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雑感記録(64)

【時間について(殴書的覚書10)】


先日、美容院に行ってきたついでに相も変わらずジュンク堂へ行ってきた。ジュンク堂も今月末までということもあり、フロアも人で賑わっていた。レジに並ぶ長蛇の列を目の当たりにした時に驚いたものだった。というより何だか複雑な気持ちになった。「こういう時に限ってこの機を逃さないとばかりに駆け込んできて沢山買っていくだなんて…」と思ってしまった。まあ、僕には関係のない話だ。

ジュンク堂へ行くと僕は真っ先に哲学・宗教のコーナーへ向かう。今日はどんな本があるかなと…と言っても変わり映えのしない本のラインナップなのだがそれでも背表紙を見ているだけでも愉しいものがある。そんな中、とある1冊の本を見つけた。

最近はこういう系統の哲学の本が数多く出されている気がする。何だかこう「役に立つ」とか「すぐ使える」とか色々と文言はあるのだけれども、どうも僕はそこが毎回引っ掛かる。以前の記録でも少し触れたのだけれども、「100分de名著」も同じ部類だと思っていて、凄く嫌な気持ちになってしまう。


最近の傾向か分からないのだけれども、こういった本に関しても「時間」というものが非常に重視されているという風に思うのだ。例えば自己啓発本が数多く売れることや、大衆小説が幅を利かせており、難解な本(これは小説でも哲学でも何でもいいのだが)は敬遠されがちな傾向にあると思われて仕方がない。何というか読み手が「読み手」ではなく「お客さま」へと変容している気がしてならない。

これは非常に危険な状況であると思われて仕方がない。読書の醍醐味が奪われ、読書という行為そのものの存在が危うくなっている。

先日、YouTubeでたまたまこの動画を見て、なるほどなと納得した。いや、納得したというのではない。激しく同意した。この動画のタイトルにある通り「非効率でコスパが悪いからこそ本屋は良い」なのだ。ここではあくまで本屋にフォーカスされているが、こと読書行為という点に於いても共通するものである。別に僕は成田悠輔さんのファンではないが、この方の言っていることはこれに限定して言えば間違っていないと思う。

僕はこの動画の中で「コスパを求めるなら死ねばいい」と言っている箇所があり、結構過激なこと言うなと思ったがあながち間違っていないと思った。コスパを求めるということであれば、僕らの存在自体が無くなればそもそも自分自身の生活のことを考える、考えさせることが辞められる訳で客観的に見れば非常にコスパはいい。人が減ればその分他のところに充当できると考えれば、そりゃ死んだ方がコスパはいい。


僕はこの記録の最終部でも書いているのだが「読書をすることは単に「頭が良くなる」とか「文章能力が向上する」とかそういった表面的な効力をもたらすものではない。読書を通じて、言葉を通じて、この世界との関り方、繋がり方を身をもって体験すること。それが真の読書である。」と書いた。

これが僕は読書の醍醐味だと考えている。これはコスパを求めている輩には到底分からない世界だろうし、まあそもそもコスパを求めている人はこんなこと求めてないだろう。こういう経験をするためには非常に効率悪く本を読み込み多くの言語に触れ、より多くの作品に触れ続けることが重要であると思うのだ。

「役に立つ」ということや「すぐ使える」ということを求めている人には読書は向かないだろうと思う。というよりも、それは果たして読書という行為をしていることにはならないと僕は常々考えている。

いや、もっと根本的な話をしよう。そもそも哲学や小説、ありとあらゆる芸術は「役に立つ」ため、はたまた「すぐ使える」ために創作されたものなのだろうか?


創作者はただ自身の思考の流れをその創作物に込める。そしてその思考の流れは何年、何十年と熟成されたものでありそう易々と僕らが理解できるものでは決してないと思うのである。理解が出来ないからこそ、そこを辿っていく、創作者の溢れんばかりの思考の波に上手に乗ることが愉しさの1つなのではないだろうか。

それに創作者はあくまで自身のためにそれを創作している。誰かに向けたメッセージが込められていることも十分に可能性として考えられるが、畢竟するにその創作物はその創作者のものであり、僕らが独占できる程そうたやすくはないだろう。安易に理解できてしまうものなど、所詮そこまでのものなのではないだろうか?

創作者の思考の時間はたまた空間を僕らは創作物から解きほぐし、その思考の流れに身を任す。打ちひしがれることも当然あるだろうし、コテンパンにやられてしまうこともあるだろう。また、その流れがあまりにも流麗過ぎて酔いしれることも十分にあるだろう。しかし、これはすぐに得られるものでは決してない。言わばサーフィンのようなものである。……そう、読書はサーフィンみたいなもんだ。(サーフィンやったことないけど)

創作者の思考の波に向かって、自身の思考で作り上げたボードを利用して乗っていく。上手く乗れれば気持ちいものだが、うまく乗れないとき要は思考の波にやられてしまった時、そこに現れるのは焦燥か?はたまた期待感か?僕らは思考のビッグウェーブに乗るために僕らは自身の思考力を磨き、そして技術を磨き続けるのである。


ハッキリ言ってしまおう。読書にコスパを求めてどうする?哲学にコスパを求めてどうする?小説にコスパを求めてどうする?思考にコスパを求めてどうするというんだアホどもめ。

よしなに。

最近刺激を受けている本たち。最近はニューアカとラカンにご執心。








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