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雑感記録(254)

【哲学について思うこと】


ここ最近、ふざけたことばかり書いているので、じっくり時間を掛けて真面目に書いてみようと思う訳だ。

僕はしばしばこのnoteで「哲学っぽい」ことや「文学っぽい」ことなどについてあることや無いことを馬鹿の1つ覚えのように書き殴っている。だが、これは過去の記録でも書いたが、あくまで僕がやっていることは「それっぽいこと」にしか過ぎず、到底そのもの自体を語れているという訳では決してない。これについては本当に注意を促したい。

こういう書き方をすると、僕は「哲学をしたいんだ」ということが裏にはあるのではないかと思われる。自分自身でそう思ってしまった。しかし、そう考えて「いや、別に僕は哲学をやりたい訳でもないんだよな」と直ぐに居直ってしまう。そもそも、僕には哲学は不可能に等しい。僕は人に誇れる程、思慮深い人間ではない。哲学をするなどと大仰なことなど口が裂けても言えないのである。

哲学をすることは「考える」ということではないと僕は感じている。「考える」という言葉は危険な言葉である。「考える」という言葉を使えばそれに対して深く向き合っているというニュアンスが少なくとも入っている気がするからだ。「哲学すること」と「考えること」には大きな隔たりがあるような気がしてならない。しかし、こう書いてみて哲学に触れている人なら「当たり前」のお話でもある。

加えて、この手の問題については数多くの哲学者と呼ばれる人たちや、こういうSNSの媒体で発信している数多くの人々が語っていることである。僕にはそれを総覧する余裕などは決してないので、彼らが何を書き、何を思っているかは知る由もない。だから、ここから書くことは僕の妄想の閾を出ないということだけは断っておくことにしよう。


「哲学をすること」というのは、僕が思っている肌感だと、立体的な思考のことを指す。「考えること」が平面的な思考である。僕はそう考えている。こうしてここで「考えている」という言葉を使用した訳だけれども、平面上に並べている感覚である。僕の思考の中心が今「哲学すること」と「考えること」である。そこから平面上に開かれた言葉を並べる作業が「考えること」である。言葉で表現するのが難しいのだが、いずれにしろここでは「考えること」は平面的思考であるとイメージしてもらえればそれで十分だ。

対して、「哲学すること」というのは立体的思考であって、平面に加えて高さが加わる。つまり、深度が関係してくる。この深度というのがまたどう表現したらいいか難しい。奥へ奥へと沈んでいくイメージ。ずぶりずぶりと奥底へ沈んでいくイメージ。問いそのものが消失していくような、そんな感じだ。気が付いたら遠くに来ているそんな感覚だ。問いが溶けて一緒に沈んでいく。そんな感じだ。

と、ここまで書いてみて、イメージでしか語れない。その現実に僕の言葉の力の無さに哀しくなってしまう。こういう時に言葉で表現することの限界を感じてしまう。今、これを書きながらそのイメージ、つまりは先に書いた「哲学すること」と「考えること」の映像はずっと頭の中に存在している。映像としてくっきりと僕の頭の中を流れている。頭の中の映像を今、こうして言葉に置き換えているというこの作業が酷く滑稽な感じがしてならない。何だか僕は猛烈に複雑な作業をしている。そんな気がしてならない。

この深度というのを時間と捉えても良いのかもしれない。これはつまり、深さというのは時間の経過である。深くいけば深くいくほど、閉じられた空間で根源的な方向へ遡ることである。遡るというのは、簡単に言うならば「その本質へと向かう」ということである。そこにある対象には固有の時間が存在していると僕は思っている。例えば、今こうして打っているキーボードにも時間は存在している。厳密に言えば「時間を所有している」ということなのだと思うけれども、それ固有の時間を所有している。

それで、この沈んでいく感覚というのは僕の中で同時に堕ちて行く、そして先に答えを書いてしまっている訳だが、遡ると書いている。つまりはその物の根源に向かうために過去の時間へと戻る。そんなようなイメージを僕は持ってしまう。僕にとって「哲学をすること」というのは、詰まるところその根源へと向かい遡って行くこと。時間性を遡ることに他ならないのである。


それで、僕はハタと気付いたことがある。

今、この現代に於いて所謂「新しい哲学」というものは存在していないような気がする。つまりは、過去の哲学の読み替えを行なっているのであると。それはどの哲学者を読んでもそんな感じだ。僕が好きで読んでいる柄谷行人でさえ、「交換様式」という概念を生み出すが、その根本にあるのは様々な過去の哲学の集積である。事実、『力と交換様式』の最初では「交換様式A」と名が付けられているが、よく読めばフロイトの『快楽原則の彼岸』に於けるエロスとタナトス、そしてモーセの『贈与論』に於けるハウという話から語られている。それを柄谷行人流に読み替えているに過ぎない。

こう書いてしまうと、何だか簡単な作業なように思えてしまうが、これが難しいのである。僕のような凡人には到底できない作業だ。関係のない所から新しい何かを生み出すという作業は途方もなく美しく、そして棘の道であることは言うまでもない。

いずれにせよ、今の哲学と呼ばれるもの、そしてこれは原初的な部分でもだが、過去の哲学を否定したりあるいは肯定して更に高めていくという作業で今日まで存在し続けている。常に誰かが更新していく作業である。そう考えてみるとヘーゲルの弁証法はやはり偉大だったのだなと僕には思えて仕方がない。まあ、そんなことはどうでもいい。

それで、先のイメージ、「哲学すること」のイメージの話に戻りたい。

僕は先に「立体的な思考」と書き、尚且つ深度のある所へ堕ち遡ることとも書いた。過去への帰還。だが、時間は過ぎ去った時間に於いては有限であり、始まりというのは分かってしまう。そこまで辿り着けばその「立体的な思考」の底に到達してしまえる。だが、「哲学すること」の愉しみはその底に到達する事ではない。そこから更に深度を持った別の方向で深度を増すことにある。勿論、底を目指して進み留まるのも結構だが、そこまで長く息を止めておくことなど不可能に等しい。


ここまで長ったらしく書いたけれども、最後に僕にとって「哲学すること」とは何かと聞かれたらこう答えることにしたいと思う。

1.「堕ちる」(堕落する)こと
2.立体的思考
3.更新作業

僕は以前、と言っても最近だが「堕落すること」の重要性みたいなことについて書いた。人はどこまで行っても「堕落すること」が出来ない。だけれども、堕落することで初めて制度などそういったものが見えてくると。

「哲学すること」というのは畢竟するに「堕落すること」と同義なのかもしれないなと思ってみたりもする。加えて、僕にはディオゲネスが思い出される。所謂「樽の中の哲人」と呼ばれた人間である。樽の中で考え続けるなどとは些か信じられない訳だが、しかしこのぐらいある意味で「堕落すること」が出来たのならば、より深度のある思考が出来たに違いない。

とここまで書いてみて、ふとエリック・ホッファーも思い出される。これは恐らく「樽の中の哲人」というワードから連想されて「波止場の哲人」と称されたことが思い出されたのだろう。偶然にも柄谷行人が翻訳している本が確かあったはずだ。タイトルは『現代という時代の気質』だ。

成熟するには閑暇が必要なのだ。急いでいる人々は成長することも哀微することもできない、彼らは永遠の幼年期の状態にとどめられているのである。

柄谷行人訳 エリック・ホッファー「未成年の時代」
『現代という時代の気質』
(ちくま学芸文庫 2015年)P.28

冷静に考えて、堕ちていくことで初めて閑暇を得ることが出来るのではないかと僕には思えるのだ。「堕落すること」によって初めて見えてくるものがある。そして初めて人は「哲学すること」と本気で向き合えるのかもしれない。恐らくだけれどもね。僕には分からないけれども。


そんな感じで僕は哲学について考えている。

くだらない話さ。

よしなに。

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