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雑感記録(204)

【憧れる関係性】


今日はテレワークで1日自宅で仕事をした。

これでテレワークは3回目となる。「3度目の正直」という言葉があるが、3度だけでは慣れないなとつくづく思う。僕の場合は。どうもテレワークが苦手である。自宅というある種、僕にとってのサンクチュアリ(聖域)な訳で、そこに仕事を持ち込むというのはどうもダメだ。

便利さというのは人を堕落させる。しかしだ、これは自分の弱さでもある。自宅で仕事をするということは既に分かり切っていることだ。だったら最初からテレワークなどしなくていいではないか。そこで何故、僕はテレワークを選択したのか。ただセミナーの動画撮影をしなければならず、会社でだたっぴろい会議室を借りてやるのは忍びなく、自宅で撮影したくて今日はテレワークにしたのだ。

しかし、撮影中にどうも会社の環境でやらなければならない部分が発生し、結局のところ今日中には終わらなかった。しかも今週にシステムの改修があるので今日撮影した動画は意味をなさない。何故なら僕が撮影したシステムは旧システムだからである。撮影、編集後にそれに気付き僕は絶望した。何時間も掛けて撮影したのに…。先輩に何と報告すればいいのか…。

ただ、そんな中でも発見があった。

僕は話すことを制限されることが嫌いであるということだ。セミナーの動画なのである程度決まったフォーマットを話す。しかし、どうも文章が固くなって仕方ない。録音した自分の言葉を聞き、何だか死んだ言葉を話しているみたいで凄く嫌だった。何かを伝えるというのに一方的に話をするのがどうも苦手だ。言葉は交換されることで初めて言葉が言葉として意味を持つのだと思う。それに僕は元々、人と話すことが好きなので、1人でパソコンに向かって話すことは苦痛でしかなかった。

先輩は「もう思うままに話していいよ。アドリブで。」と言われたのだが、目の前に相手がおらず、反応も見れないにも関わらず1人で話すなんて苦しい。それに決まった時間内に話すということで、発展性もない訳だ。どうしたものかと苦心しながら動画撮影に1日励んでいた。ただ、先にも書いたが今まで撮影した動画が意味がないと分かってしまった途端にやる気が失せてしまったのだ。もうどうしようもない。


それで、会社のパソコンと睨めっこして事務作業をこなしているのだが、どうもやる気が起きない。本当ならば決してやってはいけないことだが、自身のパソコンのモニターでNetflixを起動してドラマや映画を1日垂れ流しにして仕事をした。

今更だが、僕は『サンクチュアリ-聖域-』を見た。

前々から人気があることは知っていたが、今まで見たことはなかった。どんな作品なのかなと遅ればせながら見たのだが、これが凄く良かった。ストーリーも面白かったし、成り上がる感じも凄く良かった。相撲界を知らない人でものめり込んで見られた。実際にああいう世界が繰り広げられているのかは定かではないが、身体を使うスポーツは所謂「スポ根といじめの境目」が見えにくい構造なのだろう。加えて上下関係という部分も大きな要因になり得るだろう。

僕が個人的に良かったなと思ったのは、忽那さんが演じておられる新聞記者の突っ込んでいく感じが好きだった。「相撲界に風穴をあけるぞ」という気概がどんどんと相撲に対する愛に変わって行くところが凄く良いなと。結局のところ「何かを変えたい」と思ったらそれについてよく知らなければならない。そしてそこに対する愛があってこそ初めて動き出していく。「何かを変える」には「愛」が必要であると気付かされる。

一ノ瀬さんが演じておられる主人公も、最初は相撲に対して真剣に向き合っていなかった。だけれども話が進んで行くごとに紆余曲折あり、相撲に対して真剣に向き合っていくことになる訳だ。真剣に向き合うこと、それが仕事上であったとしてもそれは「愛」なのではないか。何かに向き合いたい、だからこそ知りたくなる。そして気が付けばそれは「愛」になる。

これは畢竟するに人間関係にも相通じるところがあるのではないか。

誰かを好きになるということの原初は、まずその人に対する興味関心から来るのではないか。その人のことを知りたい。そこから関係が始まる。友人関係も恋人関係も、夫婦関係も。これを綺麗ごとというのならば笑えばいいさ。ただ少なくとも僕はそれを『サンクチュアリ-聖域-』から教えて貰った気がする。それだけの話。


その後、Netflixを漁り、『パルプフィクション』が見れるようになっていたので、「こりゃいい。タランティーノ作品を纏めて見るか。」と思い立ち、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も見た。実は今日が人生初『パルプフィクション』だった。僕は晴れて『パルプフィクション』童貞を卒業したのである。おめでとう、自分。

初めて見て、「え、ジョン・トラボルタ出てるの?」というのが1番衝撃だったというか。僕の中でジョン・トラボルタと言えば『サタデーナイトフィーバー』の人というイメージしかない。とにかく踊る人。その時も格好良かったのだが、『パルプフィクション』のジョン・トラボルタもまぁ格好良くて…。少しふくよかになっているなとも思った訳だが。それでも思わず惚れ惚れしながら見入ってしまった。

個人的に印象に残った場面は、ボスの奥さんと夜ご飯を食べている所だ。あそこでタバコを吸いながら「バニラシェイクが5ドルもする、高い」と謎にこだわる所だ。何だか妙に惹きつけられてしまった。あそこの場面が何だか僕の心をざわつかせた。彼は一応、殺し屋家業をしている訳で、ストーリー最終でサミュエル・L・ジャクソンの財布から1,500ドルが出て来る。お金を持っていそうな人がシェイク5ドルにこだわるのは面白かった。

この映画の時系列も結構面白くて、映画の最初と最後が繋がる。

何と言うか、映画が円環をなしているというか、変なことを言ってしまうのだが、映画自体が運動しているみたいな印象を受けた。映画自体がグルグル回って循環運動をなしていて、映画それだけで世界が上手く完結しているような感じがした。何となくだけれども『パルプフィクション』が高評価の理由が分かった気がする。要は、映画そのものが人間と同じようにそれ単体で息をして生き物のように存在しているということを僕は言いたい。

例えば、あらゆる作品に時間軸があるのだとすれば、数直線のように進んで行く。話が進んで行くごとに作中の時間も進んで行く。これは至極当然のようなことに思えるが、これは何と言うかあまりにも僕ら側に寄りすぎているような気がする。仮に作品について考える場合、数直線の時間軸で展開される作品であれば我々が外部から引張ってきて語ることになる。ところが、『パルプフィクション』は数直線の時間ではなくて、円環の時間である。外部からの引張りを寄せ付けないような印象だ。

『パルプフィクション』について語るにはもしかしたら、その円環を貫く何かを考察しなければならないのではないだろうか。そして、それは外部からの力ではなく、作品という生き物、ひいては円環の中で考えねばならないはずだ。だが、僕にはそれを考える程まだ集中して見れていない。今後の課題として心に留めておくことにしようと思う。

そうそう、ちなみに言うとブルース・ウィリスも良かった。でも、個人的には『フィフスエレメント』のブルース・ウィリスには敵わないんだなと思ってしまったのである。久々に『フィフスエレメント』も見たいな…なんてな。


『パルプフィクション』を見終え、いよいよ僕が大好きな映画である『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見る。

この映画のディカプリオとブラピの掛け合いが凄く好きだ。特にブラピがめっちゃ良い奴で、僕はこの映画をいつも見る度に2人のこの関係性に憧れる。何と言うかここにこそ僕は人間関係の極意があるのではないかと思うぐらいには、人との向き合い方に関しての僕のバイブルである。

まず以て、彼ら2人は俳優(ディカプリオ)とスタントマン(ブラピ)という関係性であり、尚且つ親友である。ディカプリオは俳優に関することをブラピに相談し、その親友の為にブラピが良いように取り計らえるように時たま口を効いてくれるのである。しかし、問題はここにある。ブラピはディカプリオの為に一所懸命に色々と動くが、ディカプリオはそこまでブラピに対して何かをするというのは無い。だが、それでもブラピは動き続ける。ここに僕は痺れる訳だ。

こういう友人関係あるいは親友関係だとシンプルな互酬関係、つまりは僕の記録で何度も書いている、柄谷行人が指摘するところの「交換様式A」の世界が展開される。贈与の世界がここにある。しかしだ、とは言うものの「誰かに何かをしてあげる、ということはそれに対するお返しが当然に発生する」という意識が無意識のうちに生まれるのである。お互いがお互いの為に何かをして、ヘーゲル言うところの「アウフヘーベン」を繰り返し高次の次元へと関係性を展開させていく。

映画を通して、ブラピは与えるばかりで、ディカプリオからの目立った返礼はない。だけれどもブラピはディカプリオに与え続ける。贈与をし続ける。ではブラピにとっての「返礼」とはいかなるものであるのかという所がこの映画の焦点になってくるのである。

結論から言えば「人生の愉しさ」それに尽きる。

ブラピはディカプリオから依頼されることを嫌々やる訳ではなく淡々とこなす。しかし、その後にはディカプリオと一緒に過ごす愉しい時間がある。ディカプリオがイタリア映画で売れ、結婚した妻帯者になっても2人の関係性は良好に続き愉しい時間が存在する。ブラピの表情が何とも言えないぐらいに愉しそうなのが印象的な映画でもある。「人生の愉しみ」これは僕等にとっても掛け替えのないことであり、人間の本質的な部分で大切なことであるように思う。

見返りが何か欲しくてやっている訳じゃない。そこで与えられる見返りは一時的な快楽を満たすものであって、何か恒久的、永続的な幸福や楽しさを満たすものではないのだ。それをブラピは理解しているからこそ延々に贈与をし続けるのではないか。これは近内悠太の『世界は贈与でできている』で失敗例として挙げられていた『ペイ・フォワード』とは逆の、ある種成功している贈与とも言えるのではないだろうかとも思ってみたりする。

映画最終部、僕が1番好きな場面がある。ヒッピーがディカプリオの家を襲いブラピが撃退した後、なんやかんやでブラピが負傷し救急車で運ばれる際の2人の会話である。

ディカプリオ:You're a good friend, Cliff.
ブラピ:I try.

※Cliffは役名。

『Once Upon a Time in... Hollywood』
(2019年公開)

僕は個人的にこの2人のセリフが堪らなく大好きだ。「お前はいい友達だ」とディカプリオが言い放ち、怪我を負ったブラピがニコニコしながら「努力してるさ」という。この映画を最後まで見たなら、どれだけブラピが良い奴かが分かる。これまでずっと一所懸命に贈与を繰り返し、それでもまだ「努力して」いるというではないか。つまりは、ディカプリオにはそれ程までの魅力があり、返礼に価するまでの「人生の愉しさ」を提供してくれるのである。この場面ほどグッとくるところはない。

僕はこの映画のディカプリオにもなりたいし、ブラピにもなりたいと思う。僕も自分の大切にする人にはこういう姿でありたいと思う。僕はこうなれるだろうか。この映画は僕にとって人間関係を考えるうえで重要な映画だし、この2人の関係性にはずっと憧れるのである。これは結構ガチでオススメである。


そんなこんなで今日は1日映画を見ながら幸せな時間を久々に過ごした。勿論、仕事も当然にこなした訳だ。

やはり映画を見るのは面白い。

よしなに。



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