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「祈り」とブーメラン


おれが、神社で手を合わせ祈る理由

おれ、実はできるだけ毎日、近くの神社にお参りに行っているのね。

そして、お祈りをしている。
何をお祈りしているかっていうと、慈悲の瞑想(メッタ瞑想)の簡易版を唱えているのね。

「私が穏やかで幸せでありますように
私の愛する生命が穏やかで幸せでありますように
私の親しい生命が穏やかで幸せでありますように
私の嫌いな生命が穏やかで幸せでありますように
私を嫌っている生命が穏やかで幸せでありますように
私を陰で支える全ての生命が穏やかで幸せでありますように
生きとし生けるものが穏やかで幸せでありますように」

こんな感じで、ほぼ毎日、神社で手を合わせているわけですよ。

なんで行き始めたかって言われると、シンプルに気持ちがいいんだよね。
なんか自分が整う感じがするから。

そもそも神社って境内に入ると、調子悪い時はすげー鳥肌立って、
いろんなものが身体から出ていく感じがする。

それもそのはずで、お寺と神社は違うのね。
お寺は仏教、神社は神道。

お寺に入った時と神社に入った時って身体の感覚が違うから
よかったらよーく感じてみて。

そんで、神道は汚れを嫌うのね。
神道には「禊(みそぎ)」と「祓(はらい)」という概念がある。

禊は、手洗いをしたりして心身の浄化をして、
祓いは、悪縁や邪気を祓うのね。

つまり穢れ(けがれ)を祓う場所。清める場所なのよ。
(ちなみに神社にはお墓がないよね。それは「死は穢れ」とされているからなのよ)

だから、おれが変なものを抱えて、神社の境内に入ると一気に鳥肌が立って、毛穴中からなんか出ていく感じがする。

そんで出る時にはちょっと調子良くなってくのよね。不思議よねえ。

縄文時代に争いが起きなかった理由

まあこれは余談で、これからがメインの話ね。
神道ってさ、「現代の神道」と「古神道」があって、違うのね。
古神道は、外来文化、外来宗教の影響を受ける以前に存在していたの。

古神道では、「神」は自分の外ではなく「内側」にいるのね。

古神道は縄文時代からあるんだけどさ、
縄文時代は1万年以上続いたすごい時代なのよ。

弥生から現代はせいぜい2000年ちょっと。
一つの時代が1万年以上もずっと続いていた。

そういえば、「縄文型ビジネス」「弥生型ビジネス」って
ちょっと前に話題になったよね。
おれはけっこー好きだから興味があったら調べてみて。

そんで、縄文時代には「戦争」がなかったと言われているのよ。
(縄文時代の遺跡には紛争の形跡がない)

その理由は、「天然資源が潤沢にあったから」ではないのよ。
同じような条件で、他の大陸では紛争があったから。

なぜ縄文人は争いをしなかったのかといえば、
その理由は縄文人は外に「神」を作らなかったから、と言われているの。

「神」は人それぞれの「自分の中にある」と信じていて、
お互いの「神」を尊重しあったからと言われている。

自分の「神」が尊重されるには、相手の「神」を尊重しなければいけない。
全ての対象の中に宿る「神」を尊重しつつ、自分の内にある「神」に感謝するのが古神道の基本的な考えなんだってさ。
(仏教でも全ての人の中には仏性があるっていうのに似てるよね)

己に宿る神に出会い、自らを動かす

でね、神社の参拝ってなんのためにあるか知ってる?

おれは知らずに、ただ気持ちが整うから参拝してたんだけどさ。

神社の参拝って、「自分の神に出会う儀式」なんよ。

神社って、産道(参道)を通って子宮(宮)に戻るという、生命の根源回帰のイニシエーションで、神社の中にある御神体は鏡なのね。
(中に入ると丸い鏡が置いてあるよね。)

これさ、お参りしたのは、鏡に映し出された自分ってことなんよ。
つまり、「自分の中にある神様」に感謝をするための儀式だったのね。
「自分の中にある神」に出会うために参拝に行ってたんよ。

でよ、おれ、神社でなんて言ってた?

「私が穏やかで幸せでありますように
私の愛する生命が穏やかで幸せでありますように
私の親しい生命が穏やかで幸せでありますように
私の嫌いな生命が穏やかで幸せでありますように
私を嫌っている生命が穏やかで幸せでありますように
私を陰で支える全ての穏やかで幸せでありますように
生きとし生けるものが穏やかで幸せでありますように」

これ言ってたんよ。

つまり、これ、おれの中の神に頼んでた。

それはどういうことかって?

これやるの、おれってことやん。

おれが願ってたことをやるのは、おれの中の神。
つまり、おれの中の神がやるのだとしたら、おれの肉体でやるんやん!!!!!
おれが自分でやるんやこれーーーー!!!!!!!

と思って、ハッとしたわけよ。
いや、当然、仕事は上記の願いのためにあるしさ、みんなが幸せになりますようにって仕事してたよ?
でも、盛大なブーメランよ。

おれが願うことは、全部おれがやるんや!!!って思ってさ。
なんかびっくりしたけど、ちょっと嬉しくなった。

おれの中には神がいて、その力を借りて、おれが願ってたことを最大限やっていくのがおれの人生なんだなあって思ってさ。

己の神を現実世界でどう表すか

でさ、「向上の道」と「向下の道」って言葉がある。
これは禅の言葉なんだけど。

「人は皆生まれると、知らぬうちに向上門をくぐり、向上に励む。
己とは何かを問いかけ、一歩一歩向上の道を上っていく。

しかし、それは独りの道である。一人を究めんとする孤独の道。
その道の先には向下門という門がある。

それは自分が究めたことを世の人々に示せるか、どんな人にも分かる言葉で示せるかを試される門。
この向下門を下り得た者のみが本当の意味での人生の合格者である」

という感じなのね。
人は、自己成長を求めて、頑張って頑張って「向上の道」を進むよね。
そして、ある時を境に、「向下の道」を歩むんよ。

これってさ、
自分の中の「神」に出会った時なんじゃないかなあって。
それは「魂」とも言えるかも知れないし、「天命」や「人生のミッション」「今世での役割」と言ってもいいかもしれない。
(古神道の内なる神の話と仏教の禅語の世界を同時に解釈してるんだけどさ)

自分の中の「神」つまり、自分の「魂」であり、「中心」に出会った時、
ただ、そこから降りてくるイメージや感覚に従って、内なる神から現実世界に向けて、

「向下の道」を歩んでいく。

そーゆー感じなんじゃないかなあって。
だから、自分のやりたいことはなんなのか、自分はどこに向かってるのか、とにかくいろんな体験をして、成長していこう。これが「向上の道」。

そして、どこかで自分の中にいる「神」に出会う。
「魂」であり「天命」「人生のミッションだなあ」というものに出会う。

そこからは「向下の道」を歩むだけ。
ただ、自分の中の「神」を世の中に示して伝えていくだけ。

おれさ、今の「心の仕事」にしてからは、「戦略的思考」って一切やってないんだよね。なんか、全部イメージで降りてくるんだよね。

で、思ったことを全部言葉にしてるだけ。
ある種、「向下の道」なのかなあって思ったりする。

まあ、何はともあれ、いつも神社に参拝していたのは、自分の中にいる「神」に会いに行ってただけで、盛大なブーメランでしたって話。

そして、おれの仕事は、
みんなが自分の中の「神」に繋がれるようにしていく仕事だ。

そこに繋がれなくしているのは、
「マインドの分裂(良い悪いの二律背反)」だからさ。

自分の中心を明らかにして、
マインドの分裂を一つ一つ統合させていくのがおれがやってること。

まあ「神」とか言うと怪しがられるから、基本的には言わないんだけどさ。
おもしろかったから書いてみたよ。


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