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noteが人を連れてきてくれる

アメーバブログ(アメブロ)とか、mixiとか、デコログとか、
わりと時代に沿って、「書く」というサービスを楽しんできた人生だったと思う。
そういうサービスに触れる前は、せっせと自分でノートに日記を書いたり、友達と交換ノートをしたり。今も、このnote以外に、ほとんど毎日スケジュール帳に簡単な出来事や感情についてメモしている。

本当はnoteも毎日更新したいほど日々書きたいことがあるけれど、
時間がないので休みの日に書くようにしている。
全く苦にならないし、楽しいし、スキやコメントをくださる方がいて、
その行為一つ一つが当たり前なことじゃないし、ありがたいなと思う。

わたしは、「書く」ということが好きなんだと思う。

かといって、幼い頃から書くことが好きだったというわけではなかった。

小学校の時に「先生、あのね」から始まる「あのねノート」というのが宿題であった。算数ドリルも、漢字ドリルも、とびぬけて勉強を頑張る同級生がいて、すごいな~と思っていたが、「自分はそのレベルにはいけないだろう」と、早々に諦めていた当時のわたしは「あのねノート」だけでも頑張ってみるか、と思った。
でもこれも、毎日提出する感じの熱心な子がいて、自分は早々に挫折した。
頭が固かった私は、友達と遊んだ話とか、母親とスーパーに行った話とか、とりあえず行動したことを書いていたんだけど、それも追いつかなくなり、たぶん妄想して創作した部分もあったんじゃないかと思う。笑
「書くのって大変…」と小学生ながらに思っていたのだが、
ある日あのねノートを提出する時に、前に座っていた子が「先生、あのね。今日は、わたしの家族のことを先生に紹介しようと思います」と書き出していて、幼いながらにものすごく衝撃を受けた。

「そうや…。別に行動じゃなくても、今あるものとか、事実を書いたらいいやん…先生は私のことそんなに知らんねんから…」(大阪出身の小学生)

そこから、自分の家族のことはもちろん、将来の夢とか、今日の授業で思ったこととかを書きはじめた。朝の会に提出したら、帰りの会の時に先生からの短いコメントが付いてノートが返ってくる。別に、どこかに行ったとかのわかりやすい出来事でなくても、何かを書いたら読んで感想をくれる人がいる(かつ、宿題を熱心に提出しているという一石二鳥)ということに感動した。書くことの最初の楽しさを知った瞬間だったと思う。

そこからいろんなサービスを使って書くことを楽しんだのは前述の通り。

一つ、忘れられない思い出があって、
高校生の時に、ちょっと珍しい病気になったことがあったんですが、
思春期の多感な時期に、学校の友達に相談できるわけもなく。
幸か不幸か、携帯(当時はガラケー)でネット検索ができたので
毎日その病気のことを検索して、一つのブログにたどりついたんです。

自分と同じ症状を抱えている人が、同じように日々を過ごしている。そのことにすごくすごく救われて、わたしはその人の最新の記事にコメントを書いた。自分の症状についても少し書いて、相談みたいな感じだったかな。
そうすると、次の日にはお返事のコメントがついていて、症状について自分が実践された対処法と、明るい励ましの言葉を付け加えてくださっていた。わたしはまた心を揺さぶられ、お返事を書いて。
でもその方とそこからネット上で交流が続くこともなかった。その後、数年後にそのブログを検索したけどもう出てこなくなってました。
わたしはきっとその方と再び交流できる可能性は低い。でも、ずっと忘れないし、あの人が幸せだといいなと、今でも折に触れて思う。


いしかわゆきさんの「書く習慣」(クロスメディアパブリッシング)という本で、ゆきさんは文章を発信することの意義について紹介し、こう語る。

「文章が仲間を連れてきてくれる」

実際にはあなたは寝ていただけかもしれないけれど、そのあいだにも、あなたが過去に書いた記事やツイートが不特定多数の人に読まれて、勝手にはたらいてくれているんだよ。と。
積もり積もった文章は、勝手に広がっていって、勝手に消費され、勝手に価値を生み出していくのです。
書いたものがあるかぎり、毎日どこかで誰かがあなたの文章に触れ、あなたの存在を感じてくれているのです。(194、195ページ)

間違いなく、当時、高校生だったわたしはその同様の病気だったブログの人の文章に吸い寄せられ、
勝手に心を動かされ、連絡をとって交流をした。
その人の過去の文章や、何気ない日常についての記録に助けられた。

そういう経験が、わたしの「書く」ということが好きな理由の一つにもなっています。

本や漫画、映画が人の心を支えることは往々にしてある。
そして、わたしはこれらに支えられてきたとも思う。

でも、あの高校生のとき、わたしを救ってくれたのは本に書いてあることでも漫画でも映画でもなくて、その、本名も年齢も知らなかったその人の日常と文章だった。

自分の文章が、誰かを救うとか、そんな大それたことではなくって、
発信して、何かが動く可能性もある。そしてそれは、些細なことでいい。

noteの中で、いろんな人の文章が、わたしをいろいろな所へ連れて行ってくれる。そして私も、発信することによって、文章がいろいろな方を連れてきてくれる。
良い時代に生まれたなあ~なんてかみしめながら、今日もこんなnoteを書いています。


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