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25.ジョニー・スタッカート
海外に出ると、ランチを友だちとする。これはぼくの普段の生活にはないものなので、とてもうきうきする。この日は、マンハッタンの東9丁目にあるお寿司屋さんで待ち合わせだ。友人のギタリストの誕生祝いだという。プレゼントはニューヨークの中でもニューヨークらしいインディペンデント映画の巨匠ジョン・カサベテスが撮ったテレビシリーズのDVDだった。タイトルは「ジョニー・スタッカート」。1959年から1960年
もっとみるプラスチックスとヒカシューの邂逅
「ぼくたちドラムがいなくてリズムボックスを使ってるんですよ」
「えっ! そうなの?」
1978年12月12日 深夜のニッポン放送のスタジオにぼくは来ていた。
友だちの堀上が、近田春夫のマネージャーをしていた縁で、「ヒカシューのデモテープを聴いてもらえるだろうか」と相談した。当時オールナイトニッポンの第2部パーソナリティをしていた近田さんに「直接渡した方がいいよ」と言われ、会いに来たところだった。た
21世紀ヒカシュー座談会
『20世紀ベスト』『21世紀ベスト』発売記念 2018
40年におよぶヒカシューの歴史においても、2005年に始まる現在のラインナップは歴代最長となる。その変遷をたどると、結成当初からのメンバーである巻上公一と三田超人、1982年加入の坂出雅海、そして2002年に清水一登と佐藤正治が招かれ、現在の姿となった。あわせて、長らく途絶えていたアルバム制作が再開され、2006年の『転々』からはコンスタ
はなうたはじめストーリー
1991年のはじまりは、香港だった。何を考えたのか、大友良英夫妻がちょうど香港にいたので、遊びに行ったのだ。うまいものをしこたま喰って、新作の詩を書いてと考えていたのだが、詩は一文字も書かず、ついにはマカオまでフェリーで行って、人生初めてのギャンブル「大小」に4時間くらいのめり込んだ。結局負けもせず、儲かりもせず、ポルトガル植民地の街並みを観光しただけだった。
2月の終りヒカシューは、房総の
『フリークス』と『うわさの人類』の関係
『フリークス』は、トッド・ブラウニング監督が1932年にハリウッドで製作した映画である。当時一度は公開されたものの、30年間上映禁止だったという。日本では『怪物団』という邦題で一週間上映されたそうだ。舞台は移動サーカス小屋。登場するのは、小人のハンスとフリーダ、半男半女のジョゼフィン・ジョゼフィーヌ、シャム双生児のディジーとヴァイオレット、それに鳥女、ヒゲ女、胸だけ男、がりがりの骨男、とんがり
北浦和のリズムボックス
ヒカシューが、テクノポップの仲間に入れていただけたのは、簡単にいうと、クラフトワークの曲を演奏していたことと、リズムボックスを使用していたことによると思う。1978年の夏、「幼虫の危機」というパフォーマンスのために、山下康を音楽監督にして、劇中歌を数曲作った。その時、ドラムがいないこともあって、エレクトーンの上に乗っかっているリズムボックスを使った。それが殊の外面白く、非常に不思議な音がした。こ
もっとみる世界は一行で語る時代になった。
2009年12月のヒカシューのクリスマスイベント用コメント
世界は一行で語る時代になった。Twitterしかり、ニュースしかり。「わからないもの」に蓋をするのは、存在が一行ではないからだろう。「ヒカシュー」は一行では語り尽くせない詩そのものであり。その詩は読み解けない謎を抱えている。まさに「ヒカシュー」は一行の曖昧な「存在」となるのだ。
しかし、ぼく個人は30年かかっても、まだまだ未熟な自分に
ヒカシュー座談会「ロシア・アルタイ・ツアーを振り返って」
ヒカシューは2014年5月末からロシア連邦アルタイ地方バルナウル、アルタイ共和国のウスチカン、ロシア共和国の大都市サンクトペテルブルク、モスクワ、アレクサンドロフで公演をしてきました。ロックバンドが来たのは初めてという奥地の町から実験音楽の盛んなサンクトやモスクワまで、ロシアを横断する文化交流の旅でした。今回は、座談会という形式でツアーを振り返ります。
2014年 5月29日 バルナウル
巻上