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僕の発達障害の「発見」が遅れたワケ

 こんにちは、とまよこ りゃんシーです。
 僕の発達障害はかなり強いほうだと思うのですが、成人するまで診断を受けられませんでした。その理由について考えてみたので、まとめようと思います。


1、HSPによる模倣

 HSP(感覚過敏)と自閉症を併発すると、模倣に長けるという話を以前書きましたが、僕はその例だったと思います。自閉症は自我がないので、他人の言動を意味も分からずにすぐに真似してしまうんですよね。なので僕は「子供らしくない」「ませている」とよく言われていました。でもこれは実際に知能が高かったわけではなく、鳥の「オウム」が物真似しているのと同じだったんですよね(そもそも知能の高い子は目立たないようにわざと子供らしく振る舞ったりするんじゃないかな…)。後述する小学校の受験に受かってしまったのもたぶんこのせいだと思います。あとは試験問題が視覚言語型に有利なものばっかりだったんじゃないかな。僕は視覚優位型なので、算数とかが妙に出来る瞬間があるんですよ。だから、コイツは一概にバカとも言えないしみたいな感じで周りも難しくなったんだと思います。凸凹があるのが普通じゃないって知らなかった。両親もクッソ凸凹があるから。

2、子守りが分担されていた

 僕が生まれてすぐに母が更年期障害に入ってしまって、僕を包括的に管理する人がいなかったんです。料理を作るのが母、遊んであげるのが父、父のいないときは祖母というふうに、僕は両親と祖父母4人で分業制で子守りを受けていました。母はほとんど僕の相手をしないし、父は仕事の息抜きに「僕で遊んでいる」といった感じだし、祖父母はあまり口出しをするタイプではなかったし、そうすると、「おかしいな」と感じる間がなく、飼い猫があちこちでエサをもらって太ってしまうように、誰も僕の責任を持たずにほかの人に任せてしまっていたんじゃないでしょうか。

3、小学校が合わなかった

 僕は市立小学校ではなく、東京学芸大学という国立大学の附属小学校に通学していました。自殺騒動と定員割れ事件でご存じの方もいると思いますが、とにかく厳しい、過酷な学校でして、いじめや喧嘩は放置だし、勉強はやらないと叱られるし、僕は一日4回くらいは叱られてたと思います。そのうち先生の方も僕が何もしていなくても叱るようになるんですよね。先生のサンドバックみたいになっていたかもしれません。なぜこの学校に入学したかと言うと父の中途半端な進言だったのですが、父が気まぐれで受験させただけなので我が家の方針と全然違ったわけです。周りの子はエリートに育てたくてすごく受験勉強してやっとの思いで入学して、放課後は塾に通って…という家族ぐるみでのエリート志向を持った子ばかりだったんですが、うちはたまたま家が近かった、たまたま受かった、みたいな感じで(実際最終的な合格者は抽選で決まるんです)、まったく気質に合わなかったんですよね。その教育方針の違いばかりが目に余ってしまって、それ以前の勉強が「できる」「できない」とか、脳に障害があるかどうかという所まで誰も気にしてくれなかったというのはあると思います。発達障害でできないのか、性格的にやらないのかの判断が余計難しい環境だったということですね。古い学校だったので、自閉症スペクトラム児が入学してきたときのマニュアルなども確立されていなかったのも原因だと思います。まぁ先生たちは気付いていたかも知れないけど、学校の体裁として認めたくなかったとか、バカに割く時間はないとか思ってたのかもしれないな。先生たちも頭のいい子供しか知らないので、僕が市立小学校から見てもバカだと言う事に気付けなかったのかもしれません。
 そう言えば入学試験の時、周りはフォーマルな制服みたいな服を着させられていたのに僕だけパーティードレスみたいなラメ入りの服でものすごく恥ずかしかったのを思い出した。その時点で「この家族おかしいな」って思わなかったのかよ?

4、反抗挑戦性障害

 そんな小学校でしたから、僕の方もどんどんグレて行きまして、中学生になる頃には大人をみんな目の敵にしていました。中学は私立だったんですが、もうその頃には他人に心を開いたりする事がなく、ずっと黙って授業を受けるだけになっていたので、友達とのトラブルもなく、その状態で発達障害だと分かるのは難しかったと思います。例え変なところがあっても性格のせいと思われただろうし、僕自身そう思わせていましたから。

5、シャイだと思われてた

 それで学校でいじめられまくってるから、次第に「もう何も言わないようにしよう」と思ってじっとしてるわけです。それが、「他人の顔色を伺う」「空気を読む」人に見えちゃったんじゃないかな。この2つは見分けがすごく付きにくいと思う。実際、よく「シャイ」って言われてたから。

6、理系中学校

 中学校は元工業高校の中高一貫の理系特化型の進学校だったのですが、確かに一度教頭先生には「キミの人生は大成功するか大失敗するかのどちらかだね」と言われたけれど、理系の世界ではそのくらいは普通なんですよね。プログラマーなんて全員自閉症と言っても過言ではないし、電子機器を使えばADHDのハンデなんてあまり関係ないし、理系の世界では僕はそこまで落ちこぼれではなかったのです。国語の授業なんて学級崩壊してましたし、班行動の授業などもほとんどありませんでした、そういうのが苦手な子ばかりだったので(偏差値30の学校だったので、もしかしたら全員発達障害だったかもしれない)。もちろん私立なので、自分たちの「お客さん」を障害者呼ばわりしてもなんの得もないという魂胆もあったと思います。ほとんど叱られませんでしたもん。

7、バブリーな両親

 僕の両親はバブル最盛期の人なので、かなり楽観的です。ちょっと変なところがあっても働けるのがバブルだったのではないでしょうか? なので深刻に捉えてもらえなかったというのは大きいと思います。「大学生は人生の中で一番楽な時期」とか、「大学で学んだことなんか社会に出たら何一つ使わない」とか、「俺たちは図面さえ書いていればいい」とか、今の時代にそぐわないことを沢山教えられてきました。もちろん昭和の人なので「精神病」という概念がなく、多様性を受け入れるのが当たり前だった時代背景もあります。
 その考え方でいると発達障害でなくても叩かれます。僕は父の影響で典型的な「おぼっちゃま」だったように思う。だから凄く叩きやすかったように思います。そのうえ発達障害もあるし、いじめさせる為に学校は僕を入学させたのかなって思うくらい。
 とにかく僕は父の教育のせいで「2E指向」が強くて。「天才なら何をしても許される」理論ですよね。僕も20歳までずっとそれを目指してて。父は、そうだったんです。それが出来たんですよ、典型的なASDだから。でも僕は境界知能もADHDもあるし、生理痛もあるし、そして、東京生まれだから、父さんよりずっといじめられてきたんですね。メンタルがダメなんです。父のように傲慢に振る舞える発達障害は選ばれた発達障害だけだったんだなって気付くのに30年掛かった。そして何の才能もないのに、2Eだと思い込んで天才ぶっていたふしが僕にはあったと思う。ただほんのすこし算数が出来ただけなのに…。

8、誤解

 最近びっくりした事があって、発達障害が発達障害のせいで社会を不利益にしたとき、裁判で負けるって益田さんが言ってたんです。つまり、発達障害であるって事にはなんの効力もないんだって。だから僕達は障害者手帳があってもなくても「負け組」で、社会に受け入れられる事は無いんだろうなって思いました。だから僕がいくら発達障害から来る奇怪な言動をしても、それで叩くのは当たり前ってことなんですよ。常識が世界で一番大切なんだから。

9、親も発達障害だった

 一番大きいのは、親という前例の存在だと思います。親も発達障害だけど、何とか診断を受けずに生きてこれたわけです。なのでどれだけ周りから浮いていても「うちはうち、よそはよそ。親の生き方真似してれば大丈夫」という思いがありました。「2E」と言う言葉があるんですけど、うちは両親が当たり前のように2Eで、僕も2Eです。人類はみんなそういうもんなんだと思ってましたし、父に言わせるとそうでない人種は「可哀想」という感覚でした。でも現代は日本人総管理職時代なんですよね。専門職は中国に外注してしまって仕事がないし、だから「2E」がなんの価値もなくなっているんですよ。資本主義も強くなって、個人の実力が大事な時代ですし。という所に親が全く気付いてなかったのは大きいと思います。ただAIの登場で雑用をAIに任せるようになったらまた専門職至上主義時代来ねぇかな…。
 それで当然2人とも自閉症なので、僕のおかしさには気付かないし、そもそも子供に興味がないわけです。3人ともルーティンをこなすことや感覚過敏から逃げる事、同一性の保持をするだけでいっぱいいっぱいという感じですから。

10、ヨーグルトを食べていた

 眉唾と思うかも知れませんが、最近の研究で発達障害と乳酸菌は関連しているという報告があります。僕は物心のつく前からヨーグルトやヤクルトを毎日摂っていました。今考えたらあれが命綱だったんだなあ。

11、良いものを食べていた

 バブルだったこともあり、僕が生まれた時父はすでに部長だたこともあり、恐らくかなり良いものを毎日食べていたと思います。さすがにキャビアとかそういうのはないけど、牛肉をさして「高価なもの」と認識してなかったと記憶してます。肉やうなぎ、魚介は絶対日本製じゃなきゃ嫌だと両親は言っております。そんなわけで、けっこう栄養が満ち足りてたんじゃないですかね。しかも家事とかもしなくて良かったし、勉強とかそういうのに集中できるうえいいものを食べさせてもらってたと、かなり環境には恵まれてたと思います。あと、給食のお陰もかなりある。
 母が更年期だったのでヨシケイを取ってたんですがそれが逆に良かった可能性もあるね。

12、女だった

 やっぱり女だったというのは大きいと思います。もちろん女性ホルモンのお陰で目立たなかったと言うのもあるけど、「女子だから」と言うフィルターにかけられて障害に気付いてもらえなかったのはあると思う。男性の発達障害は数が多いのもあって、受け口が多い気がする。ちょっとドジをしても「これだから女は」と女はバカ扱いでスルーされていた。「発達障害は男の病気」という固定観念によって診断してもらえなかったということです。
 でも、逆に言えば男性なら発達障害と「診断」される事もなかったかもしれません。父のように「男だから」で全部片づけてもらえたかもしれない。

13、お金があった

 運が良い事に父は2Eとして業界では知名度のある人物でした。祖母も倹約家で、僕は一人っ子だったので、何か困り事があってもたいていはお金の力で解決できたんです。失くしたらまた買えば良い、忘れてもまた買えば良い、困ったら誰か雇えば良いみたいなね。あと娯楽や気を紛らわせるものに事欠かなかったからあんまり気に病まなかったのも大きい。インターネット使い放題(親が禁止しない)の家なんてうちぐらいしかなかったもん。年がら年中インターネットやってたよ。竜の風詩とか。。

14、頑張ってた

 まぁ結局こういう事なんでしょう。アドレナリンやコルチゾールと引き換えに、僕は「健常者」の名前を貰っていただけなんですよ。

15、眼鏡

 眼鏡かけると頭良さそうに見えない?

16、ADHDとASDを併発しているから

 僕はADHDもASDもあるのですが、この2つの障害は一見、相反するものだとよく言われていますよね。確かに、せっかちだけどこだわりが強いと言う事はそれで良いのではないか? と思う人もいるでしょう。この場合犠牲になるのはひたすらに睡眠時間と体力です。

17、親が高齢だった

 まあ高齢…って言うか、父親はよく「18歳になったら一切口出ししないし支援しない」と言っていたのですが、本当に18歳になったら何も言わなくなったんですよ。で、大学入学って18歳じゃないですか。だから大学入学までは指示されたんだけど入学した途端なんの道しるべももらえなくなっちゃって。それで大学辞めて、どうしたら良いかわからなくなったみたいなとこはあったかも知れないですね。それまではほんの些細な悩みも父親に相談して解決していたんですがそれがなくなったので、急に「親の後ろ盾」がなくなって、そこで急に落下した感じがする。やっぱりああいうのってじわじわ減らしていかないとダメに決まってるじゃん。親が高い高いしてくれてたのに、「高い」のとこで急にいなくなって地面に激突したみたいな感じだったね。逆にそれなら最初から大学に行けとか、あれこれ指示しなきゃいいのに。それで20代をだから全部そういうのの軌道修正とかそういうのに使ってしまった。

 いかがでしょうか。以上、僕が幼少期に発達障害だと分からなかった理由について、思いついたものをまとめました。逆に、発達障害だと診断されてしまった原因については、関西に行ったこと、国公立大学に行ったこと、男性になりたいと精神科に行ったこと、ヨーグルトを食べなくなったことなどが挙げられると思います。参考にしていただけたら嬉しいです。

ちなみにヘッダーのイラストは、中学生の時に描いた「私の家族」というテーマのイラストを先生が添削してくれたものです。「ユーモラス」と評されましたが笑ってる場合じゃないんだよ。

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