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“欲”と向き合う。“人”と向き合う。

人に話したくないこと。
秘密にしておきたいこと。
1人で抱え込んでいること。

悩み。秘密。問題。
誰にでも、一つはあるだろうか。

そのことを、人は知りたがる。
自ら話したがる人もいる。

…その先に、一体何があるのだろう。


昨日の夜。
朝井リョウさんの『正欲』を読み終えた。

読書感想文を書くにはあまりにも難しい。

どんな言葉を使っても、自分の気持ちを正しく表現できていないような気がするし
何か意見を持ったとしても、自分の中からすぐに反対意見が湧き出てくる。

ただ
作品の中で感じたことや
読み終えた直後の気持ちは残しておきたいな、と思い、カタカタとキーボードで綴ってみる。


知りたい人


話せば、心の距離が近くなる。
さらに親しくなれたと思ってしまう。

そして、信頼されるようになる。
「自分を信頼して話してくれた」と思うからかもしれない。


その逆も然り。

話さなければ、心の距離は遠のいていく。

その人のことがよくわからないからこそ、
「何も話してくれない人」に対する信頼は、なくなっていく。


だからこそ、その人の身に何かあった時に

「あの人がそんなことするはずない!」とか、
「大丈夫かな。みんなで助けよう!」
と誰かに言ってもらえる人になるか

「あの人ならやりかねない。普段からよくわからない人だから」とか、
「知りません。あまり話したことないので。」
と誰かに言われてしまう人になるか…。

そんな風に、
いざという時に影響を受けてしまうのが、社会で人と関わりながら生きていくしかない、人間の苦しいところなのかも知れない。


本来、関係のない他人に自分のことを話す義理などないし
話したくないことを、無理に話す必要はないと思う。

…しかし実際は
自分のことを、話すか、話さないか。
たったそれだけで、築く人間関係には大きな影響力があるように感じる。


話したい人


さらに、“知りたい人”というのは、自分のこともよく話す。
自分の秘密や、日頃見えないところ、見せていないところを自らさらけ出して、

「自分も話したんだから、あなたも話してよ」とか
「いつも私ばかり話しているね」と言った反応。

相手が自ら話し始める話題に対し、相槌を打ち、きちんと話を聞く上に、自分の話もするよう勧めること。

それは、“話したくないことがある人”にとっては、とても苦痛なことだろう。

しかし、そんなやりとりを、そこまで深く考えずに
私たちは日頃から、職場や学校、飲み会やランチなどで、家族と、友人と、そして他人と。
日常生活に織り交ぜながら他者とコミュニケーションをとっている。

…とても器用なことだと思う。



さして興味があるわけではないのに、コミュニケーションとして、あくまで軽めに、深い所まで踏み込んでくる他人に、素直に自分のことを話す必要はあるのだろうか。

その思いは、登場人物の考えることにとても共感できるものがあった。


不安なのだ


“目に見えないもの”と“知らない物事”は、
怖くて、不安になる。

だから、誰かと共有したくなる。

「こんな風に思うのは、自分だけなのではないだろうか」

という不安を

「よかった。自分だけじゃなかった」

という安心に変えたいのだ。


だから、人は、話す。
人の話も、聞きたくなる。


知っていたようで、全く見落としていたことを、この物語に気づかせてもらったように思う。

みんな、不安なんだ。

そう思うと、
自分を守るため、救うために、
他人に踏み込みすぎてしまう“愚かさ”も含め

誰かと繋がることで安心を得られる、
人の“愛おしさ”も少し感じられるような気がする。


正解がない中で、
それこそ自分の感想や意見を語れば語るほど
自分の「正欲」を晒しているような気がしてならない。

それでも
人の愚かさ、強さ、弱さ、愛おしさについて、
考え続けたいし

いろいろなものを抱えて一人一人、それぞれの社会の中で懸命に生きているということ、生かされているということを忘れないようにしよう、と思う。

“多様性”という言葉が行き交うこの時代に、

自分の中の“正しさ”と、あらゆる“欲”と真剣に向き合いながら
それでも他人に押し付けずに生きていくこと。

難しいけれど、
心の片隅の、いつでも視界に入る場所に、
置いておきたいと思う。


2024.2.2


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