見出し画像

ものがたりvol.2『今この瞬間がギフト』

こんにちは、大貫理音です。
深夜に書き上げるnoteはきっと『深夜のラブレター』のようなものだと思うのです。
しかしながら言い得て妙であるような、今回のテーマに相応しい痛々しさになっておりましたら幸いです。明日朝、恥ずかしさに頭を抱えるわたしは想像の南半球です。(赤道を越えるって意味です)

さて前置きが長いのは2回目にして仕様になってしまいそうなので、そろそろ本題へと進みます。

<注意>
第2回にしてさっそく重いテーマがやってまいりました。
人が死ぬ話が苦手な方はそっ閉じしてください。




いいんですね?




続けますよ??





あっ残虐な物語では無いのです。万が一バトルロワイアル的なソレをご期待くださった方がいたらすみません(笑)


さて、今みなさんの周りにいる人は、あなたにとってどんな人ですか。
家族や恋人、友人や仕事仲間、通学や通勤時によく見かける人、でしょうか。
街に出れば年齢性別は様々、生まれも育ちもかけ離れている、偶然すれ違っただけの人など、関係が深い方からそうで無い方までいろんな人と出会えますね。

おしゃれな人には自然と目がいってしまったり、電車でふと向かいに座る顔をみたらめっちゃ好みのタイプ!数駅だけのランデヴー!!...みたいに貴重な人もいるかもしれません。

(わたしは電車移動中に作詞をすることが多いので、目にとまった男性や素敵な接客の女性店員さんに恋してる設定で妄想することもしばしば)

わたしのなかでは、すれ違っただけの人とまでは言いませんが、少しでも同じ時を過ごした人との出逢いと別れは、とても大きなものとして刻まれます。
いつでもそばに居るひと、会おうとすればいつでも会えるひと、遠いところにいてなかなか会えないひと、どこかに居るはずのひと、もう二度と会えないひと。

確実に、もう二度と会えないひと。それは亡くなったひと。

この記事をご覧の方で『家族や親族、友人、ペットが死去した』という経験はそんなに珍しいことでは無いかもしれません。
そこに、

・自分の命が脅かされる状況が大量に発生した
・友達が病気や事故や自殺で大量に死んだ
・同級生が親に殺された
・親友が死んだ

という出来事を加えたら、ビビりな大貫理音の出来上がりです。

幼少期から今この瞬間にも「自分はなぜ生きていて、いつ死んでしまうのか」と見えない何かと戦う日々があります。
そのせいなのか、わたしがつくる作品は命をテーマにしたものが多いのです。生きることに意味などないのだと思う自分と、生きる限り答えようのないものだと思う自分が、作品としてモヤモヤをうみ出していたいだけなのかもしれません。

---------------------------------

【音楽作品の宣伝(笑)】
生と死のハザマの世界を歌と朗読劇で描く物語
『屋根裏の歌劇座』

▼episode.3 流星の従者

画像1

▼episode.2 天降る日の茶夜会

画像2

▼episode.1 はじまりのオリオン座

画像3

※たまに作品の宣伝も盛り込みます、笑。

---------------------------------

今回は、そんな根暗なわたしにとって、世界一の理解者であったであろう『親友』のお話。

彼は19歳で死んでしまいました。
もうこの世にはいません。出オチですみません。
どんな子だったのかというと、生まれてからずっと長生きできない自分のことをよく理解していました。
周りの男子どころか同級生の自分たちと比べると、それはもう違う世界の人では無いのかと思うくらい大人びた少年でした。

彼との初対面は小児病棟(の院内学級)。男女の出逢いにムードも何もあったもんじゃないのです。とはいえ、わたしが入院して1週間後くらいに彼は一時退院をしたので、出会った当時は直接会話をしたことがなかったのです。小学4年生の頃でした。

(それでも院内学級で何度か目が合うたびに、彼はわたしにだけわかるように小さく反応したので「なんだこいつ」というやや不快感にも似た印象を抱きました)

(あ、あと実は院内学級時代のことが児童書として当時出版されています)

『君の名は?(笑)』

それから彼とはしばらく会うことはありませんでした。顔はぼんやりとしていたし、名前もすぐに忘れてしまいました。
数年後、わたしが3歳時から長年通っていた水泳クラブで、彼の同級生とたまたま同じチームになり、休日に男女グループで遊ぶようになって、なんやかんやあって偶然の再会を果たすのは、中学2年生の頃(だったはず)のこと。
その頃のわたしは、自分の生死観が同年代の子どもたちとちょっぴり違うことに気づきはじめていました。同時に、普通はあまり生きることや死ぬことに執着していないことも知るのでした。

「生きるために産まれ、死ぬために生きる」

彼と会う時にはよくハナウタを歌いました。何を話すわけでもなく、学校で習った童謡や流行りのポップスを口ずさむとふたりでハモって笑う、そんな何気ない遊び。
ふたりのお気に入りはアンパンマンマーチ。

何のために生まれて 何をして生きるのか

この一節に対して、あーだこーだと議論をすることがありました。
私の出した答えは「生きるために産まれ、死ぬために生きる」。

多感な思春期、明るい感情の裏にその負の感情を押し殺す日々。親が望んだ私立中学を受験し、憧れのセーラー服も着られないし、田舎娘が電車通学と東京での学生生活という環境の変化になかなか馴染めないし、ほんと勘弁してくれよ〜って思いながら笑い続ける生活。
憧れも目標も何もなく、ただただいつか自然に死ぬ日を迎えるためにだけ生きていました。

内心とてもとんがっていた少女時代。授業をサボって学校の敷地内に手作りの埴輪を埋めたり(何十年後かに発掘されて歴史的大発見だ〜とかならないかなあ)、休み時間は教室で寝ていたり(みんなでトイレとか行きたくないなあ)、地毛の茶髪を注意された腹いせにもっと明るく染めて先生に怒られたり(ご指摘のとおり染めてまいりました〜みたいな)。自分でも幼稚でへそ曲がりな行動をしたなあと思います。
そのすべてを『明るさ』で隠していたせいで、いわゆる『いじめ』の被害者にも、自分のしたことがそうと気づかず加害者側になったこともあるのです。

(関係者はそう感じていないかもしれませんが、自分にとってされたくないことは『嫌がらせ(いじめ)』と変わらないと思っています。そういう意味で幼さから両方の立場を経験した、という解釈で)

それでもわたしの不格好で不器用なところを受け止め、今でも優しく接してくれる当時の同級生たちの存在は宝物のように思います。
彼女たちは山奥に放牧されていつのまにか野生化した臆病な羊のようなわたしに、今も昔も何かと救いの手を差し伸べてくれる心の豊かな人たち。
最近、そのうちのひとりからあることを打ち明けられ、謝罪されたことがありました。わたしはたいして気にしていなかったことで、彼女は何十年も心を痛めていたのです。

人には人それぞれの悩みがありました。計り知れない苦しみが。それでもわたしを助けようとしてくれていた友達。わたしはいつだって人のあたたかさによって生かされていたんだと、ようやく気付きました。

わたしばっかり、

その後に続く言葉はネガティヴな単語。心を閉ざした14歳の自分のなかいっぱいに荒んだ『言葉』は詰めこまれていきました。
当時は母親からよく「おまえは恵まれている。感謝しろ」と浴びせられる一方向で乱暴な『言葉』に疑問を抱き、何を誰にどう感謝するものなのかわからず不愉快な『言葉』として受け止め、感謝の『気持ち』を持つことがどういうことか理解ができていなかったのです。

まわりの同級生の多くの『ふつう』とはかけ離れた家庭環境、ひとり病院で過ごした時間、欲しいものが得られない、願っても叶わない、それらが全部苦しくて仕方がなかったのです。
辛いことで頭がいっぱいの自分には、そこから抜け出す努力なんて考える余裕さえなかったのですね。

だいぶ彼の話から逸れましたが、彼はそんなわたしの、ただひとりの理解者(だと当時は思っていた)で親友でした。
それでも気恥ずかしさから心を閉ざしていたわたしに、ある日の電話で彼はこんなことを言いました。

「昨日は何日か振りに口にしたおかゆがとても美味しかった。今日も朝日が眩しくて目が覚めた。楽に呼吸ができるとか、今こうやってりちゃちゃんに報告できることが嬉しい。今が最高の瞬間だなあ」

やわらかな時間をかみしめて、ゆっくりと味わうように話す彼の『感謝』は、今その時に感じた喜びのなかにありました。
それは誰に向けるものでも強要されるものでもなく、自然に溢れ出す言葉。わたしには当たり前のようなこと、『ありがとう』や『ごちそうさま』も、当たり前のことが当たり前ではない彼だから出てくる言葉を、そのときはまだ理解できなかったのです。当時の自分は、自分が出来ないことで頭のなかがいっぱいだったからかもしれません。

わたしはありふれた日々を失ってはじめて、何気無い瞬間がどれだけ大切だったのか、掛け替えの無い存在だったのか、そのすべてに気づかされたのです。
そしてそれまで漠然と感じていた死への漠然とした恐怖は喪失感へと変わりました。

その後、ルームシェアをした3歳年上の友人(日本一尊敬しているクリエイター)がくれた言葉があります。

「死んでしまった人はいなくなったりしない。ひとつになる。一緒にその目で見て、心で感じる。見えなくなるだけ。だから今後君を好きになる人は、彼のことを思い続ける君を好きになるんだよ」

失ったはずの想いは、あの日確かに生きた日々は、今のわたしをつくるすべてになったかのような気持ちになりました。
今でも寝落ちる前に、誰かとの日々をたまに思い出します。楽しかったこと、悲しいことも辛いことも全部がエピソード記憶として蘇ります。
その誰かはそれを知ったら笑うかもしれないし、他の誰かは気味が悪いと思うかもしれない。

さみしがりのわたしにとって、出会いは最高のギフトです。
今は亡き祖父や祖母も、バイト中にアイスクリームをくれたおじさんやおにぎりをくれたお婆さんといった、もう二度と会うことはないであろう一期一会も。(食べ物ばっかりじゃん)

あなたとの記憶は、忘れられない贈り物。

このnoteを読んでくださったあなたとも、いつかどこかで出逢えますように。

よろしければ投げ銭いただけましたら、ナンテコトナイおまけエピソードがちょっとだけ読めます。
ふたりを繋いだハナウタ(音楽)には、ヒントがありました。

ここから先は

452字

¥ 200

いつもご支援ありがとうございます。企画や活動に役立たせていただきます。