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【SERTS】scene.4 涼皮をプールサイドで食べる日


※この話には一部性的な表現があります。



 目をさます。青い夜だ。
 抱いて眠っていたはずの王の姿は傍らになく、ひやりとして起き上がると、僕の足元にひとつの毛布の塊があった。這うようにしてそちらに身を寄せ覗き込むと、そこにはいつものように蹲って眠る王がくるまれており、僅かにはみ出したその手には片方だけのピアスが握られていた。
「……そうかい。よしよし」
 呟いて、王の頭を撫でる。からだをさする。あたためたいと願う。
 王はつけないピアスを持っていた。
 どうやらさみしい夜にだけ、そのピアスを握って眠るらしい。鉱石に似たなにかが削られ、大振りの装飾となった白いそれを、なぜだか王は普段僕が背負っているトランクに入れている。大切なものなのだから耳につけたらどうかと勧めたこともあったが、王はただ「ここが一番安全なので」と言うだけ。しかし時折こうして握って眠っているらしく、このことに気が付いたのは僕が王と同じベッドで眠るようになってからのことだ。
「……夢で会えてるなら、いいんだけどさ」
 この白い短剣のようなピアスは、形見だ。元は王の一番大切なひとの持ち物で、王自身は即位式の際にしか身に付けていない。
「会えてなかったら僕が悲しいから……会いに行ってあげてくださいよ、」
 僕たちの失ったひとの名を呼ぶ。うつくしい名を呼ぶ。その音は発せられる度に月明かりに融けてただ無限に延びていき、僕たちの夜をかたちづくり、永遠に消えない。
「私の夢には出てきてくれませんね。……しょうがないけどさ」
 どうにか王にはあたたまって欲しくて、ベッドから降り、ソファに掛けてあったブランケットを手に戻ると、それを毛布の上からちいさな骨格に掛けてやる。大きな一個の布のかたまりと化した王は、穏やかにその盛り上がりを上下させていた。それをしばらく眺めたあと、僕も自分の枕へと戻る。
「だってキミ、あの子に夢中で僕のことあまり考えないだろう」
 夢だ、と思った。何故なら目の前にいるのは死者だからだ。白い花畑に座り込んで、せっせと花冠を編んでいる彼は、あのときと変わらない笑顔で僕を見上げている。
「展開早いなー。言ったら出てくるんですね?」
 夢だと分かり切っているので、僕も彼の前に腰を下ろすと、彼はニコニコと音のしそうな笑顔のまま僕の頭を撫でた。感触は、よくわからない。夢だから。しかし夢だからわからないというのに、懐かしい香りがする気がして鼻の奥がつんとした。
「そりゃあ、キミに呼ばれたらたまにはね」
「では今まで呼ばなかった私が悪いと」
「そういうこと」
 わほほ。ふざけた声で、彼は笑う。本当にそっくりだ。
「酷いなぁ。私はあの子の夢にあなたが出てきてくれることを祈っていたというのに」
 夢だから、涙は出ない。泣いたとしてもせめて現実には漏洩しないように眉間を硬くしながら、僕はせっせと花冠を編んでいる彼の手元を、そして横顔を、薔薇色の頬を、見つめる。
「あの子は頻繁に僕を呼ぶからね。ああ見えてさみしがりやなんだ。ちいさい頃からずっとそう。僕を捜してぴーぴー泣いてるの。すぐ転んでまた泣くし」
「天上天下唯我独尊みたいな顔しといて?」
「そう。僕とおんなじ顔しといて」
「あの子とはなにを話すんです?」
「あの子はねえ……ふふ、今日はなにを食べたとか、そういう話を聞かせてくれるよ。あとはお膝に乗せてくださいって甘えてくる。もう大きいのにね」
 今日はなにを食べた、とか。王の話すことに僕の影響が多少なりともあるかも知れないという、そんな、夢での話。夢の話。
「……そう、ですか。なら、うん。よかった」
 夢で報われても仕方がないのに、なんだか無性に声を上げて泣きたかった。それを堪えて、目の前の彼の姿を目に焼き付けようとじっとする。見つめれば見つめるほど、彼はどんどん曖昧になっていくようで。もう殆ど一個のひかりのようで。
「ねえラドレ。僕は夢なんだけどさ」
「はい」
「夢だから、きっとキミの助けにはなれないんだけどさ」
「……はい」
「もう大丈夫。大丈夫だよ、ラドレ」
 そう言って、彼は僕の頭に花冠をのせた。夢だから、重みはわからないけれど、この感触を僕は知っている。
「また呼んでくれよ、我が騎士」
「イエス、マイ……どうしましょうねえ、ここ」
「マイフレンドでいいでしょ」
「なんか恥ずかしいなぁ」
「慣れろ慣れろ。あとキミ、僕の口調真似てるみたいだけど、下手だな」
 膝を払いながら彼は立ち上がると、月明かりとも陽光ともつかない天の輝きを見上げた。つられて立ち上がってから僅かに見下ろすかたちになったその横顔の美しさは、完全に王のそれとリンクして、揺れる水面のようにその輪郭を曖昧にしていく。
「目下努力中です」
「もっと肩の力抜いてくれよ。まったく、真面目なんだから」
 僕の肩を叩いて、彼は僕に背を向ける。すると途端に視界が歪み始めた。ピンクともパープルともつかない色の空。地平線いっぱいの白い花々。壊れた大聖堂。花。瓦礫。花。血痕。花。混ざりあって、白く崩壊する。……しかし彼は消えない。たぶん、今もそこにずっといる。
「ラドレ!」
 名前を呼ばれた気がして薄目を開くと、目の前に王の顔があった。僕の寝顔を覗き込んで、起きるのを待ち構えていたらしい王は、はにかんだ笑顔を浮かべて僕の胸板で寛いだ様子でいる。どうやら機嫌が良いらしい。
「おはようございます、王。なにかいい夢でも?」
 言いながら、手を伸ばしサイドテーブルから眼鏡を手繰り寄せる。そのまま耳に掛けようとして、ふと思い立ち寸前で止めた。手にしていた眼鏡を脇に置いて、胸の上の王の頬に手を伸ばせば、生きている柔らかさが掌にじんわりと滲みる。
「いいゆめ、みました」
 そう僕に報告した王は、直後に「わほほ」と胸が擽ったそうな笑い声を上げると、僕に頭を撫でるよう促してきた。夢の中で誰かにそうされたのをリフレインしたいのか、僕に頭を撫でられながら王は目を細めて鼻歌をうたいはじめる。今しがた目覚めたばかりだというのに、その歌声は再度僕を幻想の世界へと誘おうとするものだから、つい大きな欠伸が漏れた。それを片手で押さえ込みながら、王のちいさな耳朶に触れれば、王もくぁ、と欠伸をひとつ。
「……私もいい夢をみましたよ。知らないのに懐かしい夢です」
 僕がそう言うと、王はぴたりと動きを止めた。そして僕の上からゆっくりと起き上がると「それはよかった」と背中で言って、ベッドから降りた。
「起こしてしまいましたね。シャワーを浴びてきます」
 そのままバスルームに消えていくネグリジェの裾のひらめきが、やけに目に痛い。それにより二度寝をしたいような瞼ではなくなったので、僕もベッドから降りふと思い立ってトランクを開けると、青い専用ケースの中にはきちんとあのピアスが収まっていた。どんなに不器用で注意散漫な王でも、このピアスをここに収めることは決して忘れない。……シャワーの音が聴こえてくる。俄雨のように。

「王、聞いてる? いくつ食べるの?」
 今朝から僕の呼び掛けに対して妙に反応が鈍い王は、同じ質問を繰り返しているのに一向に返答をくれず、僕は困り果てたまま屋台の行列が進んでいくことにやきもきしていた。
 昨晩の夢が余程よかったのか、王の意識が戻ってくる気配はなく、僕はイカ焼きの屋台の見本として吊るされたプラスチック製のイカを見つめながら、朝の王がどれだけ食べるかを計算する。他にも色々買うとして、取り敢えず三匹分くらいで良いだろうか。
「三つください」
 とうとう順番が回って来てしまったので、店員に数を伝えて電子マネーで決済をする。そして目の前で焼かれたイカが鋏でひと口サイズに分解されていくさまを眺めながら、王に「美味しそうだね」と声を掛けると、王はぽそぽそとなにか独り言を発しているようだった。普段このちいさな声には不思議とノイズが入り僕の耳に届くことはないのだが、今日はなぜだか僅かに聞こえてしまった。
「わたくしの皿にはなにも乗っていない」と。
「乗ってるよ。イカ焼き三袋ぶん。僕の分も食べちゃうでしょ、キミ」
 そう返してやると、王の目が唐突に醒めたのが解った。そして僕を見上げ、にこりと笑顔になると「はんぶんこにします」と返して店員から袋を受け取った。
「ほんとー?」
 列を離れながら疑念を口にすると、王は「ほんとうです」と頬を僅かに膨らませた。いつもの調子に戻ってくれたことに安堵しながら、その腰を抱く。
「肉、は知っています。火、も知っています。あとが読めません」
 次に王が指差した屋台もまた、行列だった。僕の袖を引いてわざわざそう言ってきたということは、視覚や嗅覚といった情報から食べてみようと判断したということなのだろう。列の最後尾に並びながら、その屋台の掲げた看板を指差し、筆字フォントで躍る言葉の意味を教えてやる。
「一番最初は、馿リュー。馿肉はロバの肉ってこと。火の後はシャオ。焼くって意味なんだけど、ここでの火焼はパンのようなもののことだね。つまりこの馿肉火焼リューロウフオシャオは、簡単に言うとロバ肉バーガーってこと」
 確か華北地域のローカルフードの筈だ。今いる場所では火焼ではなく白吉饃バイジーモーと呼ばれる白パンを使うのがメジャーなようなので、正確には火焼ではないかもしれないが、大方のニュアンスは伝わっただろう。すると王は呟くように「トゥララトゥララポロンポロン」とオノマトペだけで構成された謎の歌をうたいはじめたので、意味を訊ねると「リュートです」とだけ返された。少し遅れてそれが童話を表現していることに気付いたが、意味についての返答はなかった。
 馿肉火焼の列は意外にも早く進み、まだイカ焼きが温かいうちに順番が回ってきたので、ふたつ購入する。
「はい、お皿にはロバの肉も乗りました」
「おさら?」
「キミのお皿。ほら、食べる場所探そう」
 首を傾げた王の手を引き、朝市の雑踏を縫って進む。そして鳥籠を持った人々が集まっている公園に辿り着くと、空いているベンチに腰を下ろした。そしてイカ焼きと馿肉火焼を、膝の上に敷いたハンカチの上に広げれば、あまりメルヘンではないピクニックの始まりだ。
「ロバさん、ハオチーですね」
 ほろほろと見るからに柔らかそうな桃色の肉をパンの中から歯で引き抜いたあと、王はそう呟いた。これを売っていた屋台はローストした塊肉を、オーダーに応じて包丁で崩してはパンに詰めていくスタイルだったので、回転率を考慮した柔らかさになっているのだろう。
「パンは固めですね」
 肉を確認したあと、おおきなひと口でバーガーに齧りついた王はそう言って、矢張り使用されていた白吉饃を指でつついた。カチカチというほどではないが、乾いた音がする。
「火焼もなんだけど、この手のパンは固い方が美味しそう、ってイメージがあるみたい。汁物と一緒に食べたり、入れたりするから、外側がふやけてまだ中が固いってのが食欲をそそるんだって」
「半熟、みたいなことでしょうか」
「似たようなものかもね」
 そう相槌を打って、僕も同じものを齧る。肉を詰めたあとにかけられたあまじょっぱいソースが肉汁と共に饃に染みて美味い。肉と一緒に叩かれ混ぜられていたピーマンの苦味もアクセントになっている。イカ焼きもカットされていて食べやすく、竹串に刺して口に放り込んでいるうちに薄味のビールが飲みたくなってきた。
「どうしてここにいる人たちは鳥を連れているのですか?」
 自販機で買った烏龍茶のペットボトルを膝に置きながら、王は不思議そうに訊ねてきた。その視線は集まった鳥籠に向けられている。
「ああ、あれはね。歌を覚えさせてるんだ。色んな子がそれぞれの持ち歌を披露するから、それを覚えて歌のレパートリーが増える。外に出ないと新しい歌は覚えられないってことだね」
 ぴよぴよと耳を涼やかに撫でるちいさな彼らの歌は風となり、辺りの木々を揺らしてベース音を奏でさせていた。そこに鳥籠内の止まり木を移動する足音も加わって、辺りは原始的で神聖な音楽で満ちていく。
「王の歌もレパートリーが増えたよね」
 そう言いながら、王の長い髪を耳に掛けてやる。そのちいさな耳朶には、今日は僕が以前贈ったピアスがきらめいていた。
「そうですか?」
 指先で僕の触れた軌跡をなぞり、王は首を傾げる。
「昔は儀式で歌うものばかりだったけど、今は意味わかんないのもたくさん作曲してるし」
「失礼な。意味わかりますよ」
「はいはい」
 王を外に連れ出したのは僕だ。だからこそ王のへんてこな作曲を促してきたという自負と、その矢鱈と上手く謎めいた鼻歌への愛がある。鳥籠から出した鳥が外の世界でも生きていけるという奇跡を信じるパワーを、僕は王の歌から得ていて、それはある意味僕と世界との鎹でもある。王が生きているから僕は生きている……そんな僕らのポイントツーポイントが、世界と接続する余地を発見して、このごろ絶えず音楽を流し続けていた。
「あたらしいうた、の、うた。ららら。そらはきいろいあお。かぜはみどり。あなたはまひるのかげのようにやさしい……にじいろ」
 新曲だ。呼吸をひそめて耳をすます。普段よりすこし叙情的。王の発した声に合わせて、籠の小鳥たちが徐々に声を重ねていく。誰かが大胆に音階を外すが、本人からしたらジャズなのかもしれない。王に集まる鳥たちの視線。飼い主たちは新聞や雑談に気を取られて聴いていない。僕だけが聴いている。木漏れ日が散らばせる光の色が見える。プレシャスオパールの虹色だ。王から鳥たちへのブロードキャストはそのうち全世界へ波及するだろう。知らない誰かの知らない歌として。匿名性は祈りの純度を高める。……王の祈りは、なんだろう。
「おまえ、兄様の夢をみましたね」
 ふと、人差し指でのコンダクトをとめて王は言った。
「あのひとは、おまえの夢でも美しい?」
 王はこちらを見ない。その横顔が、あのひとのそれと重なって、眩しい。ちかちかと明滅して、小鳥の残唱の拍と合わさって、響く。頭に。記憶に。夢に。目眩がするなか、空の色を確かめる。青だ。黄色い青だ。
 僅かに開いた唇の隙間から、ゆっくりと息を吐く。ここには白い花はない。ただただ地続きの現実が視界の先すべてに延びていくだけの星の表面だ。
「……そうだね。あの方は、ずっとずっと、美しいままだ」
 見られていないと知りつつ頷いて答えると、王は「そうですか」とぽつりと呟いて風の匂いを嗅いだようだった。熱い風は花や果実の濃密な匂いを運んで、ふと僕に衣替えするようにとヒトへの擬態を促しつつ吹き抜ける。これから気温が上がりそうだ。鳥の飼い主たちも帰り支度を始めている。

 帰りがけに人々の服装を確認してみたところ、大半が半袖、或いは日除けのシースルー素材が取り入れられた風通しの良さそうな服を着ていた。僕には隙あらば王にくっついて暖まりたいという欲求は年中通してあるのだが、夏場の涼を求めた服装についてはどうにも疎く、一応初夏から段階的に軽装にはしているものの、この国はその広さゆえに地域ごとの環境差が大きく適切な服装が掴みにくい。しかも今いる場所は夏場にかなり暑くなる地域らしく、どこに行っても水晶のように濃い陽炎が見受けられ、冷菓の屋台には行列ができていた。僕たちにとっては四十度程度の気温はどうということはないのだが、こんな中で長袖でいるのも不自然だろう。特に王は暴れ回るのに邪魔にならないような動きやすい服を好んでいるので、そろそろノースリーブのものを着させても良い頃だ。
 ホテルに戻り、風呂好きの王がまたしてもシャワーを浴びているあいだにある女にメッセージアプリで連絡をする。「ご希望のお日にちは」「いつでも。急いでないよ」「では今から」「ああ、そう」……この女は、暇なときとそうでないときの差が激しい。それに付随するテンションもそうだ。どうやら今回は運良く手が空いていたらしく、すぐに届いた返事に苦笑しながらスマホをベッドに放ると、トランクから茶缶を取り出し紅茶の用意を始めた。
「グラシアス! ミル・グラシアス! 呼ばれて飛び出てキラキラー! 出張仕立人ガラシャでございます!」
 紅茶を蒸らしている最中、部屋に置かれた全身鏡の中からご機嫌な女が出てきた。ストロベリーのような赤毛。毒性の強いグリーンアイズ。スレンダーボディをど派手なランジェリーに包み、毛皮を羽織ったその『鏡の魔女』は、決め台詞を言い放つと、直ぐに「暑っつい!」と叫んで脱いだ毛皮を僕に向かって投げつけてきた。
「チャイナの夏ってこんなに暑いんですの? 信じられないですわ」
 ぷりぷりと怒りながら、彼女……ガラシャ・レンゼンはソファに座っていた僕の隣に腰を下ろすと、僕が毛皮を軽く畳んでいたのを取り上げてその懐からゴージャスな扇子を取り出して胸元を扇ぎ始めた。ぶわりとベリー系の果実味あふれる香りが湧き上がり、鼻が苦しいのについ目を細めてしまう。
「鏡通ってきたなら暑くないんじゃないの」
「道中暑いんですのよ」
「一瞬でしょ」
「一瞬でも汗ばむなんてサイテーですわ」
「寒暖差耐性、ないの」
「私ども魔女は一応、元人間でしてよ」
 そんな会話をしながらポットから紅茶を注ぎ、カップを乗せたソーサーを彼女の前に差し出す。アイスじゃなくて悪いんだけど……と謝罪する僕の手からひったくるようにしてソーサーを受け取った彼女は、ひとくち飲んで「あなたの紅茶はいつも美味しいですわね」と満更でもなさそうに微笑んだ。そして僕の頬に軽くキスをして、グラシアス、と囁く。
「わほほ」
 その瞬間、背後から笑い声がした。不味い、と思いながら素早く振り返ると、ショーツ一枚を穿いて頭からバスタオルを被っただけの王が、好奇の眼差しを此方に向けて立っている。違うんだ、という言葉が喉から上に射出されるより前に、王はそのままの姿で壁に掛けてあったポシェットに駆け寄ると、中からスマホを取り出したようだった。
「春の写真を撮ります」
 ニコニコ笑顔でそう言って、王はスマホのカメラを此方に向けてくる。
「や、やめて、王。違うんだ。ぜんぜんまったくすんごくおおいに違うんだ」
 王のパパラッチなシャッターを浴びながら、顔を隠す。傍らのガラシャは何故かノリノリでポーズを決めており、王の行動を止めてはくれない。どんどん近づいてアップの写真を撮ってくる王を捕まえようと手を伸ばすが、機敏な身のこなしでひらりと躱されるものだからどうにもならない。
「おふたりのご関係は。事務所は把握していますか」
 どこかで覚えてきたらしい突撃取材の文言を口にする王にとにかく服を着るように言って聞かせる僕の隣で、ガラシャは扇子で顔を隠して「事務所を通してください」とぶっきらぼうな声で応戦して極めて乗り気だ。そのままパパラッチごっこを楽しむふたりが飽きるまでただただ待ち続け、なにやら謝罪会見が行われたところでそのごっこ遊びは幕を閉じた。関係は不倫。正妻には両者から多額の慰謝料が支払われ、どうやら俳優だった僕は名声に加えて妻子をも失ったらしい。
「ああ、たのしかった。ガラシャ、ひさしぶりですね」
 向かいのソファに腰を下ろして、やりきったとでも言いたげな顔で王は言った。
「御機嫌よう陛下。特に『子供にはどうか内密に!』と懇願する氏の泣き顔が無様でよかったですわね」
「言ってないんだよ」
 にこやかに虚偽の話をするガラシャにそう指摘しながら、王のために紅茶をカップに注いでやる。それを飲んだ王がそのニコニコ笑顔をより一層深めるのを見て、思わず口許を緩めていると、トランクの中から赤いテープのメジャーを取り出したガラシャが立ち上がった。
「それでは、採寸を始めましょう」
 しならせたテープ部分を僕の膝にぴしゃりと叩き付けた彼女は、王の玉体に触れられることが毎度の楽しみのようで舌舐りをしている。
「いや、採寸は前にもしたでしょ。いいよ今回は」
「一応これが生業ですので、クライアントのお身体はこまめに記録を取りたいんですのよ。真面目に真面目に、ね? ……というのは建前で、私の楽しみなんですからクライアント風情が邪魔なさらないで」
 最後を吐き捨てるように言って、ガラシャは王に近づいて行く。その背中に「ボディオタクめ」と小声で言ってやると「オタク上等」と地獄耳の返事があった。
 僕が備え付けのヘアドライヤーを手に王の髪を乾かしている最中、ガラシャは王の身体を手際よく採寸していく。特にバストやアンダーバストにメジャーを充てているときに彼女の睛は爛々と、いや、ぬらぬらときらめいて、まるで皿の上のご馳走を見下ろしているかのようだ。
「なんど拝見しても奇跡のようなおからだ……」
 ドライヤーの送風音が響く中でも、ガラシャのうっとりとした声が明瞭と聞こえてくる。王を見る彼女の眼差しに毎度あやうさを感じるのは、魔女という希少種ならば王の求婚、ひいては交尾を受け入れられる可能性があると僕自身が察知して恐れているからだ。
「はいはい。目盛り見たでしょ。次行こう次」
 ガラシャにそう促しながら、王の長い髪に櫛を入れる。肩を竦めた彼女の頭がどんどん下っていくのを視界の端に捉えながら、チョキの手とグーの手を組み合わせてカタツムリを作って機嫌よく遊んでいる王のはだかの肩に触れる。かれこれずっとちいさく、こわれそうな肩だ。それを裏付けるように、ガラシャが「誤差、ありませんねえ」と漏らした。
「変わんないか」
「それはもう、お見事なほどに」
「良いことなのか悪いことなのか……」
 僕のぼやきに、ガラシャは「それはもう、捉え方次第」と肩を竦めてみせると、僕の手を退けて王の肩にガウンを掛けた。その前を留める最中もガラシャは楽しそうで、本当にに天職なのだなと思わなくもない。
「前々から思っていましたけれど、ラドレさんは陛下のお胸がご立派でも嬉しそうではないんですのね」
 そう言ったガラシャの手の中から、王がするりと抜け出す。じっとしていることが好きではない王はステップを踏みながらベッドへと近寄り、飛び込み、そしてビート板のように枕を抱いて足をバタつかせ始めた。その忙しない姿を観察しながら、僕は「そうだね」とぽつり呟くように返事をする。
「王ならどんな外見でも僕は好きだから」
 王が今にも掻き消えそうなほど細っていた頃を知っているからこそ、そう思うのかもしれない。
「あらまあ。うふふ」
 僕の返答を聞いたガラシャは、口許を押さえて一頻り笑ったあと、今度は僕の胸にメジャーを巻き始めた。
「いいよ、僕は。太ってはいない筈だし」
 彼女の手を押し退けようとすると、ガラシャはするりと僕の腕の中に入ってくる。僕の手にメジャーの本体部分を握らせ、僕の腕で作った輪に蓋をした彼女の、湿度の高い唇が顔の近くに寄せられるのを仰け反って避けている最中にも、彼女はその挑発的な目付きやリップとは裏腹に手元では素早く採寸を進めているようだった。
「あなた、昔に比べてかなりサイズダウンしたでしょう。サイズが変わりやすいんですからあなたこそこまめにチェックしないと」
「毎日鍛錬してた頃に比べたらそりゃね。筋肉は落ちて当然というか、それでも誤差の範囲だとは思うけど」
 まさに職業としても騎士だった頃の僕と較べると、確かに今の僕は幾らか痩せたに違いない。あの頃より弱くなったとは言わないが、見た目から感じられる迫力というものは何割か減少していることだろう。
「昔は肩のあたりや胸がパンパンでとても勇ましかったのに……」
 そう囁きながら、ガラシャは僕の胸元に指を這わせてくる。まったく、距離感の近すぎる女だ。それでいてしつこいのだからどうしようもない。
「そりゃすみませんね」
「今はお洒落体型ですわね。一番モテるやつ」
「現にモテるし」
 王から魅了の魔眼を制御する眼鏡を賜ったにも関わらず、僕はこよなくモテていた。王が傍にいるときこそ誰も声を掛けてこないものの、ひとりのときは絶対に眼鏡を外せないほど否応無しに女性体を惹き付けてしまう。
「よく笑うようになりましたしねえ。……きちんとゴムしてます? よからぬものをばら撒いているんじゃありません?」
 そんな僕の摘み食いを咎めるガラシャは、もう殆どない僕らのあいだをぐい、と一歩詰めてきた。密着する身体。向こうで王がシーツのプールでクロールしている、その衣擦れがやけに響く。
「……あんまり大声で言わないで」
「大声、出してないじゃありませんか」
 ガラシャが後ろ手に僕の掌中にあるメジャーに触れると、擦れた音を立てて赤いテープが引っ込んだ。途端に僕から離れた彼女は「ウエストが細く、腕周りが若干太くなってますわね」と記録を取っていたタブレット端末を見下ろして報告をしてきた。
「王のこと捕まえるの大変だからかな」
「円満そうですわね。頑張って腰を振っていやがるようで結構」
「下品な女だな」
「あなたにくらべたら」
 肩を竦めた彼女は、シーツの上でラッコの真似をして小袋のビスケットを砕いている王を振り返り、そして視線はそのままに「いいことを教えて差し上げましょうか」と僕に向けて言った。そのやけに甘ったるい声音を訝しく思いつつも、どうぞ、と促す。
「このホテル、豪華なプールがあるんですのよ」
「水着、お願いします」
 食い気味に、そして意識外に発せられた己の言葉によって、瞬時に様々な妄想が交錯する。健康的な水着姿の王。可愛い水着姿の王。セクシーな水着姿の王。……写真集が、欲しい。
「まいどあり」
 そんな僕を見て、親指と人差し指で輪を作ったガラシャはにこりと笑う。

 日光の威勢が若干和らいだ頃合いをみて市街地から兵馬俑博物院行きのバスに乗って三十キロメートルほど移動し、途中下車して辿り着いたのは華清池と呼ばれる温泉地だ。ここはかの有名な玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台で、彼が彼女のために建てた温泉付きの離宮である。
 この辺りでは温泉が有名だということは知っていたが、残念ながら今は夏真っ只中。陽炎のなか温泉に浸かることを風情がないとは言わないが、なかなか常人としては真っ当ではないだろう。今回は史跡見学に留める。
 華清池の入口にある噴水の中央には玄宗皇帝と楊貴妃が踊っている巨大なモニュメントが聳えており、妙にハッピーな雰囲気が漂っている。元はと言えば息子の嫁だぞ……という白けた気分にならないこともないが、楊貴妃の最期が最期なので、このように陽気な像が立っていることはある意味で慰めになるのかもしれない。それか物語の聞き手に対するボーナストラックだ。
 像を見上げながら王に皇帝と傾国の美女の物語を要約して語って聞かせると、王は無邪気に「わたくしも可愛い妻が欲しいですねえ。たくさん」と言って僕に冷や汗をかかせた。『たくさん』とは聞いていなかったが、そもそも王が一夫一婦制を希望しているとも聞いてはいないことに今更ながら気が付いた。それにより僅かに湧いた焦りが膨張する前に薄め切ってしまいたくて、
「王は正室を大切にする? それとも皆平等?」
 となんでもないふうに訊いてしまう。僕だけを愛してくれとは言えないし、今後も言えそうにない。なぜなら、おそらく王は僕の考えるような愛を知らず、また必要ともしていないからだ。
「正室を特別扱いしないと他と区別した肩書きを与えた意味がないと思います。平等に扱うなら正室や側室といった肩書きをそもそも使わないというのがよろしいのでは」
 僕の問いに至極真っ当な返事をした王が、ぱっと僕の手を取る。どうやらモニュメントと同じポーズを取ってみたいようだが、誇張表現があって難しい。
「確かにね」
 相槌を打ち、軽くワルツ踊ってみながら固まった彼らのポーズを模索していく。しかし途中で僕が踊らされているのが女性のパートだということに気付いてしまって面食らうが、姿勢は崩さない。王が王なのだからこの配役は当然なのだが、人通りは多くないとはいえ一応公衆の面前ではあるので少し恥ずかしかった。
「でもわたくしは使い魔ひとりで手一杯ですから、たくさん妻がいたとて、皆平等はむずかしいかもしれない。努力はしますが」
 そう真面目な様子で僕の身体を支える王の力は強く、その芯の通った引力に一瞬ときめいてしまう。僕が勝手に蝶よ花よと猫可愛がりしたいという欲求を抱いているだけで、王は見方によってはハンサムでもあるのだ。そして本人も所謂『かっこいい』が好きなので、その気になれば紳士としてだって完成するだろう。
「つよく手を握って」
 そう言われて、上の空だった意識を右手に込める。王の計算されたステップに促されるようにして、繋いだ手を軸にした上体が空を切った。ばちん、と一瞬だけ釣り合う重心。遠心力。離れる手と手。ピクチャーポーズ。モニュメントと重なって。そして放り出された身体が、王の手によって抱き留められる。ばっちりと合う目と目。……かっこいい。
「ふう。よしよし。では行きましょう」
 満足気な王の背中に続きながら僕が赤面するわけは、観光客らの拍手を浴びているからではなく、単に王に体重を預け、安心させられていたからだ。こうして唐突に王に抱いていたファン心理を満足させられ、耳や頬がかっかと熱を持つ。外気温や温泉よりも熱い。うちの王はなんて素敵なのだろう……と引き続きときめきながら、以前弊社の社員が王を「末っ子長男」と称したことがあったのを思い出す。まさにそのイメージ通りにやんちゃだと感じることが多いが、ときたまこうして『かっこいい』のだから狡いものだ。そしてそのかっこよさというのは、あの人のそれと重なる。
 美しく整備された庭園を案内板に従って進む。九頭の龍が水を吐くオブジェクトが設置された池の外周をゆったりと歩きながら、手入れされた木花の美しさや、背後の驪山との風光明媚な一体感を味わえば「観光してるなあ」という安息が胸を温めた。これまではなんだかんだで事件があり忙しい旅だったような気がする。熱を持った空気を目の粘膜と唇で感じつつ、なるべく日陰を選んで歩きながら、当時を再現している建造物を立ち止まっては見上げた。
 たとえば僕が皇帝だったら。愛する人に何を贈るだろうか。僕にしかできないよ。僕は皇帝だよ……。そう威光を撒き散らしながら可愛いあの子の態度を窺う。僕だったら……花畑だろうか。あの白い花の咲く。
 温泉地なこともあり、冬枯れの季節に訪れればまた独特の雰囲気があるのだろうが、夏の離宮もまた中々のものだ。青々とした柳が恋するふたりの秘密を覆い隠さんばかりに枝葉を伸ばし、それを乾いた大風が揺さぶる。あちらこちらで、きっと彼らの想い出のあちらこちらで、ざわざわと、鳴る。きっと歴史のどこかで、誰かのあの夏のどこかで鳴っていたであろうこの音楽が、今朝聴いた真新しい音楽と重なったがした。
 真白い裸体の楊貴妃像を見て王が「おなごはよいですねえ」とのんびりした声を上げる。そして「かわゆいかわゆい」と何度も頷くので少し胸がざわりとした。その僅かなジェラシーを手を繋ぐことで幾らか解消し、先に進んで温泉跡を見学する。玄宗皇帝の蓮華の湯は大理石造りで大きく、それに比べて楊貴妃の海棠の湯は小ぶりだが、花のような形をしていて可愛らしい。
「わたくしは大きいほうがいいですね。おまえはちいさいほうに入りなさい」
「えー、僕の方が身体が大きいじゃん」
 そんな会話をしながら見つけた、楊貴妃の好物であったライチを売る屋台にまんまと釣られていくつか実の入ったパックを買う。王に食べ方を教えたものの、案の定王は口を開けて待っているようなので、剥いてそこに放り込んでやった。そして「ハオチー」とにこり微笑んでライチを口の中で転がす王の姿を眺めている最中、ふと種のことが思い出され「種はペッして」と声を掛けようとするのとほぼ同時に王の顎に力が入るのが見えた。どうしてこの子は甘栗といい魚の骨といいなんでもかんでもまるごと噛もうとするのか……咄嗟に王の口に指を突っ込むと、それはもう呆気なく剣歯が指に食い込んだ。
「いっ、てえ!」
 思わず大きな声が出る。そんな僕に王はびくりと肩を震わせると、口を半開きにしたまま固まってしまった。
「あ、ごめん……びっくりしたね、ごめんね」
 驚かせてしまったことを謝りながらそろりと引き抜いた指は、出血こそしているものの、きちんとその形を保っており、引きちぎられたり潰されたりはしていない。王は先に感じていたであろう血の味よりも血を見たことのほうがショックなのか、口の中からからんと種の音をさせたと思えば、じわじわと眉根を寄せ、それから僕の胸に抱き着いてきた。
「うう、ごめんなさいラドレ」
 その存外に気弱な態度に、僕も面食らって動けない。……王が謝った。お礼は言えるが謝ることは殆どない王が、謝った。これは余程ショックだったと捉えるべきか。
「だ、大丈夫だよ。大きな声出しちゃってごめん。そんなに痛くないから大丈夫。王がすぐ止めてくれたから傷も深くないよ。ありがとね。いきなり指入れちゃってごめんね」
 そう繕いながら無事な方の手で王の頭を撫でていると、ふと王が傷を負った僕の手を取った。そしてゆっくりと傷口に唇を寄せ、ぺろりと小さな舌で出血を舐めとりはじめる。
「えっ、大丈夫だよ……」
 制止しようとするものの、王は僕の手をがっちりと掴んで離さない。俯いているので表情は窺えないが、その姿は初めて皿からミルクを飲み始めた愛玩動物の赤ちゃんのように懸命だ。もうママはいないと察しているかのような深刻さ。こうもひとりぼっちみたいに舐められてはこちらも心苦しい。
 やがて元々強くもなかった血の勢いが殆ど止んだあと、王はポシェットからいつもの可愛らしい絆創膏を取り出し、丁寧に指に貼ってくれた。そしてそのピンク色のしるしで彩られた手をきゅっと握って「安静にしないと」と白い顔を更に真っ白にしている王に何度も何度も大丈夫だと言って聞かせながら、帰りのバスの時間を確認する。すぐに丁度良い便を見つけたのでやんわりと出口に向かう最中、はたと気づく。さっきの王は実はかなりエロかったんじゃないか。どうしてもっと真面目にエロを堪能しなかったのか。脳内がピンク色と言われても反論できない僕が仕出かしたその見落としに、半ば愕然としながら見下ろした絆創膏は少しよれていて、それがあまりにも健気で。欲から切り離された場所でひっそりと光を浴びるそれは、俗っぽい僕の目をその眩しさで焼く。
「可愛いなあ、もう」
 そんな僕の呟きはバスのドア開閉音に殆ど掻き消され、あとは満員の車内で王を労る活力へと変わった。

 ホテルへ戻る前に回民街に寄り、羊肉泡饃ヤンローパオモーというパン粥を味わい、それから夜市で水餃子を食べた。羊肉泡饃では饃という固い焼きパンを客が細かく千切るのだが、この作業を王が代わってくれたし(ひと握りで粉々になった)、水餃子も王が不器用な手付きで口に運んでくれた(何度か鼻で食わされそうになった)。都度礼を伝え、もう大丈夫だと言って聞かせるが、一向に王の顔色は優れない。それどころかデザートのサンザシ飴を王の小遣いから買ってくれさえした。飴でコーティングされた赤いサンザシが幾つも連なったそれを口にぐいぐい押し込まれながら盗み見た王の顔はまったくの無表情に近く、これは深刻だなと思いつつ帰路へ着き、部屋に戻れば明かりをつけるよりも先にベッドに押し倒された。そして王がその体勢のまま服を脱ぎ始めるものだから、思わず青褪めて「わー!」と大声を出してしまう。
「駄目、駄目だよ。そういうのはよくない」
 王のか細い手首を掴んで脱衣を止めさせながらそう指摘する。
「僕、王のこと好き好き大好きだけど、そういう代償行為はしてほしくないな」
 どの口が、とは思うものの、こればかりは仕方がない。幾ら僕の脳が性欲ファーストでも、譲るべきではないことなのだ。
「同意します」
 しかし我が王はそんなことを言って、僕を酷く傷付ける。胸にぽんと穴が空く。
「駄目。僕が同意していない。ふたりでしたいねって思ってからするものなんだ。ほら、おいで。ぎゅってしよう。どう? する?」
 ゆっくりと王の手を掴んでいた手を離し、広げる。すると王はちいさく「する」と呟いて僕の胸におずおずと倒れ込んできた。それを強く抱き締め、横臥する形に体勢を変える。そしてゆるゆるとそのちいさな頭を撫でていると、腕の中の王は言った。
「もうかたいところは食べません」
 幼気な語尾の揺れ。微笑ましくてつい笑ってしまう。
「……食べられるかたいところもあるから。分かんなかったら聞いてよ。教えてあげる」
「ホネ、食べない。カラ、食べない。タネ、食べない」
「まぁ大抵はそうだね」
「傷をつけてしまってごめんなさい」
「うん。いいんだよもう。最初から怒ってもないし、許せないとも思ってないから」
 王に腕枕をしたまま、ごろんと仰向けになる。そして「ねえ見て」と右手を天井に翳す。
「可愛い絆創膏。いいでしょ」
 よれて、ずれて、可愛くてたまらない絆創膏だ。
「好きな人に貼って貰ったんだ」
 幾らか勇気を出してそう言うと、王はぽつりと「いいなぁ」と心底羨ましそうに呟いた。そして目が合う。なんて可愛いんだ。美しくて、なのに可愛くて。凛々しくて、なのに可愛くて。恐ろしくて、でもやっぱり可愛い。キミは僕の、運命まるっとそのもの。
「ラドレ」
「なあに、王」
「したい」
「……え?」
「したい、です」
 吐息だけで、王は言った。
「ちょっとそれ、たまんないかも……」
 形容詞よりもずっと堪らなくて、王の上に覆い被さると、もう一度目を合わせてから唇を。
「ここまで気付かれないと逆にちょっと面白くなっちゃいますわね」
 唐突に、女の声がした。大きく跳ねた僕の肩の下で、王が首を横に捻る。
「こんばんは」
 然程動じていないらしい王の挨拶に、誰かがくすりと微笑んだ。
「ええこんばんは、陛下」
 矢張り声の主は……と僕も首を捻ると、ソファにガラシャがいた。唖然とする僕の視線を一切気にした様子もなく、キセルに火をつけ、吸って、吐いて。
「気づかれなかったんなら気づかれないまま空気読んで帰ってくれ!」
 僕のワンブレスの叫びを聞いた彼女は、なんてことのないふうに「まあうるさいこと」と肩を竦めてテーブルの上の灰皿を手繰り寄せた。
「案外ロマンチストなんですのねえ。可愛い顔しちゃって」
「聞かなかったふりしろよ。あと見なかったふりもな!」
 重ねてそう指摘する僕の身体の下で、王がもぞもぞと着衣を整え始めたので、僕は泣き出しそうになる。これはもう今夜は駄目なやつだ。僕がしても仕方がない後悔に塗れながら身体を起こすと、いち早くベッドから降りていた王がガラシャに近付いて身を屈めた。
「これを持ってきてくれたのですね、ガラシャ」
 王が手に取ったのはガラシャの店のロゴが入った紙箱だった。薄いものが三つある。
「はい。こちらのふたつが陛下のもの。そしてこっちがあのスケコマシ用です」
 そう言って、ガラシャは王の手からひとつ取り上げると僕に向かって投げてきた。飛んできたそれを捕まえて蓋を開けてみれば、水着の上下セットが入っている。
「貴方のはいつも通り襟を詰めたデザインです。あんまり面白みがない感じの」
「そりゃどうも」
 どうやらガラシャは大急ぎで水着を先に用意してくれていたらしい。彼女の仕事はいつも早いが、この早さからして僕がプールを楽しみにしていると思って気を遣ってくれたのだろう。
「はい、それでこっちが陛下のですね。こちら観賞用」
 王の手からまた箱をひとつ受け取ったガラシャが、その中の水着を広げる。王が「まあかわいい」と笑顔になっている通りに、フリルとリボンが多めで可愛らしいそれは、ツーピースとワンピースのあいだのようなデザインで、露出しすぎていない点も評価できる。
「ふーん、いいじゃん」
「こちらストローハットと防水スマホホルダーもセットでしてよ。サンダルも用意して御座います」
 ガラシャは傍らに置かれたショッパーから小物類を取り出し、そのうちつば広のストローハットを王の頭に被せた。単品でも使えそうな、リボンの可憐な誂えである。
「はいはい追加料金払えばいいんでしょ」
「ご理解いただけているようで結構ですわ」
「ていうかなんで二着?」
「ですから、こちらは観賞用。そしてこちらが、使う用……」
 ガラシャが指差す先で、王がもう一着の水着を広げた。
「こんなん着させられるかよ!」
 第一声がこうなってしまうほど、布面積が著しく小さいそれは、王の玉体の前に広げられると一層のこと可哀想だ。何もかもが申し訳程度なのに、無駄な紐が沢山ある。
「なんだその紐! 意味あんのか! 君の下着くらい訳わかんないって!」
「無駄こそセクシー。裸な方がマシ、だからこそ裸よりもセクシー。意味、わかります?」
「わからないよ!」
「わかんなくて結構ですわ。だってこれは使う用」
「何に使うのさ」
「わからないんですの? プレイ用に決まってますでしょう」
「わかってるけどボカしてんだよこっちは! 王の手前な!」
「わほほ」
 噛み合わない僕とガラシャの応酬に、王の呑気な笑い声が混ざり、思わずそちらを見るといつの間に着替えたのか際どい水着姿の王がいた。アホほどエロい。そう感じるが、同時に血の気が引いている。こんなやり過ぎのエロを王に投影してしまって大丈夫なのか?
 そう葛藤する僕を他所に、目を輝かせたガラシャが王に飛び付く。そしてまるで目の前のご馳走に食らいつきたいのに待てと言われて堪らず飛び回る犬のように、忙しなく王を全ての角度から観察しては大仰に感嘆し始めた。
「まあ陛下! 素敵ですわぁ! なんて芸術的なんでしょう。どんな超絶技巧の美術品ですら敵いませんことよ。まるで三千世界のオーパーツ。ここにあしらったダイヤモンドですらただの筆致のひとつでしかありませんのね。ああファンタスティカ! お写真宜しいです?」
「ええ、ガラシャ。好きなだけどうぞ」
「ああ陛下、グラシアス! ミル・グラシアス!」
 どこからか取り出した古風なミラーレス機で転げ回り写真を撮るガラシャを視界の隅に追いやりながら、僕もじっくりと王を観察する。本当に細くて、寒そうで、なぜだか妙に切なくて堪らない。普段の僕ならガラシャを鏡に向かって蹴飛ばしてでもふたりきりになってベッドインするところだが、どうしてこうも侵し難いと思ってしまうのか。……少し考えて、気付いた。王が、楽しそうではないのだ。
「ふぅ……最高……。これ以上この美の暴力を浴び続けると幾ら私でも耳石がガックガクになって耳から家出しそうになりますので今日はこのあたりでお暇しますわ……」
 荒い呼吸を整えながらカメラをしまうガラシャに、王は「もうお帰りなのですか」と首を傾げる。するとガラシャは王に向かって勢いよく親指を立てると、それをそのまま僕にも向けた。
「勿論ですわ。なんのために私が超特急で仕上げたと。使う用だからですわよ。それではよい夜を。そしてプールも楽しんでくださいまし。インボイスはメールでお送りしますわ。チャオ!」
 そう言ってガラシャはトランク片手に鏡に飛び込んで消えた。相変わらず嵐のような女である。ひとつおおきな溜め息を吐いてから王を見ると、王は床に落ちた元の衣類を拾っているところだった。手伝うよ、と声を掛け立ち上がると、王は「結構ですよ」と微笑んで僕を寄せつけない。そしてそのまま「お風呂に入ってきます」と言って歩いて行ってしまおうとするのをなんとか捕まえて、ちいさな肩に手を置いた。
「一緒に入る?」
 少しだけ屈んでそう問うと、王は首を横に振った。
「プールの練習をしてきます。はじめてなので」
 するりと僕の脇をすり抜けて、王はその派手な水着姿でバスルームへと消えてしまう。やっぱり今夜はお預けか……と消沈しながらベッドに腰を下ろすと、そのまま後ろに倒れ込んだ。王が「したい」と言ってくれたのに、タイミングを完全に見失ってしまったことがただただ悔しく、不甲斐ない。力の抜けた手でスマホを手に取ると、早いことにももうガラシャからの請求書が届いていた。夏服をそれぞれ五着ずつ。それに加えて水着が二着。そのうち一着は使わなさそうな、使う用の、水着。

 結局あの後、王はなにも言ってこなかった。続きがしたいとも言わなかったし、僕に身体を触らせてもくれなかった。ただただ毛布にくるまって、丸まって、僕より早く寝た。あのピアスを握って。
 逆さ枕で毛布の塊を抱きながら眠る。叢雲から覗く月のように、白い肉体のところどころが外側の空気に触れていることが僕を堪らなく安心させる夜。浅い眠りにノイズのような切れ間が生じる度に、王がその雲の中にいるかどうかを何度も確かめる。呼吸の上下。ちょっとつまったような鼻の声。ちゃらちゃらと鳴るピアス。たからものを壊さないように慎重にはりつめた指先が、僅かにピアスの表面を撫ぜた。月光を受けてきらめく白いネイルが、偏光パールの残像をしずかな闇にくゆらせている。それを焼きつけていまいちど目を閉じ、そのピアスを守る手を握った。
 僕たちふたりが一緒に呼んだとしたら、あの人はどういうふうに困るのだろう。もしかしたら僕は後回しにされるのかもしれないが、それは当然のことなので嫉妬はない。こんなに可愛い妹がいたら、誰だっていちばんに大切にするに違いないのだから。
「どうすればよかったのかなあ」
 この呟きが僕のものだと気づくのに遅れてしまうほど、意識は曖昧だ。王がなにを求めているのか僕には解らないが、きっと王も僕に対して同じことを思っているに違いない。わからないなりに王は一生懸命推測して、僕が求めているものをずばりセックスだと察しているのだろうが、それはただの手段や口実でしかない。もちろんセックス自体は好きだし、暇さえあればしたいし、暇でなくても予定に捩じ込みたいくらいなのだが、それが至上のよろこびかと問われれば僕は首を横に振るだろう。僕が王に「代償行為をやめろ」と言った通り、実のところ僕もその通り、そう捉えているのだ。しかし僕の本当の欲望はなんなのだろう。王の欲望はなんだろう。皿の上にはなにがある? ……王の皿?
「なにも、乗っていない……」
 今の声は、誰の声だろう。僕のはずだ。だって王は眠っている。
 瞑っていた目をひらくと、王と目が合った。ふわふわな叢雲の切れ間から、プレシャスオパールが覗いて、きらめいて、ゆっくりと瞬き。
「起きてたの」
 問うと、王は僕が握っていたその手にきゅっと力を込めた。ピアスが手の中にあるかどうか確認したのだろう。
「……いま、起きたのです」
「僕がうるさかったかな。ごめんね」
「いいえ」
 言いながら、王はピアスを僕と王の手のひらの間に置いて、ぴっちりと挟み込むようにして指を絡めてきた。ふたりで確かめるその硬質な祈りは、ふたりぶんの体温を受けてじわりとあたたまってくる。
「このまま手を繋いでねむりたいです」
 眠気からか、普段よりまろやかに王は言った。その呟きの、ぽつりと周囲から隔絶されたかのようにさみしげな響きが、以前「ねむりたい」と痛切に訴えてきた王の姿と重なって、僕は「もちろん」と歓迎するほかない。片手で王の身体を毛布の中から引き寄せて、ゆるやかに密着すると、腕の中にやってきた痩せた身体が落ち着いたペースで上下し始めた。ふたりの手の中のピアスを壊さないよう幾らか気を張りながら、それでも目の前にいるうつくしいものの寝姿に確実に確実に、心ほぐされていく。
 浅い意識をぼんやりと伴った薄緑の視界に、ぴくり、と王の左手が動いているのが薄らと確認できる。掻いている。ああ、泳いでいる。夢の中でプールの練習をしているのだ。

 ホテルのレストランで朝食を摂り、部屋でヌンチャク・パンダの再放送を観たあとに着替えを持って屋上へと移動する。受付で予約の確認をしてもらった後に「ムッシュはこちら、マダムはこちらで」と更衣室の前まで案内されてしまい、思わず王と顔を見合せた。しかしこれはホテル側としては当然の配慮なので、受け入れる他ない。視線とジェスチャーで「着替え、頑張ってね!」と念を送ると、王は腰に手をあててふんぞり返ってみせてくれた。どうやら自信満々のようだ。
 男子更衣室内は広く、個室も充実していた。ここに来て初めて自分の水着を広げたが、指定した通りに上は襟の詰まったラッシュガードとメッシュ素材のパーカー、下は膝上丈のショートパンツだった。上着を脱いだところで痩せたと言われたことを思い出し、鏡に映る身体をチェックしてみるが、自覚は無いので誤差の範囲だろう。確かに王宮勤めだった頃より服はきつくないが、ただでさえ背が高くジャストサイズで着られる服が少ないので、幅の面でサイズが上下することのないように努力はしている。流石に何千何万回と剣を振ったりすることはなくなったが、王を背中に座らせた片腕立て伏せをはじめとした筋トレや、ランニングやストレッチなどの運動は欠かさない。現在の居住地であるニューヨークにやって来たばかりの頃に心労でがくりと体重を落としたことはあったが、今はある程度戻っている筈だ。
 ラッシュガードに袖を通し、襟が喉仏より上にきていることを確認する。首に刺青が入っているからだ。確かこの施設に刺青に関する規制はなかった筈だし、自分としても恥じてはいないが、一応の確認である。他の場所にも彫り物はあるのだが、特に首のこれはあまりにも大切なものなので僕は普段から襟の中にしまうようにしている。首を刎ねる際に目印にでもなりそうなこれは、花の首輪だ。あのとき賜った花冠を、僕は首輪として首に刻み、後生大事に取っておいている。あのちいさな、しろい、王子様から貰った花冠を。
 着替えを終えて外に出ると、日が高くなり始めており、瞑った眼球が痛いほど眩しかった。このホテルには屋上のテラスに大きなプールがあり、予約番号毎に割り振られたパラソルブースも用意されているようだ。モダンな雰囲気は居心地よく、建物側には飲食店も幾つか出店しており、酒でも飲めば時間を潰すのに苦労しなさそうだ。
 指定されていたパラソルブースに移動して現在地を王に送り、ラタンとクッション地でできたデッキチェアに腰を下ろす。王はしばらくやって来ない筈なので、この時間を利用してメールやチャットに目を通すことにして、スマホを取り出した。案の定、数日目を通していないだけでかなりの量が溜まっているが、この待ち時間で処理できるだろう。まずは会計士からのメールに返信を打ち込みながら、更衣室で苦戦しているであろう王の姿を夢想する。ふう、と何度も息を吐いて、何度もちょっと休憩をして。一生懸命にやっているに違いない。
 王はひとりでの着替えがかなり苦手なようで、かの侍女一斉解雇事件のあとも涼しい顔をして『誰よりも早起きをして着替えに割く時間を増やす』というパワープレイでなんとか日々をやり過ごしていたらしい。僕に言ってくれれば喜んで手伝ったのに、王は頑なにひとりでなんでもやろうとしたし、実際に殆どのことはなんでもよくできたので、傍目には天才肌に見えたことだろう。実際に天才肌であることは否定しないが、それでも王の完璧さを補強し続けていたのは、その努力家である側面によるものだ。そのことに気付くのに非常に時間が掛かってしまったことについては、今も後悔している。王はひとりぼっちで完璧であろうと努力をしていて、そして実際に名君だった。陰でこつこつと努力をして、即位当初に蔓延っていた偏見を勇ましく打ち破っていった。だからこそ僕は気付かなかったのだ。王の抱えていた限界に。そしてそれが決壊するさまを、本当に幸運なことにも、僕は見て、立ち会った。知ることができたこと自体、僥倖だったと思う。
 その日、初めて気がついたかのように王は言った。
「兄様がいない」
 孤独な王は、双子だった。
 しかし兄殿下が死んだのは、王が即位するよりずっとずっと前のことで。そのとき僕は、王はもう駄目なのだ、と察した。
「兄様がどこにもいないのです」
 目の前でパニックを起こしている王は、可憐な少女の姿で花畑に座り込んでいた。しかしその睛は老成しきって疲れ果てており、遠くの地平線を臨むかのように僅かに細められていた。頭痛がしていそうな、痛そうな痙攣が瞼のあたりに何度も奔って。
「……王、あの方は、もう」
 僕が声を掛けると、王は花冠を編んでいた手を震えさせ、しかしそれを押さえ込もうと苦心しているのか何度か呻いた。
「おまえは兄様がどこにいったのか知っていますか」
 なにもかもが怖い。或いは、なにもかもに疲れたかのような細い声で王は言った。
「……知りません。私だって、会いたい」
 僕の口からそんな呟きが漏れたと思った瞬間、王は正常に戻った。震えをぴたりと治め、そして手元で編んでいた花冠を、完成させずにその場に散らして言った。
「兄の騎士よ。あなたの名前を、教えてくれますか」
 そのとき、気付いた。僕は、私は、このひとりぼっちの王に、もうずっと名乗っていなかったのだ。
 妹王は孤独だった。現にひとりだった。

「ラドレ!」
 王の声がした。まだメールの返信は半分も済んでおらず、はやいな、と思いながら顔を上げると、この世で一番可愛い我が王がこちらに手を振っていた。瑞々しい玉体を真新しい水着にぴったりと包んだ姿はあまりにも可憐。大きなリボンとフリルが上品にボディラインを演出し、そのセクシーさよりもキュートさを全面に押し出したデザインのお陰で王を年頃の少女だと錯覚しそうになる。こちらに駆け寄って来る王に「プールサイドは走っちゃダメだよ」と教えようとするが、バウンドする谷間のエグいスリットのせいで言葉が霧散する。こんなものを大衆の面前に晒しては何かしらの刑が確定するのではないか。妙な焦りに汗を冷やしていると、とうとう王が追突してきた。それを受け止め、ニコニコ笑顔の王に頬擦りをする。
「わあ、王、可愛いねえ。世界一可愛いよ」
「ほんとうに、イチ? 一番上のイチですか?」
「当たり前じゃん。一番。全部の中の一番。チューしたいよ」
「わほほ、わほほ」
 擽ったそうな王の頬に何度もキスを落としていて、ふと気付いた。
「……王、髪の毛、どうしたの?」
 王の髪が清楚なおさげに結われている。王はかなり不器用で、自分で髪も結えないほどなのに。
「ああ、これですか? これはユーファンに結ってもらいました。彼女、手先がとても器用なのです」
 王が振り返るその先には、花も恥じらうような美少女が立っていた。『愛らしい』という表現を具現化したような彼女は、ぱっちりとつぶらな睛が特徴的で、他のパーツは小作りな顔立ちをしている。王とお揃いのスタイルに結った潤むような黒髪。むっちりとした色白の肌。出るところは出ている柔らかそうなボディラインをワンピースタイプの清楚な水着に包んでいる。小柄で、見るからにおっとりしていそうな雰囲気。付け入る隙が大ありな、手指の所作。へえ、可愛いじゃん……と不覚にも思ってしまったその瞬間。
「わっ、さいてー。目移りするとか」
 可憐な雰囲気と反して、彼女は唐突にそう吐き捨てた。
「目移りする男ってフツーに要らないんですけど。まぁ、私の場合はだけど。王ちゃんは要るの?」
 見ると、傍らの王が俯いている。これはもしかしなくても不味いことをしてしまったのではないかと思っていると、案の定、王はアームレストに掛けてあった僕のパーカーを羽織って前を閉じ始めた。みるみるうちに消え失せるスリット。観賞用の、水着。
「要りますよ。わたくしは不器用なので」
 そう言って、王はニコニコ笑顔になる。そして立ち上がり、突如現れたその少女の手を取ってこちらを振り返った。
「こちらのくらりとするほど可愛らしい姫はユーファン。さっき更衣室で知り合い、着替えを手伝って貰ったのです」
 なるほど。だから着替えが早く、髪だけでなく他にも所々手が入っているのか。
「……ユーファン?」
 ある意味で嫌な予感がしてその名を繰り返す。この国でユーファンと言えば。そして王のなんだかんだで縁談を引き寄せる力を考慮すれば。
「もしかして……楊貴妃、さんだったりします?」
 楊貴妃。本名を楊玉環。傾国の美女。言わずと知れた、世界三大美人のひとりである。
「そうでーす。おふたりのことはダージェから聞いてる。目立つからすぐピンと来ちゃった」
 手元でポチポチとスマホを弄りながら、彼女……ユーファンは言った。
「ダージェ?」
「えっと、ダーリンのおばあさまの、ジャオダージェだよ。この間ご飯したんでしょ? ダージェはちょっと怖いけど面白いひとだから、楽しかったと思うよ」
 そう言って、ユーファンは手元のスマホ画面をこちらに見せて来た。そこにはなにか祝いの席なのか、盛装をしたユーファンと、以前水席のフルコースを共にしたジャオの姿。そうか確かにふたりには縁があった筈だと、あの席では最後までジャオの正体に気が付かなかった間抜けな僕でも合点がいく。ジャオにとってユーファンは孫の嫁、というわけだ。
「彼女はとてもうつくしいでしょう。流石は牡丹の花神です。それにとても優しくて親切なのです。一瞬で好きになってしまいました」
「えー、王ちゃんてば口説いてるー? 惚れちゃうー」
 なにやら王はユーファンの側に立って鼻高々。嫁候補にカウントしたのかと思いきや、ふたり身を寄せあってきゃっきゃと楽しそうなので、もしかすると友達候補だろうか。
「ねえ王ちゃん、あっちで浮き輪とかレンタルできるんだよ。見に行こ?」
「ふむ。行ってみましょう。使い方を教えてくれますか」
 そんなやり取りをするふたりに手首からスマートウォッチを外して渡してやろうとすると、王に押し返された。真面目な顔で「お小遣いがありますから」ときっぱり断って、王はユーファンと手を繋いで行ってしまう。並んだふたりの素足が陽光と同じくらい眩しい。
「……地雷、踏んだかな」
 そんな呟きが、ビル風に巻き上げられていく。

「わ、わ、浮きます。浮いてます」
 レンタルしてきたレモン柄の浮き輪に乗った王が、ユーファンの手によって押し流されていく。初めての浮遊感に戸惑っているらしい王がちんまりとその輪の中に収まっている様子は頼りなくも可愛らしく、水着が見えていればもっと可愛らしかっただろう。
 プール遊びを楽しんでいるらしい王の写真を撮りつつ、バーカウンターで貰ってきたスコッチを舐めていると、ユーファンが手で作った水鉄砲でこちらに水を浴びせかけてきた。小憎たらしいことをするが、それが妙に不愉快でないというか、その可愛らしさの推進力になっているような不思議な女である。彼女の悪戯で濡れた眼鏡を拭きながら、ふとこれは彼女の魅了スキルによるものなのではないかと思い当たる。ともすると彼女は僕と似たような存在で、同じような悩みを抱えているのかもしれない。仮に同じスキルを持つとはいえ、僕如きと彼女が相克しようにも流石に世界三大美人には敵わないので、力量の差から僕が「ちょっと可愛いな」と思ってしまうのだろう。
「ラドレさんこっち来なよ。王ちゃんすごいよ」
 やけに速い犬掻きをしている王を指して、ユーファンが僕を呼ぶ。それに対して「僕はいいよ。王と遊んであげて」と返しながら横目であちらこちらにいるスーツ姿の女性たちを数える。五人だ。害意は感じず、その意識は常にユーファンに向いているので、彼女らはSPかはたまた使い魔か。物々しい雰囲気を纏いつつも特有の華やかさがあるので、或いは侍女たちなのかもしれない。
「王にも仲の良い侍女とかいたら、変わったのかなー……」
 そんなことを、ぽつり呟く。真に仲の良い侍女はいなかったにしろ、彼女らの王に対する評価は実際のところ悪くはなかった。昔、解雇事件のあと庭師に配属替えとなった侍女に声を掛けてみたことがある。薔薇の葉から芋虫を丁寧に取り除く作業をしながら、もう顔も覚えていない彼女は言った。
「陛下はほんとうに、私たちのことをよく見ておいででした」
 侍女から庭師へ。この転属は傍から見れば不当なものだったかもしれない。しかし当の本人はそれを喜んでいた。
「陛下のお部屋に飾る花を詰みに温室に入ったとき、陛下がそこで待っていらしたのです。そして『あなたは花がお好きですか』と問われたのです。私は『植物全般が好きなのです』と答えました。すると『あなたが花に対するとき、その指が風にふれるようにひそやかになるので気になっていました』と。驚きました。だって陛下は……その、騎士様にも失礼を承知で申し上げますが、もっと恐ろしい方かと思っていたのです。でも実際はすごく穏やかに話されますし、悪いことなんてなにひとつなさらないでしょう。だから私、思ったんです。陛下は……」
 眩しい思い出から我に返る。王は誰にも恨まれていなかった。王と仲良くしたい者など今までたくさんいた筈で、その気になれば良い作用をもたらすような輝かしい関係性をいくらでも構築できた筈だ。それでも王は、誰からも一線を引いたところでいつも笑っている。今もそうだ。ユーファンと並んで自撮りをしながら、彼女の肩に触るか触らないかのところで手を曖昧に浮かばせている。自分ももっとはしゃいで遊びたいだろうに、ユーファンの笑顔を守ろうと全方位に意識を研ぎ澄ませている。対人関係において、王は意外な程に奥手なのだ。
 暫くして、プールから上がった王がこちらに近寄ってきた。濡れたパーカー越しの玉体もそれはそれは素晴らしく、目のやり場に困りつつもいやらしい気を起こさないように気を張って、露出されている部分の肌をタオルで拭いてやる。
「ウォーウーラです。食事にしましょう」
「そうだね。あっちに店があるから見てみよう」
 隣のブースで、スーツ姿の女性らに身体を拭いてもらっていたユーファンと合流し、フードエリアへと移動する。高級ホテルなので出店している店もお高めで、見栄えのするランチコースや派手な大皿料理ばかりだったが、その中でユーファンが食い付いたのは涼皮リャンピーと呼ばれる冷たい麺料理だった。
「夏の西安といえばこれなの! バルサミコ酢をかけると更に最高!」
 出店しているものの中では比較的フランクな雰囲気の料理だ。ならばそれを食べようという話になり、カウンターで注文を済ませる。ユーファン曰く揚げ物と涼皮、そしてオレンジ風味のソーダが揃うと夏を感じるらしく、言われた通りに人数分の涼皮、茄子の山椒揚げと鶏手羽の唐揚げの盛り合わせ、そしてオレンジソーダを注文したのだが、運ばれてくるとごちゃごちゃとジャンキーで、あっという間にテーブルの上がご機嫌で気安げな様相を呈した。
「食べよ食べよー。あ、写真撮って」
 そう言って、ユーファンは首からぶら下げていたスマホを取り巻きの女性に手渡す。受け取った彼女はなかなかの美人だが無口なタイプらしく「撮ります」「撮りました」としか言葉を発しなかった。写真を撮って貰ってご機嫌らしいユーファンにあの人たちは誰なのかと訊いてみると、予想通りに侍女だった。しかも使い魔でもあるようだが、五人も連れて歩くとは、見かけによらずユーファンは豪勢な魔力を有しているようだ。
「食事要るタイプ? 食事代持つから休憩させてあげたら?」
「食事はあってもなくても大丈夫だけど、元々人間だからあったら嬉しい感じかも。まぁ近くに危ない人はいなさそうだからあの子たちも休憩にしよっかな。ラドレさんもいるし心配はないでしょ。あ、ご飯代は大丈夫だよ。ダージェが面倒見てくれてるから」
 僕の提案にユーファンはそう返し、侍女のうちひとりを呼び寄せてなにやら耳打ちをする。すると一時解散となったらしいスーツ姿の彼女らがにわかに浮き足立ったのが解った。アイスが食べたいと洩らす誰かに、誰かがそんなんで腹が膨れるのかと窘めているのが聞こえてきて、微笑ましい。
 涼皮は透明感のある白い平麺だった。汁はなく、何種類かのソースと白胡麻、それからネギや香草がトッピングされている。ソースは見た目と匂いから判別するに、辣油ベース、胡麻ペースト、ガーリックペースト、それからユーファンお勧めのバルサミコ酢といったところか。混ぜて食べるのだと教えられたのでしっかりと混ぜてから口に運ぶ。するとまず酸味が口内に広がった。しかしこれには段階があり、速度のはやい酸味、それから、芳醇な酸味。これは辣油ベースのソースの酸味と、バルサミコ酢の酸味がそれぞれ違うテクスチャであるからこそ起こる波なのだろう。面白い。続いて感じた辛味はごく爽やかで、まさに夏に食べたいニュアンスのものだ。そして僅かに滲むような甘味を感じる頃に、涼皮自体の不可思議な食感が感じ取れる。コシがあるのに、酷く柔らかく、今までにない歯触りだ。
「……この表現が合っているかは解らないんだけど」
「女の子が好きそう?」
「……それ。エビとかアボカドと似た分類」
「わかるー。なんでかよくわかんないんだけどね」
 頷くユーファンの隣、僕の向かいの席に腰を下ろしている王を見遣ると、どうやら茄子の山椒揚げに夢中になっているらしい。薄衣のそれをジャクジャクと軽快な音を立てて噛みながら、ニコニコ笑顔でいる。
「お野菜食べてくれて嬉しいよ」
「ナスは葉っぱではありません」
 基本的に王は野菜が好きではない。普段野菜のみの料理を出されると切ない顔をして僕に押し付けてくる。
「葉っぱじゃなくても野菜だよ」
「むん。ではナス、ハオチーです。ナス、スキ。今度から食べます」
「よしよし、いい子だ」
 僕たちの顔立ちを見てなのか、箸と一緒にフォークも出されたので今日の王はご機嫌で食事をしているようだ。パスタの要領で器用に涼皮をフォークに巻き付け、ぱくぱくと口に運んではニコニコする王を見て、ユーファンはなにやら感慨深そうな眼差しを王に向ける。
「はぁー、可愛いね、王ちゃん。一生懸命に美味しそうに食べるね。なんか元気出てくるよ」
「むん? いつもおしとやかにしなさいと言われますが」
「口だけだよ。きっとラドレさんも王ちゃんが頑張ってパクパク食べてるのを見るのが好き」
 ユーファンの言葉に面映ゆくなる僕を他所に、王は腑に落ちていない様子で首を傾げた。しかし、それでいい。王には余計なことを考えずに伸び伸びと過ごして貰いたいのだから。
「ふう。オカワリ、買ってきます」
 そう言って立ち上がる王に「僕が行くよ」と声を掛けると、またしても「お小遣いで買います」と拒否されてしまう。そのまま歩いて行ってしまう王を見て、ユーファンが「ええ、あんなに食べたのにおなかぺたんこじゃん」と驚いている声を聞きながら椅子に座り直してオレンジソーダを飲む。ひんやりと感じる味付けがされているのだろうか、氷がほとんど溶けているのに冷たかった。
「ねえ、ラドレさんさぁ。傷つくかもしれないこと言っていい?」
 十数秒の沈黙の後、ふとユーファンが口を開いた。
「えー、そういう言い方されると身構えちゃうよ」
「じゃあ覚悟するの待ってあげる」
 ソーダをストローでちゅうと吸って、彼女は僕を煽り見た。蠱惑的で、不思議な引力のある眼差し。僕も傍目にはああ見えるのかもしれない。
「……いいよ、言って」
 答えると、ユーファンは此方から視線を外したまま言った。
「王ちゃんさあ、私に似てるの」
 突風が予告なく吹く。
「自分が選ばれるなんて、思いもしてない」
 転がりそうなソーダのカップを手で押さえ付けた直後に、風が止んだ。そして再び、じりじりと日光が火を吐き始める。今この娘は、なんと言った? 聞こえてはいるが、理解が遅れに遅れて、言葉が実感としてこの身に降りかからない。
「同じ匂いがしたから、思わず声を掛けたの。側室根性って感じかな。あなた、さいごには私のこと選ばないんでしょって。私のこと助けてくれないんでしょって。私だけを見て私だけと生きてくれないんでしょって、選ばれないことを覚悟してる。ずっと」
 ぷつり、と心にちいさな穴が空いた気がした。丁度王が気に入っているの缶切りの、ワインオープナーの部分を刺されたみたいに。このまま捩じ込まれたくない、と本能が彼女の二の句を拒絶する。しかし彼女がどこまで押し込む気なのかが解らないから、中途半端な体勢のまま固まることしかできなかった。
「でもね。そんなに悲嘆に暮れたりしないの。だって私たちは奪ってしまったから。当然のこととして受け入れてるの。罪と罰はいつでもくるくるワルツを踊って、律儀なことにも交互にやってくるから。精算のときなんて来ないの。始まってしまったものはもう二度とゼロにはならない」
 それを、わかってるの。……そう吐息だけで囁いて、ユーファンは美しく微笑んだ。国を傾かせることなど造作もないような、真なる艶やかさを湛えた笑みだった。それから直ぐに彼女は「デザート食べたいけどお腹出ちゃうかも」と呟き頬を膨らませると、スマホを弄り始めた。その瞬間、世界の音が戻ってきた気がして、無からの音量差で耳がぶわりと熱を孕んだ。
「僕は……どうしたらいいのかな」
 解を得たくてそう問い掛けると、ユーファンは声を上げて笑った。嫌味のない、寧ろ爽やかな笑いだった。
「今現状、できることなんてないよ。でも、いつかそのときが来たら反省して。一ミリでもいいから後悔して。できれば泣いて。嫌だって呻いて苦しいって叫んで。そうすればきっと救われるから」
 つまり、僕が泣き叫ぶ未来は確定しているということだ。そんな天啓をこの偶然出会っただけの少女が知った顔で告げられるはずもないのだが、今の僕にはそれが妙に恐ろしかった。彼女の言葉は……お砂糖とスパイスと、なにかおぞましいものでできているのかも知れない。言葉の中身は可愛くないのに、可愛いふうに装って、甘ったるい眼差しで人を狂わせる。
「カワホネカラ、こまるね。ちょっと食べちゃうね。ワンちゃんが食べてもわたくしはだめ。こまるね、ちょっとかなしいね」
 不穏な空気をぶち壊す、可愛い歌が響いた。王の新曲だ。見ればワッフルコーンに三段盛りのアイスを三つ手にした王が戻ってきたところで、ひとり「わほほ」と楽しそうな王はその迫力あるタワーのひとつを僕に、そしてまたひとつをユーファンに手渡して、無邪気な笑顔で「あっ、オカワリわすれました」と言って席に着いた。
「アイスじゃおなかいっぱいになりませんね。困った、困った」
 呑気にそう言って、王はタワーの天辺のアイスに齧り付いた。鼻先に薄ピンクのそれをべったりと付着させ、そしてそれを気にした様子もなく、二口目を頬張っている。
「うそ、まだそんなに入るの王ちゃん……」
「むん? アイス、ベツバラ、とあなたの使い魔さんたちも言っていましたよ」
「それは例え話であって……あーん、こんなに食べたらお腹出ちゃうよ。胃下垂なのにー」
 そう顔を青くしているユーファンを横目に、僕もアイスを食べてみる。一番上は、ライチ味だった。ユーファンの好きな食べ物でもあるし、僕と王の少し痛い思い出にもなった味でもある。
「食べちゃいなよ、ユーファンさん」
 僕からも促すと、彼女はおずおずといった様子でアイスに唇を寄せた。そしてそれがライチ味だと分かると、彼女は渋い顔をしながらもパクパクと食べ始める。
「もーだめー。ぜんぶ食べちゃう。おなかがぽこんってしちゃうー」
 先程から、彼女は胃下垂に悩んでいるような口振りだったが、吹っ切れたのだろう。ひーん、と切ない声を上げる彼女を見て、はやくも三つ目のアイスに取り掛かっていた王は不思議そうに口を開いた。
「あなたはなにをしていても可愛いですよ、ユーファン。お腹が出ることはなにか罪なのですか? どんな罰よりも好きな人がペコペコのウォーウーラのほうが、わたくしはかなしいですが」
 王の言葉に、ユーファンだけでなく僕まで息が詰まる。ぐ、と喉が鳴りそうになるのを寸前で堪えて、口内いっぱいにアイスを押し込むと、こめかみがきんと痛んだ。
「わーん、王ちゃんの罪づくりー! お腹ぺたんこのくせにー!」
「むん? わたくしなにかしましたか」
「ううん、なにもしてないけど……参考までに聞くねっ、好きな女の子のタイプは?」
「うーむ、堂々としたおなごが好きです」
「えっ。私みたいな感じ?」
 王の返答に途端に頬を赤くして恥じらい始めたユーファンが、身を捩りながら王に近付いていくので「王にも『お友だち』ができたみたいでよかったねえ。嬉しいねえ」と言いながらさり気なく牽制する。すると王は目をきゅっと丸くして、照れた様子で「ええと、友よ。教えてくれますか」と彼女に切り出した。
「コレは、食べますか」
 王が指しているのはアイスのワッフルコーンだ。

 日が暮れるまでプールで遊んだので、流石に体温の低下を感じてきた。王と連絡先を交換したユーファンと別れ、部屋に戻り風呂を溜める。ベッドにうつ伏せになってユーファンから送られてきたであろう写真を眺めている王の背中に抱き着くと「重いです」と詰まった声がした。
「重くないくせに」
「比較的、重いです」
「それはそうだね」
 メッセージの打ち込みに一生懸命な王の身体を仰向けにして、僕もその隣に仰向けになる。天井ではファンが回っている。くるくると。
 今の王の望みはなにか、聞いてみたかった。
 あの日、王は「ねむりたい」と痛切に訴えて、そして実際に長いこと眠った。もしもまた同じことを言われてしまったら、また僕は寂しく辛い時間を過ごすことになるから、こうしてぐずぐずと保身のために核心に迫れないでいる。どこまでいっても甘ったれ。昔誰かにそう言われた気がする言葉を自分自身に投げ付けながら、それでも王との穏やかな時間を過ごしたい……というエゴを貫き通すため、敢えて今はそれを訊かない。
「ねえ、ちいさいの頃の夢ってなんだった?」
 遠回しに、遠回しに。僕が死にそうな白を見つけたときよりもずっと後ろに、時間を戻す。
 すると王はスマホを置いて、僕と一緒に廻るファンを見上げた。穏やかな沈黙が攪拌され、風になる。
「……強い剣士になりたかったですね」
「剣士? 意外だね」
「もっと言うと、騎士になりたかったのです」
 その横顔を盗み見ると、王は穏やかに目を細めていた。その透き通った氷のような角膜に、ファンの羽が何度も何度も影ときらめきを与えていくのを、じっと見る。
「じゃあ、僕と同じだ」
「そうなのですか? いえ……そうでしたね」
「王も知っての通り、僕は騎士になるほかなかったというか、あらかじめ決められていた道だったわけだけど……それでも憧れてたよ。格好良い騎士に」
「……夢が叶いましたね」
「そうかな」
「わたくしは……なれなかったから。兄様の騎士に。なれないってわかってたけど、なりたかったなあ」
 もう届かない夢とのあいだに延びる果てしない距離に、ほとほと困り果てたとでも言いたげな口調で、王は呟いた。眠たげとも取れるその声は、最後掠れて、息だけになって。
「だからわたくしは、おまえが誇らしい。……兄様の騎士ラドレよ。わたくしにはおまえがかがやいてみえる」
 王の横顔が、あの人の横顔と重なる。何度だって重ねてきた。何度だって、重ねるのをやめてきた。『王』の騎士となるために生まれ、そう教育されてきた僕は、少年の時分にとあるちいさな王子と約束を交わした。あなたのために立派な騎士になると誓った。王子は僕に花冠を作ってくれて、僕はそれを今も後生大事に首に刻んで。そして僕はうつくしく成長した王子様と、念願の契約を交わした。なにもかもが奇跡みたいに噛み合って、すばらしい日々が永遠に続くと約束された筈だった。そう、思い込んでいた。
「ラドレ!」……記憶の中で、僕を呼ぶ彼は、いつでもニコニコと笑っている。僕の輝く星。僕の運命。僕のいちばん、大切な。
「キミが僕の騎士だ!」今もずっとつよくつよく覚えている。はしゃぐ声。羽毛のような睫毛に差し込む日のひかり。七色に照る真珠色の髪。プレシャスオパールの色をした睛。細い身体。ほそい、からだ。
 もういない、私の愛するひと。
「ああ、水が溢れているようです」
 王のしずかな声がした。バスルームから響く渓流のような音に起き上がる王の腕を掴んで引き留めると、シーツの上に押し戻された王は乱れた髪を指で払ってから僕を見上げた。そして押し倒したにも関わらず何も言えないでいる僕の、絆創膏の貼られた指を手に取って、よれたそれを外そうとするものだから「やめて」と些か強めに拒絶する。これは僕の大切なものだ。誰にも奪わせない。
「……ねえ、これ、刺青にしようと思うんだけど。してくれる? 大事なんだ」
 そう言ってお願いすると、王は躊躇いがちに僕の指を握った。そのまま数秒。見つめ合いたかったけれど、王は指先の感覚に集中しているようだ。そして王が手を離せば、そこには絆創膏を象った刺青が刻まれている。
「ありがとう、王」
 刺青を施してくれた白い指先にキスをすると、王は「おふろに入ります」と微笑んだ。再び起き上がった背中に「僕も一緒に入っていい?」と甘えて抱き着くと、王は普段通りのニコニコ笑顔で首を傾げた。
「観賞用と使う用、どっちがいいですか?」
 これは、風呂で着てくれるということなのだろうか。笑顔で深刻な二択を迫られた喉が大袈裟な音を立てて鳴った。
「……そりゃあ、どっちも、ですよ」
 僕の狡い回答に、王は首を横に振る。
「どちらかしか選べません。よく考えて?」
 ほとんど拝めなかった可愛い水着と、プライベートな場でしか着させられない大胆な水着。考えれば考えるほど、先程までのシリアスな雰囲気は希釈され、代わりに僕の嬉しい呻きが部屋を満たした。はやく、と僕を急かす王。バスタブから溢れている水。両の拳を握り締めて動けない僕を見て、王はあの傾国の美女とおなじ目をして笑った。


End.


毒を食らわば皿まで。
皿に毒。玉座に罠。薔薇に芋虫。鳥籠に歌。
血を吐く君も愛している。


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