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哲学的には、不死、かもしれないが、科学的、生物学的には死んでしまう、助けて誰か、というタナトフォビアの人たちに向けて創作され続けている(未完成)のが、『完全無――超越タナトフォビア』である。
どうぞよろしく。
http://merginalman.blog.fc2.com/blog-category-15.html
哲学的には、不死、かもしれないが、科学的、生物学的には死んでしまう、助けて誰か、というタナトフォビアの人たちに向けて創作され続けている(未完成)のが、『完全無――超越タナトフォビア』である。
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『完全無――超越タナトフォビア』第百十六章
無から有は生まれない。
有から無は生まれない。
しかし、有は無い。
完全無。
それだ!
ちょっとここで、サービス精神として、電子のスピンほどの自転をこの章の話頭に施してみたかったのだが、そんなことよりも言いたいことが次から次へと自走式に出てきてしまうらしい。
「あの」、「この」、「その」、「かの」、「どの」、などのような表現とそれに付随するところの、たとえば、指向性、指示性、主体性、客体性、能
『完全無――超越タナトフォビア』第百十五章
ところで、この作品は存在しない。
輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この作品は存在しない。
輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この世界も存在しない。
あらゆる表現や、あらゆる表象、あらゆる事物、あらゆる事象は存在しないのだが、それにも拘わらず人間たちはどこまでも「ある」を前提として科学的な答えを探し続けるだろう。
紙芝居のように現象のプロセスをめくりながら
『完全無――超越タナトフォビア』序章 第五節
【参考文献】
さ行(発行年省略・参照ページは全ページ)
『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注 岩波文庫
西行『山家集』宇津木言行校注 角川ソフィア文庫
エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 上』板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳 平凡社ライブラリー
エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 下』板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳 平凡社ライブラリー
エドワード・W・サイード『知
『完全無――超越タナトフォビア』第百十四章
たまには章ごとにサブタイトルでも付してみようかと思い立ったのだが、たとえば、「空も中道も非有非無も、ニセモノの無を媒介しているが故にダウトであり、構造も脱構築も――あらかじめすでに――存在し得ないが故に却下する、ということの功罪について」などという目も当てられないようなセンスの文言しか浮かばないことに気付いたので、とりあえずは保留ということにしておこうと思う。
さて、この辺りで、わずかばかり冒険
俺の哲学エッセイ、気持ちとしては、哲学をぶっ壊す! という感じ。
タナトフォビアを克服したい人は、個人的に、ぜひ、そうすべし!
存在は存在しない。
『完全無――超越タナトフォビア』第百十三章
えげつないほどに奇妙かもしれないが、無の連結が運動を生み、それを有の連続として捉えてしまうのが知性とやらを進化させてきた生きものの宿命であり限界でありおもしろさでもあるのだろうか、と不思議に思う。
位置しか持ち得ない点の確率論的ネットワークは果てしなく非有非無的概念とリンクしている。
「あるというわけでも、ないというわけでもないこと」。
それは「空」。
誰も彼もが嬉々として引き較べる二つの
『完全無――超越タナトフォビア』第百十ニ章
分子と分子、クォークと反クォークとの間には何も「ない」わけではない。
何かが何かと引き合うためには、何かと何かが区別されるには、場が必要だ。
幅が必要だ。
それぞれの個物が本性を持つためには、個物同士は離れていなければならない。
しかし、化け「学」的世界のような化粧を必要としない哲「学」以上の非哲「学」的世界においては、あらかじめ無が埋まっている、いや敷き詰めることなく、完全に無である、と
『完全無――超越タナトフォビア』第百十一章
(ここでチビが発現すると同時に発言する。
それにしたってガンジスの河岸の砂の数を数え終わるほどにおひさしぶりな登場ではないだろうか。
拍手喝采。
チビ、ウィッシュ、しろ。
三匹に乾杯。
みんなの瞳に恋してる。
チビのそのことばの端緒は、情緒的に何か高揚しつつといった割り込み型というよりは、あらかじめその会話の流れが決まっていて、ただそれをなぞって棒読みするかのように、という感じでこう呟いた。)