなあの繰り返し。続けられるかのかなあ。でも決めたところまでは頑張りたいなあ。

前々から色んなものに心が遠くなっていく時があった。でも離れすぎると人らしくないようで、何度も駄目だと引き戻していったけれど、最近それは執着なのかなと思うようになってきた。
もしかしたら藻掻くよりも、そのまま落としていった方が軽くなるのかも。なんて、思ったり。
身軽にすいすい、スキップスキップ。なんてね。




1月27日(金)

最近我が強い人が多すぎて、へにょりとしている。
自分、自分、自分と我先にのオンパレード。

「それでは歌って頂きましょう。欅坂46で『承認欲求』」

誰も、承、認、欲、求、強すぎて〜…。

という感じで、最近頭の中でずっとこの曲が流れてる。今、自分の頭の中再生回数で、1位かもしれない。トップ。(だからなんだという話だけれど)

もうなんだか、自分以外の人が見えていないのかなあと感じてしまう。もしや周りの人が透明人間になる特殊能力でもあるのだろうか。(そんな訳ないだろ)

ブルドーザーみたいに押し通っていく。
でも逆に凄いかもしれない。それだけ、我を通したいことがたくさんあるってことだもんなあ。自分はどうしてもと自分の意思を通したいものがあまりないから、少し羨ましくもある。
基本的に何でも良いと思ってしまうからなあ。それもどうかなあという感じだけれど。

でも争うよりもいい気がするけどなあ。
そんな自分でも、平和ではいてほしいという強い意思はあるけれど。でも自分の平和を押し通してまで、争うことはしたくないかなあ。押し通して守るために争ってしまったら、それは最早平和ではないから。だから結局は、どうしても通したいものがないということになのか。ん?
あれ、そもそも何の話だったか。我にやられすぎて、上手く頭が回らないぞ。あー、眠気が。ぱたり。

ごろごろ〜ごろごろ、あーあ、自分以外を少しでも尊重し合える、少しでも気遣える、平和な世の中にならないかなあ。(ずんの飯尾さん風に)

いやぁ本当、明るくならないかなあ。



喜多川泰『「手紙屋」~僕の就職活動を変えた十通の手紙~』を読む。

悩める就活生の「僕」が、ある日、夢の手助けをしてくれるという「手紙屋」の広告を見つける。
半信半疑で手紙を初めてみると、送られてきたものは「僕」にとって衝撃的なもので…。
10通の手紙を通して、次第に道を切り開き進んでいく。

働く、ということだけでなく、生きていく上て大切なことが示されていた。

この本、有名だからなのかnoteで何度も目にしていて、「手紙」好きとしてはずっと気になっていた。
漸く読んでみたら、何度も見かけるのが頷ける、素晴らしい作品だった。
もう取り上げたいところが多すぎる。
でもnote内でもっと素晴らしく上手く紹介された記事がたくさんあるから、詳しくはそちらに任せて、(決して面倒くさがったからではない。決して…アセアセ)とりあえず最初の手紙だけ。

今や、全てがお金で回っている。
だからこそ、お金がないと何も買えない、何も出来ないと思い、よりお金を求め、お金を中心に生きようとしてしまう。
お金が中心だから、より多く手に入る場所や事に目がいってしまう。お金で決めてしまうから、壁に当たる。

昔は、物々交換で成り立っていた。お互い欲しいと思う物を交換する。けれど今行っていることも、結局は物々交換。実際にはお金には価値はなく、それで受け取るものに価値がある。お金はただの方法にすぎず、いわば1番手っ取り早く交換出来る「物」。

欲しいものが必ずしもお金で手に入るとは限らない。
相手が求めるものも、お金とは限らない。
だからこそ、お金以外で相手が求める自分の価値を見つけ、お金以外で自分が望むものを探していくことが大切になってくる。 

まとめるならこんな感じかなあ。
自分がまとめてしまうと浅くなってしまうけれど、実際はもっと言葉に輝きがある。全体を通してハッとさせられることがたくさんあって、就活生に限らず、あらゆる悩みある人におすすめな1冊。
生きるのが少し軽く、前に進めるような、寄り添うように支えになりそうな、そんな本。

この「手紙屋」なるもの、もう1冊出ているみたいだから、そちらもいつか読みたい。





1月28日(土)

今月は読書記録の方が出なそうだから、代わりに今更ながらの海外文学10選でも書こうかなあと思って、ちまちまやっていた。けれどなんだか止めたくなってきた。
同時にやっていた小説で、気力をかなり消耗してしまった。もうガリガリです。ガリガリ。いや、ゴリゴリかな。

日記意外のものを1つ出したということで、もういいかなあ。出さなくても。うん、いいな。自分の10選なんて大したものではないしね、うんうん、そうだそうだ。
阿呆だから、いいやと思って書いたもの消しちゃったけど(本当に阿呆)、気が向いた時また書けばいいかあ。



辻信一・監修『ハチドリのひとしずく いま、私にできること』を読む。

森が燃えた。
森の生き物たちはわれ先にと逃げたが、ハチドリだけは違った。
ハチドリはくちばしに1滴水をためて運び、火の上に落とすことを繰り返した。
それを見た動物たちは、意味が無いと笑った。
ハチドリはそれにこう答えた。

「私は、私にできることをしているだけ」

このハチドリのように、自分に出来るひとしずくが書かれまとめられた本。

坂本龍一さんなど、名を知る人もいえば、そば屋や陶芸家など様々で、その人が自分に出来ると思うことが短く書かれている。
そのどれも地道でささやかなことなのだけれど、一人一人が共感してやっていったら、きっと世界を良く変えられる力になるだろうなというものばかりだった。

16人の自分に出来るひとしずくが載っているのだが、どれも良くて、素敵で、大切なことばかり。だけどその中で自分が特にいいなと思ったのを4つ。


昔の人はどれだけ水を大切にし、
神様にどんな思いで雨乞いしてきたか。
100人でも千人でも集めて
雨乞いをやりたいな。


大きなことばよりも、
何を食べるか何を買うかといった
ベーシックなところから変えていく。
3年前にベジタリアンになりました。


「いい一日だった」と感じられるだけでいい。
感じるということだけで、
多くのことが解決されていく、
と私は思います。


大切な自然を守れるかどうかは、
自分の住む家の軒先をツバメに貸すという、
ちょっとしたやさしい
心づかいにかかっている。


やはり、自然と共に生きていくことが、これからとても大切になっていくのだと思う。
この本が発売されたのは2005年、約20年前から、未来を危惧して、最悪な未来にならないために出来ることを書いている。
けれど残念ながら、良くなるどころか、未来は良くないものへと向かいつつある。地球沸騰もそう、この本では20年前から危惧しているが、結局なってしまっている。世界は燃えて、自然が壊れつつある。

でもだからこそ、森の動物がハチドリに言ったように、そんなこと意味が無いと諦め、そんなことして一体何になるんだと笑うのだろう。
確かに森の動物たちが正しいのかもしれない。それでも、ひとしずくが広がって2つ3つになれば、それがまた広がって変わっていくかもしれない。
そういう思いで、この本は書かれている。

この本の中には、小さいことだけれど、今すぐできることも載っていて、とても参考になる。
その中で驚いたのが、コットンの農薬使用料。商品作物の中で1番使われているらしい。口に入れないからいいかということなのだろうか。
それと驚いたのが、2位がタバコで、3位がコーヒー。特にコーヒーは意外だった。自分は味覚がお子ちゃまだからあまり飲まないけれど、コーヒー好きは多いからなあ。

後は牛肉。
元々牛肉は環境に悪くて色々入っているのは知っていたけれど、同じ重さの鶏肉を育てるのに比べ、3倍近くの肥料と20倍以上の水が必要というのは、知らなかった。
牛肉100gに対し、水は1万リットルを必要とする。この水不足の時代に…。だからより、水争奪戦が激化してしまう。
皆牛肉が大好きだから、食べないということは難しいのだろう。でも、減らしていってくれたらなと、願わずにはいられない。

1人の力は、ひとしずくのように本当に小さく、やり続けても結果が見えず無力感を何度も感じてしまう。
それでも、何もしないで崩壊へと向かうのを傍観するよりも、無駄だと感じても、何かをしてそれでも駄目だったとなる方が、何倍も良い気がした。

本当にひとしずくで、ぽとりと落としても届いていない可能性の方が大きくて、結局無駄に終わるかもしれない。
正直自分は優しくないから、それなら好きにしてくれと放り出してしまいがちで、それでもと引き止めたり説得したりすることは、これからもないだろう。人生はその人のものだから。
でも届け続けていたら、いつの日か届いてくれたらいいなあと思う。
争いのない、人々が明るく健やかに生きられる、人間よりも自然を優先する世界になるといいなあ、と。希望は大きく。

とりあえず、この本がたくさんの人に読まれるといいなあ。





南瓜の種取り出し作業終わり!
いやぁ、大変だった。毎日少しずつやって、出来たのがこれだけである。労働力に見合っていない気が…。まあ作る度に少しずつつまみ食いされていたのもあるけれど、それでもこの量よ。

きっともっと簡単な方法があるんだろうけどなあ。
前は殻ごと炒ったり、レンジで何度かチンしたりもしたけれど、あんまり上手くいかなかったんだよなあ。やり方が悪いのかな。
でもまあ、大変だけれど嫌いではないからいいのだけれど。

ちなみに、殻から取り出したものは、フライパンでパチパチ音がして色が濃くなるまで炒った後、塩コショウを振りかけて完成。

そういえば南瓜の種は、とても栄養価が高く、疲労回復の効果があるのだとか。




1月29日(日)


またも南瓜の種が出てきた。追加です。遠い目。
気力がまた溜まったらやろ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「林芙美子」編を読み終わる。

小説家。上京後の生活をえがいた『放浪記』が有名らしい。名前はよく見るけれど、読んだことないなあ。

苦労してきたからか、有名になると途端に周りが気になり、若い女性作家を蹴落とそうと妨害したりしたのだとか。だからか、追悼も厳しい。作家とは思っていないだとか、学べるものはないだとか、散々な言われよう。
ただ川端康成は林芙美子が行ったものに対し、死んでしまえば罪は消える、だから許してやってくれと言っている。うーん。

なんか色々仕方ないよなあということがたくさん書いてあった。(雑だな…。まとめる元気がない。南瓜の種に全てを吸い取られました。)







ここからは、創作小説『雪世』について。

自分なりに、川端康成のイメージを作品にしたもので、個人的に川端康成とは「雪」「美しさ」「儚い」「白」「陶器」「曖昧な生と死」だった。それらを詰め込んだのが、今回の作品。

読んだ作品数が少なく、修行があまりにも足りないせいで、未熟なものになってしまったけれど、それても自分的には結構頑張って完成させた作品ではあった。川端康成の足元にも及ばないし、再現出来ているのかも疑問だけれど、それでも前よりはよく出来たと思うんだけどなあ。
だから欲を言えばもう少し…とは思ったけれど、うーん、難しい。やはり才能がなかったのだなあ。
でも、見て貰えたら良いなあと思っていた方達には見てもらえたから、もうそれで十分かな。それにまさかのコメントまで…むふふ。(気持ち悪いな)

気を取り直して。
『雪世』には一応「人が結局のところ1番怖し」というテーマがあったりする。
どこまで伝わったかは分からないけれど、正直その点をはっきりさせるか曖昧にさせるか結構迷った。
川端康成作品の場合、どちらかというと、はっきりさせる系が多い気がする。(参考は、高原英里『川端康成異相短篇集』だけで、全てこの1冊のみの個人的見解だけど)
だからこその最後の衝撃力なのだが、自分がそうすると人の匂いが強くなってしまう恐れがあって、近くなりすぎるてしまうから、敢えてふわっとさせてみた。のだけど、もしかしたら伝わりづらかったかもなあと…。いや逆に分かりやすすぎたかな。うーん、どうなんだろ。

もう1つ迷ったのが、名前。
川端康成は、数ページの本当に短い作品でも、登場人物たちにきちんと名前を与えているケースが多い。だから自分も付けようかなあと思ったけれど、どのタイミングで出せば自然なのかが全く分からなかった…。何処で出しても崩れてしまう気がして、止めた。まあ、考えるのが面倒だったというのもあるけれど…。(それが本音だな)

何より頭を悩ませたのが、硬い文章よ…。何度も直してそれっぽくしようとしたけれど、何処まで近づけたやら。
少しでも川端康成みを感じて頂けたら良いのだけれど。
まあでも結局、それなら川端康成作品を読んだ方が断然いいよなあ。確かに。ということは結論、川端康成作品を読む人が増えてくれないかなあ。

そして自分は事実をきちんと受け止めて、日記(時々記録)に専念します。



ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
また風邪が流行りだしたようで、皆様の健康を心から願っております。
ではでは。

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