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別れとトマトパスタ

前回のnoteで亡くなった父のこと、1月に命日があることなどについて記したこともあってか、最近漠然と「命日」について考えていた。

あえて「この日」と決めて自ら命を絶つケースを除けば、死は大体突発的に訪れる。クリスマス、元旦、バレンタイン、こどもの日など、世間的に”イベント事”が催される日が命日になる場合も少なくないだろう。すると、大切な人を失ってしまった人々は、イベント事で盛り上がる日とされている「命日」についてどう思うのだろうか、やはりイベントを憎らしく感じてしまうのだろうか。それとも、それはそれ、これはこれ…なのだろうか。そんなことを考えていた。
そして、とりあえず自分が出した結論としては、これまでの命日が”たまたま”そういったイベント日に重ならなかっただけで、どんな日だって平等に命日になる可能性があるのだろう、ということだった。

そんな中、つい先日実家の猫が亡くなった。これで、もともと3匹いた猫のうち2匹がこの世を卒業。残されたのは盲目のおばあ猫1匹、ということになった。
前回noteで父のことを書いている時もそうだったけれど、自分が思っている以上に、当たり前のように涙が出ることに毎度驚く。頭は比較的冷静だけど、体はとても悲しんでいるみたいな感じ。だから、徐々に泉がわくように涙がこみ上げる自分に驚いたあと、やっと自分の心に「悲しい」というチャンネルがカチリと合うのだ。

この猫のことについては、今日たくさん記すことはよそうと思う。ただ印象的だったのは、弱っていく自分の体と戦っている猫の様子を見た母が「死ぬのは簡単じゃない。ジワジワ、コクコクと死に向かっていく」と言っていたこと。特に、人間と同じ言葉を話さない動物なら、その壮絶さは殊更際立っているのかもしれない。

それでは最後に、現時点でわたしが一番美味しいと思っている「トマトソース」のレシピを載せて終わろうと思う。金曜の夜は、このトマトソースでパスタを食べた。(わたしはこのレシピにベーコンを加えている)悲しいときは、美味しいものを食べて力をつけるに限る。

これからも多くの別れがあるだろうし、それを拒むことはできないけれど、だからこそ今生きている者や動物たちと一緒にいて、共に過ごす時間をとてもリアルなものに感じ、その時間を噛みしめるようにわたしはトマトパスタを食べた。

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