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   楽曲「久遠の命」から生まれた、                                                                                               🎵 ザ・物語 「唯一無二の私の命」🎵       



1.始めに

「久遠」と言う言葉は、元々は仏教の言葉でした。その意味は、
「長く久しい」という意味で、遠い過去のことを指しますが、遠い未来のことをも意味します。

楽曲「久遠の命」は、私達の命が遠い過去から遠い未来に向けて存在し続け、私達が生き続けることを謳ったものであります。

さて今や、このような大きなスパンで眺めた私達の「命」の存在感や生命観などが、現代の科学・物理学などで得られた新しい知見・視点等により見直されつつ有る現況に有ります。

それは、物理学の世界から始まりました。
物質の究極の単位が原子、陽子、電子などで説明されていたのですが、現在では更にそれらが素粒子と呼ばれる物質の最小単位にまで分析が進みました。

それら素粒子(物質の最小単位であり、量子の一種)などの振る舞いが、これまでの物理学が前提としていた振る舞いとは大きく異なる事が判明・証明されるに至り、物理学自体も大きく前進したことがあります。

アインシュタイン博士が量子理論の勃興期に「神はサイコロを振らない」と述べていたのに対して、実際には素粒子達が確率計算でしか理解出来ない振る舞いをする事が証明されるに及んで物理学が大きな転換をするに到ったのです。

素粒子は常に振動しており、その動きを観測しても以前の物理学のような考え方では、結果を定めることが出来ないことが理解されてきたのです。

シュレディンガー(1887-1961)は波動関数によって量子(量子とは粒子と波の性質を併せ持つエネルギーの単位)の状態を確率的に定めることができる数式を発見しました。

しかしこの時も、彼自身は未だ量子の状態を決定論的に予想することが可能であるとの確信を持っていましたし、科学界の学者達もそのように思っていたのでした。

その後1927年にウ”ェルナー・ハイゼンベルクが不確定性原理を発表をしました。

これについて佐藤勝彦氏は、「量子の状態はそもそも不確定的ないし確率的であり、事象は重なり合った状態で存在し、それを人間が観測することによって事象が収縮して結果が定まる」、という常識を覆すような理論であったと説明しています。

すなわち「波動関数」は、それ自体で既に完成したものであり、量子の状態を決定論的に表すことはできないというものでありました。


このような知見が得られたことにより、つまりこの世の全て(の素粒子)が振動しており、重なり合ったりしている事になり、私達の哲学・宗教・思想などにも大きな影響を与えることになりました。

例えば最近でも、NHKの
「心とは何か 脳科学が解き明かすブッダの世界観」初回放送日: 2023年5月7日(https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/9RG92NLX65/ )
などでも、
『「物である脳から心が生まれるのはなぜか?」その仕組みを探求した果てにたどり着いたのは意外にも「仏教」。第一線で活躍してきた脳外科医と仏教者が人の心の秘密を探る』、
との表題でとても新しく卓越した知見を論じていらっしゃいます。



このザ・物語「唯一無二の私の命」でも、出来るだけ平易に「命」の問題についてお話しして参りたいと思っています。

   ・・・・・・・・・・・・・・・


先ずは、楽曲「久遠の命」(インスツルメンタル)をお聴きになりながら、
画面の最下部にポップアップされる画面上の歌詞を、ゆっくりとお読み下さいませ。



以下に歌詞全体を掲載致しましたから、もう一度俯瞰的にご覧になってみて下さいませ。



(一番)

私(わたし)の命(いのち)、古人(いにしえびと)から、
受(う)け継(つ)ぎし命(いのち) 
尊(とうと)き命(いのち)

私(わたし)の命(いのち)、久遠(くおん)の命(いのち)へと、
幾十万年(いくじゅうまんねん)、つなぎ続(つづ)ける

私(わたし)の命(いのち)、変(か)わらぬ営(いとな)み、つづくとも、
今(いま)も心(こころ)に宿(やどる)る、
久遠(くおん)の愛(あい)よ   愛(あい)よ

古人(いにしえびと)の思(おも)いをこめて  歩(あゆ)めよ
命(いのち)の命(めい)ずるままに   ままに

父母(ちちはは)の命(いのち)、祖父母(そふぼ)から、贈(おく)られし命(いのち)
湧(わ)き出(いず)るやー
謝恩(しゃおん)の涙(なみだ)

今(いま)は亡(な)き 父母(ちちはは)私(わたし)を背負(せお)い
遠(とう)き道(みち)を歩(あゆ)み続(つづ)けた
父母恋(ちちははこい)し、
祖父母恋(そふぼこい)し

過(す)ぎにし遠(とお)き日々(ひび)、懐(なつ)かしき人(ひと)よ 
帰(かえ)らぬ微笑(ほほえ)み、
今(いま)はいずこ
尊(とうと)き命(いのち)  命(いのち) 


(二番)

祖父母(そふぼ)の命(いのち)、曾祖父母(そうそふぼ)から、
受(う)け継(つ)ぎし命(いのち)
尊(とうと)き命(いのち)

私(わたし)の命(いのち)、幾万世代(いくまんせだい)を経(へ)て
今(いま)を生(い)きつつ 繋(つな)ぎ続(つづ)ける

曾祖父母(そうそふぼ)の命(いのち)、高祖父母(こうそふぼ)からの、
贈(おく)られし命(いのち)子(こ)らへと繋(つな)ぐ
久遠(くおん)の命(いのち)よ   命(いのち)よ

古人(いにしえびと)の思(おも)いを込(こ)めて
歩(あゆ)めよ 命(いのち)の命(めい)ずるままに   ままに

私(わたし)の命(いのち)、父母(ちちはは)から  贈(おく)られし命(いのち)
幾代(いくよ)も繋(つな)がる
久遠(くおん)の幸(しあわ)せ

私の縁人(えにしびと)、喜(よろこ)び、悲(かな)しみ
果(は)てなき道(みち)を、共(とも)に歩(あゆ)む
明日(あした)を照(て)らせ
今(いま)を生(い)きる

全(すべ)ての 命(いのち) 神様(かみさま)から 
贈(おく)られし命(いのち) 
尊(とうと)き命(いのち)
尊(とうと)き命(いのち)  命(いのち)




2.本稿の動機

「久遠の命」の「次」をお願したい !? というご依頼について


上記の楽曲「久遠の命」を聴いて頂いたある知人から、『「久遠の命」の「次」をお願いしたい 』、とのご要望が届きました。

当初その意味が充分には理解出来ず、ペンディングにしておりましたが、時間と共に依頼者さまが「次」と仰られた事の意味が、私にも伝わって参りました。

それは、「久遠の命」が私達の命の繋がりをありのままに歌っている事は明らかではあるが、
その「命」がどこまで、どのように、何故、続いて行くのか? 

と言うような事を指すのだろうと思われて来たのです。

そのようなご依頼を次の楽曲に生かして行くことは、私の望むところでもありましたので、更に検討する事に到った訳でございます。

一方、「命」の起源も理由も分からずに何処まで続いて行くのかだけを問うことは片手落ちで、先ずは起源からもアクセスして行かねば、希望されるお答えには近づけないのでは無いかと更に思い到りました。

そこで「命」の起源から、探求する方針を採り始めました。




3.命の起源と進化


私達の「命」は、地球誕生の40億年以上前には存在していなかったものと考えられています。
しかし少なくとも地球誕生後間もなくして、何かしら生物と言えるものが誕生したのではないかと考えられています。

それは、原始細胞と呼ばれるものだったのかもしれません。
原始細胞が生まれるまでは、地球上には生物と言えるものは存在していなかったと考えられています。
原始細胞が物質・非生物からどのようにして生まれたのかは、定説は有りません。

物質(非生命)と原始細胞/生命との間には、大きな乖離・飛躍が有ります。

物質とは静的な存在(ただし、最近の素粒子論の発展により、物質の構成要素たる素粒子は常に振動しており、その実体は動的であることが知られていますが)であり、自立的で動的な存在である生命体との間には簡単には越えることの出来ない大きな境界が存在しているように思われます。

しかしその間を埋めてくれそうな量子力学や分子生物学等など、科学・物理学等での進展も見られ科学者達の研究が勢いを増してきています。

とは言え、人間のような意識・自我・思考を有する高度な生物の働きについては、私達の研究の道のりはまだまだ遥か遠い所にあり、到底現代の私達が到達出来る距離にある訳ではありません。


生命の進化
の問題一つを考えても、複雑な要素・要因が絡んでおります。

今までの進化論は、生物学的進化論と言われる「化学反応が進化の原動力となり、生命体は自然選択によって進化し、多様化していく」という説明に基づいたものが主流でしたが、これもやがては変更が必要になるかもしれません。

例えば、遺伝子が環境に対して反応する「表現型可塑性」という概念が注目を集めています。これは、個体が遺伝子的に与えられた範囲内で、環境に応じて表現型が変化することを指します。

この場合、個体の「意志」による環境適応が反映される可能性があり、必ずしも「自然に進化する」と言うこれまでの進化論、とは異なる進化が発生する事につながることもあるのかもしれません。


さて本稿が目指す私達の行く末については、私達の来し方とも大いに関係しているものがあります。

私達の命は、その一代前の父母から授かったものであります。

そして父母の命は、更にその親でも有る祖父母から授かったものであります。

同様に、祖父母の命は、曾祖父母から授かったものであります。

曾祖父母の命は、高祖父母から授かったものであります。

   ・ ・ ・ ・ ・ ・

このまま進むと、人類の起源にまで行き着きます。

そして更には、生命の起源にまでも行き着きます。


生命の起源、つまり原始細胞にまで行き着きます。
分子生物学と言われる領域へ入り込むのかもしれませんし、量子の世界へと突入するのかもしれません。


このような過去からの流れについての見解をも頭の中に置きながら、
ここでは、先ずは視点を「私達が生きる」と言う側面から見て行きたいと思います。



4.「生きる」事と「進化」


生きるとは?


私は生まれました。
生まれる意味も理由も知らないままに生まれて来ました。


つまり、私達は生まれる意志も無く生まれてきました。

少なくとも私達は生きる意志も判然としないまま生まれ、更に生き続けて、成長したある日に、突然生きる意味を考え始めました。

その後も、私達は生きる目的も定まらないまま生き続けて来ましたが、ある日突然生きる目的を探し始めました。

             ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

そして私達人間は、そのような全ての疑問が判明してもしなくても、やがては死んで行くのです。


このような繰り返しが、これまでの人間の歴史を形成して参りました。

そしてこのような人間の歴史も、地球上に初めて生まれた数個の細胞(原始細胞)から「進化」してきたものと考えられています。

そして、私達の誰一人として、このような「進化」を意識して生きてきた人はいないように思われます。

つまり私達は、二本の足で歩行する方が犬のように四つ足で歩むよりは効率的だから二足歩行に進化しよう、などと意識して進化してきた訳では無さそうです。
もしそのような事があったのならば、犬、狼、ライオン、、、などの四足歩行動物はすべて二足歩行に進化していのたかもしれません。

あるいは、どのような平原や森林にいても、鳥のように空を飛べたら行動範囲が広がるからといって、羽を身に付けようなどとは進化しなかったのです。

ところが、近代に入ってからは、鳥のように空を飛ぶことを夢見たライト兄弟が、1903年に飛行機「ライトフライヤー号」による世界初の本格的な有人飛行を行いました。

このことは人間の「人体自身の自然な進化ではなく」人間の「知的進化」とでも言うべき事で従来型の進化とは一線を引くべきことだろうと思われます。

このような人間の「知的進化による私達の進化」は。従来の進化とは大きく異なるものと考えられます。

私達の誰一人として、前者のような従来型の「自然な進化」でさえも意識してはこなかったのですが、数十億年を経た今を見れば、結果的に私達は進化し続けてきたのです。

しかし、最初に生まれた原始細胞が、進化を意識していたとも到底思えないのです

その後の古代の人びとも意識的に進化をしてきたとも思えません。

そうです。私達を進化させてきたのは、私達自身ではないのかもしれません。

私達が意識しないままでも、進化を続けて来られたのは、私達自身ではなく、神様のご意志が働いてきたからなのかもしれません。

つまり、私達は導かれて現在の私達に到達したのかもしれません。

私達一人一人にそのような神様が宿っておられ、私達自身の一人一人が意識しない(知らない)内に、私達人間は進化を遂げてきたのかもしれません。

そしてこのような進化が進む過程には膨大な時間が必要でありました。

その膨大な時間と言うのは、私達一人一人が認識すら出来ないような、つまり私達にとって無限とも思えるような時間だったのです。

私達一人一人はそのような膨大な時間の中では、ほんの瞬間的とも言える時間しか生きてはいなかったのです。

命の誕生から何千万世代あるいはそれ以上に渡る年月を経て続けられてきた「命の繋がり」と言うのは、私達に思考停止をさせるくらいの長い長い、果ての無い位の長さを持つ繋がりでもあったのです。

その間、人間はあまりにも膨大なこの時間軸の上では、人間自身の進化を可視化することすら出来ず、目を向けることもありませんでした。


このような人間の一人としての今の私達は、与えられた命を全うし、次の世代に命を繋いで行くだけの役割を担って生まれ、生きてきたのでしようか。

それとも更なる進化を果たす為に生き続けてきたのでしようか?

これらの答えを求めて、稿を進めて参りたいと思います。




5.本当に私達は、      

  私達の生まれる意味も理由も知らないまま

  に、

  又、生まれる意志も無く、

  誕生してきたので有りましようか?  

              

前記の説明では、私達の生きて来た筋道をたどって話を進めてきましたが、そこには確かな真実が存在しているように思われかもしれませんが、いささかの疑問点も感じられるのです。


それは、私達大人になった者の視点からだけで大人の自分の来し方を述べており、私達大人の誕生にまつわる物語が欠落していることにより生じた疑問点があるからであります。

私達の誕生は、精子と卵子との出遭いが出発点でもあるのです。

私達が生命の神秘などを主題とする映像などでよく見るように、無数の精子が先を競うように、卵子を目指して進む様は正にすざましい戦場の如くであります。

生物としての人間の誕生に関わる最初の戦いが行なわれていたのです。

確かに精子の世界では、生きる意味・生きる意志が溢れているように見えるエネルギッシュな世界が存在しているのです。

生きると言うことに対する少なくとも生物的な意欲に満ちあふれた世界が存在していたのです。

しかし、そこには未だ未だ私達が考える、生きる意味や生きる目的、意志は見えないようでもあります。

ただ、生きる、と言うに充分なエネルギーや意欲が感じられると言うだけなのです。 


 ・ ・ ・
 


そして最終的には受精卵となります。


更には一段と成長し(胎児、人間へと成長し)、誕生するのです。

しかし私達のいわゆる「誕生」に到達するには、もう一段のプロセスが必要になります。

それまでの母体内の羊水内での生存の世界から、私達のような空気呼吸の世界に飛び込むことであります。

これは、海中生物が陸上生物にまで進化するような劇的な展開が必要な局面でも有ります。


実際には、それが胎児から誕生して人間に到る短時間の間になされると言う事は、これまでの進化論でもあまり論じては来られなかった極めて異例の事態でもあるように思われます。

このようにして誕生したばかりの人間・乳幼児はエネルギッシュに見えます。

そして次第に穏やかな生き方へと転身して行き、急速に現実の人間世界への対応を身に付け始めるのです。

これはそれまでの競争的な世界を脱し切ったせいかどうかは分かりませんし、また周囲(両親)の愛情あふれた環境に満足してのことかもしれませんが、小さいながらの適切な判断が働き始めていることを示唆しているかのようでもあります。

このような乳幼児では、確かに生きる意味も未だ知らないままではありましようが、生きる意志ははっきりと感じ取れるのです。

しかし本人が私達のように、その「生きる意志」までを意識出来ているかどうかは確認出来ないかもしれません。

「生まれてきたことの意味」についても、まだまだ考えが及んでいるとは言えないのではないでしようか?


私達の多くの人びとにとっては、このような乳幼児時代の記憶は殆ど無く、ただただ「無我夢中」に生きていた、としか言えない期間でもあるようです。

「無我の我」が生きていたとも言えるのです。





「記憶無き命」

私達がこのような不可思議なプロセスを経て来た自分の命を振り返ることは、自らの命の深淵に触れることにもなります。



受精卵から胎児、乳幼児への成長とその後の誕生への劇的な進展は、私達にとっては最も身近で個人的な出来事でも有るにも拘わらず、私達の殆どの人びとはその記憶を持ってはいません。

10代前後の人ならば、数年前もしくは10数年前の経験・出来事であったにも拘わらず、思い出すことが出来ないのです。

それは決して先史時代の出来事だった訳では有りません。

つい数年または十数年前の出来事だったのですが、、、。


しかしこの激動の出来事・経験が誰の記憶からも消え去っているのです。


本来ならば私達の誕生までの最も劇的な瞬間であり、激動の歴史かつ、私達の未来が懸った自己誕生の歴史的時間でもあったのです。

個人的歴史としても、大変尊い忘れられない事実・事象でもあったのです。

また客観的に見ても、感動的で厳粛かつ神聖な出来事で有ったのですが、本人自身の無我夢中の生命活動でもあった為なのか、残念ながら記憶から漏れてしまったのです。


このようにして、私達の生まれ出でたる証(あかし)は、霧の中に埋もれて見えなくなってしまいました。


1つだけ確かなことは、記憶の有無に拘わらず、誕生し生き続け現に存在している、と言う事であります。


仏教では、全てが諸行無常、諸法無我と教えていますが、現代に生きる私達にとっても大変身近な自分自身の命の誕生の世界にそれを見るようで、ある種の驚きを禁じ得ません。

現代に生きる私達の生き方は、決して過去の乳幼児時代の私達ではないのでしようが、多くの場合、大人になった現在でも「無我夢中」に生き続けているようでもあります。


ここに到っては、私達の生きる目的も、生きる事そのものが目的であると言わざるを得なくなって参ります。

私達にとっては、生きる事自体が最大の目的で有り、その目的を追いかけるべく、個々人の特性に応じた目標を幾つか設定してその目標に邁進して行くことが第二、第三の目的にもなっているように見えるのです。




「感謝」

一方で、私達は乳幼児の小さな身体に似つかわしくない位のけたたましい泣き声に遭遇することがあります。

それは狭い空間の羊水の中から解放されて自由度が増し、この世に生を受けて初めての自己主張でも有ります。


周囲で見守る私達にとっては、対等な人間としての初めての自己主張であり、力強く頼もしい存在に感じられるのです。

また、あるときにはこぼれるような笑顔を見せてくれるときもあります。

その笑顔は、私達の心を和ますだけでなく、私達自身にこの授かった命への深い「感謝」の心を呼び起こさせてくれます。

同時に私達自身の命に対する感謝の気持ちをも誘発してくれます。

このような感謝の気持ちこそは、私達の幸福感を高めてくれるものなのです。


経営の神様と言われた松下幸之助さんもたびたびそのことに言及されています。


松下幸之助「感謝の心は幸福の安全弁」


また稲盛和夫さんも同じように、感謝の気持ちを持つことの意味を強調されています。

感謝の気持ちをもつ


また多くの優れた経営者の方々や仕事で成果を上げられた方々が同様なお考えを説いておられることは特筆すべき事項だろうと考えます。





本題に戻りますが、乳幼児自身が「生まれてきたことの意味」を考えていたとは思えません。

現代の大人の私達でさえ、生まれる意味については考えることも余りなく時々考えたとしても結論を保留したり新たな結論を求めたりと定まらないこともあるように感じます。

あるいは、もはや忘れ去ってしまったり思考を停止していたりする事も多いように思います。


私達はただただ生きる事・成長することに精一杯の時代を生きているのかもしれません。


私達の命は、「生きる事」を第一にしてひたすら生き続けるのであろうと思わざるを得ません。

私達の命は、私達に生きる事を命じているようにも思われます。

死なない限り生きるのです。

このようにして、私達はただただ生きる事が最大の目的になって来ているのでしよう。


そのような生き方に反発を覚えて新しい生き方を試みる人も出てくる事もあり得ることでしよう。

しかし、私達の選択肢には生き続ける事以外には、余りないようにすら思われるのです。




「私達の社会の行方」

これ迄見てきたような、世代を通して命を繋いで行く現代の人間の世界では、知的進化を加速する一方で、新しい命を生み出すための活動と、その新しい生命の育成・教育などのための莫大な時間・労力を長期間に亘って投資する必要性も大きくなって参ります。

他の多くの動物たちとは異なり、人間が一人で食料を得て独立して生きて行けるようになるには、長い長い育成・教育の期間と労力とが必要なのです。

知的進化が巻き起こす人間社会の複雑化は同時に大きな負担を人びとにもたらします。

人びとは複雑化した社会で生きるに必要な多くの事を学ばなければならなくなって来るのです。

その時間と労力とは指数関数的に増大して参ります。

それは、複雑な社会を持つ人間には避けては通れない大きな関門になってきています。

社会の規則・規範は多岐に亘りその修得には膨大な時間を要するからであります。

繰り返し述べますが、私達の知的進化が進むにつれて、更なる教育が求められるようになるのです。


同時に社会の構造も複雑化し人びとの知的レベルを上げて、社会適応して行けるよう更なる教育が求められる事になるのです。

知的進化とそれに対応すべき教育の推進がいたちごっこのように競合し合いながら進行し始めているのです。

私達は知的進化を急ぎながらも、一方では社会がそれに遅れないように、人びとのレベルアップを図ることが常時求められているのです。



こうして私達の社会は常に緊張関係のまっただ中に置いておかれる事になります。

このような時代に必要な対応策は、これからの喫緊の課題となりましよう。

以下には、その為に考えるべき幾つかの点について記述いたします。




6.「生きる目的」

これまで述べて参りました「生きる目的」について、更に多角的に見て参りたいと思います。

多分私達のこれからの進化は、更なる知的進化へと向かって進められるのではないでしょうか?

つまり命を繋ぎながら、知的進化を更に進め、より良い生き方を求め続ける方向へと進んで行くのではないでしようか?

私達のそのような進化自体が私達が生きる事の目的化され初めているようにさえも感じられます。

更にそのような進化を遂げるために、命の繋がりを維持する事自体も、私達の生きる目的の一つとなっているようでもあります。

つまり、命を繋げることと、進化を続けることは、車の両輪のように、私達が生きる事の目的になっているものと考えられます。

このような枠組みの中では、私個人の生きる目的も、当然、生きる事が第一の目的にならざるを得ません。


私達が生きる目的とは、ただただ生きる事なのです。
生きる事自体が、私達の目的なのです。


そして、

久遠の命を生き続けることが目的になってきます。



私達はそこで一人一人の命を燃やして生き切ることが求められているのかもしれません。

限りある命を燃やし切るまで、歩み続ける事が定めでもあるのかもしれません。


勿論、私達には途中で休んだり、一旦停止をしたりと、自分のペースで歩むことも出来ますが、その後はまた歩み続ける事になるのです。


いずれにしろ、私達は歩みを放棄する事はありません。


そして今を生きる私達が、

今も生まれつつある人びとを含めた未来に生きる人びとに対して、

「より良い生き方を伝え 奉仕する」

事こそが、私達の車の推進力を提供する重要なエンジンになるので有りましよう。



更には、このような推進力を有効にするためには、私達には今まで可視化出来なかった進化の実態をより明らかにして、それらの知見を基(もと)にして「未来を描く」ことも求められている様に思われます。



その為には私達自身の「命」の性質を知るところから見直さなければなりません。

私達人間の「命」は、私達が存在する「この世界」に対する認識とも密接に関係しています。
これらはいずれも、私達が「未来を描く」上で大切になってきます。

ここで言う、「この世界」とは、実は私達が心で捉えている世界のことで有ります。
逆に私達が認識していないあるいは、捉えていない世界は、私達には言及しようがない「世界」でしか有りません。
私達が認識し捉えている「この世界」とは、私達の心の中に認識されている世界でもあります。

以下に、私達の認識しているこの「世界」で、私達の「命」の「未来」をどのように「描ける」のかについて考えて見たいと思います。



7.「唯一無二の命」と「永遠の時間」


今を生きる私と言うたった一人の命が、進化をしつつ途方もない世代数を経て命を繋ぎ続けられてきた事には、本当に言葉にも表現出来ない位の深い感慨と同時に、私達の思考が混迷・混乱に陥ってしまいそうな深い暗闇さえ感じる事があります。

この長い長い時間の経過のどこかの途中で、もし祖先のどなたかが実際にあった行動と少しでも異なる行動をされていたとすると、私は生まれていなかったのかもしれません。

このような観点からすると、「私の命」は途方もなく貴重で掛け替えのない存在として認識せざるを得ません。

「私が生まれた」と言う事象は、膨大な量の時間と、関係のある全ての人々・事象などに関わる無数の条件が揃って初めて可能な事だったのです。。

しかもそれが単なる理論ではなく、実現化された事象・出来事でもあったと言う事が重要な点でも有ります。

仏教ではこれを「縁」と呼びます。

しかも、このような無数の条件下でのみ存在している「唯一無二の私の命」は、この「今」しか存在していない極めて時間限定的な存在でもあります。

そこでは永遠の時間という概念が飛び去り、いいえむしろこの唯一無二の「私の命」の存在こそが「永遠の時間」の認識を強化してくれる事になり、この「今」のこの「瞬間」こそが「永遠の時間」を与えてくれるものとすら思えて来るのです。





8.唯一無二の「私の命」を通して、

  自分自身を見つめる



私達が、このような唯一無二の「私の命」を通して、自分自身を見つめることは、私達の心を日常の些末な事柄から解放してくれ「永遠の時間」の中に私達を送り込んでくれます。

更には、同時に今までの自分の来し方への考察や、あるいは更には今は亡きご先祖様を偲ぶ事にまでも思いが至り、ご先祖さまとの心の対話にまでも進展するとすれば、きっと心は完全に解放されることになるのでしよう。

私達の心の解放は、私達にリフレッシュされた真っさらな人生経路を教えてくれることになります。

そして更に私達の心の中に宿り始めていた「垢」を取り除いてもくれます。
取り除かれた筈の「垢」は、新しく見え始めた人生経路にもしつこく現れてくるかもしれません。

私達はその都度、心の解放を試みて人生経路のリフレッシュをすることにより正しい道へと進むことが出来るのだろうと思われます。

またこのようなことの繰り返しによってこそ、唯一無二の存在である「私」の存在を更に深めることが出来るようにも思われるのです。

このようにして私達は、常に自分自身をアップデートし・更新し続けていくのです。

私達は、原始細胞の時代からこのような事を繰り返しながら進化・変化し生き続けてきたのでしよう。

このような唯一無二の「私の命」と言う観点を通して自分自身を見つめると言う事が意味を持ってくるという理由は、その作業の中に私達の「命」の源「ふるさと」を見つけている事があるからなのでしよう。

あるいは私達の命の大元となる「心」がその作業の中で見えてくるからこそ、私達はそこに惹き込まれて行くのではないでしようか?

そして私達人類が長い長い時間を経てそのような作業を経験して、現在の私達の作業にまで到達したものであろうとも思われます。

このような作業には、私達の疲弊した垢にまみれた「命」を癒やし、心の垢を拭い去り曇りのないクリーンな心に戻してくれる不思議な力があるように思えるのです。




9.「日常的な活動」と、

「自己更新のための(非日常的な)活動」


私達の活動は、平常時の日常的な活動と、上記のような自己更新のための(非日常的な)活動と言う2種類の活動から成り立っているのです。

また、これらの活動は同時に行なわれることもあるのかもしれませんし、計算機システムで用いられている「時分割(タイムシェアリング)」で行なわれることもあるかもしれません。
その時の時分割の単位は、意外にも振動している素粒子の振動の1サイクルを一単位として分割されているのかもしれません。

そのことを、私達が意識すらしていないようではありますが、、、。

これら二つの活動を外側から見ても、当然観察者にはどちらの行動かの区別は付かない人間も見つかるかもしれません。

つまりこの場合、平常時の行動なのか、自己更新の行動なのかと言う見極めは、外部の観察者が見ても判別が着かないのです。
(この問題は「事象は重なり合った状態で存在している」素粒子の世界での諸振る舞いと一見、似ているかもしれません)





10.「自己更新」により、

  「効果的な正しい問題解決」を獲得する


そしてこのような自己更新行動は私達が物事を成功に導く上での、重要な要因として考えられるのではないかと思われます。

私達が遭遇する多くの困難に対して、その困難をどのようにして解決して行けるかは私達の問題解決能力に依るところが大きいのです。

その問題解決能力では、問題を正しく判断して正しい対処法を見出すことが重要です。

そしてこの「問題を正しく判断して正しい対処法を見出す」行動は、心の垢が残っている状態では、決して良い結果は得られません。

そのような時には、私達には心の垢を拭い去り、クリーンな心で物事を見つめ判断する事が求められているのです。

このような判断を意識的にあるいは無意識的に出来る人は、良い結果に繋がるものと考えられます。


そして多くの経営者などでもその成功者の方々は、苦労や難関を乗り越える時にはこのような対処方法で正しい道を獲得されてきたものと思われます。





11.未来を描く


「命の繋がりと利他」


私の命は、長い年月を通じて繋ぎ続けられてきた一連の命の繋がりの結果であります。

私達はそれまでの長い長い世代間の繋がりを経て、生かされてきたのかもしれません。


この繋がりの中では、人びとが次の世代に命を渡す時には、次の世代には、今より良い人生を経験してもらいたい、という「願い」が込められているように思われます。

私達にはこのように自分以外の誰か・何かのために願いを込める、誰かのため何かのために貢献する、というような行為をすることも有るのです。

その時には、自分の事よりも他の人のことを重視して行動するのです。

このような行動が私達人間の社会を維持・継続・向上させるための有力なエンジンとなって来たのです。


私達は多くの場合、「より一層良い生活をしたい」、「より良い大学に入りたい」、「より沢山のお金を得たい」、「より多くの人から称賛されたい」、「スポーツなどでももっと強くなりたい」、、、などなどの希望を持って毎日を過ごしています。

しかしそのような私達も、
『「より一層良い生活をしたい」、「より良い大学に入りたい」、「より沢山のお金を得たい」、「より多くの人から称賛されたい」、「スポーツなどでも、もっと強くなりたい」と思うのは何故か?』、
と聞かれると、それらは自分自身の欲望のためであり、家族のためであり、自分のいる世界のためであり、そこでの地位のため等だと答えるでしょう。



「我欲」

そしてこのような自分中心の欲得は、私達人間が持つ基本的な「我」の発露であります。

この「我欲」こそが、私達人類が発展をするための強力な内燃機関となり今日を築いてきたのでしよう。

一方では、この「我」が無用な争いごとや悩み苦しみを引き起こしたりする事もあったでしょう。

私達人類はこのような「我欲」のお陰で、これまで生き延びることができ繁栄を築いてきたのでしようし、この「我欲」のために戦争や多くの争いごとも経験してきたことでもありましよう。


「我欲の制御」

私達は我欲だけでは充分な進化が得られないことにも気がつき始めました。

そこでこの「我欲」を制御すべく、色々な規則・規約・規範なども作られてきました。
しかしまだまだ十分な制御は出来ていません。



いずれにしても、私達は、総体的により良い人生のためになる事を目的に活動し続けてきたのです。

それは同時に意志としては、今現在の自分の人生のためだけではなく、他人の人生のためでもあり、更に次の世代の人生がより良くなるための活動であることを考慮することも含まれていました。

勿論中には、次の世代で否定されるような努力も多く存在したことでしようが、その否定行動自体は、更に次の世代に良い結果を生むための努力でも有りました。

私達の人生の多くの行動は、このように自らの欲得だけではなく次の世代が良い人生を送れるようにする為の行動をする事でもあると言っても過言ではありません。



これは私達のDNAに刻まれた指令なのかもしれません。

私達のDNAの指令が何時、どのように書き込まれたのかは明らかではありませんが、きっと生命の誕生以来この指令は受け継がれてきたのではないでしようか?

私達人間はこれまで、前記のような人生の目的に沿うような活動をし続けてきました。

しかし、その活動の成果は、必ずしも全ての人間の幸福に繋がるものではなく、多くの問題を派生する事もありました。

そして新たな問題解決が求められ、対策が講じられ、新たな世界が開けて来ると、また新たな問題が発生するという繰り返しが延々と続いてきたのです。

このような繰り返しは、これからも延々と続いて行くことでしよう。

私達の命は、世代交替が続く限り存在し私達人間も進化をし続けることになるのでしよう。





12.「久遠の命」


このような私達の命の繋がりは、せいぜいでも百年間前後と短い私達一人の命を、
無限の年月にまで延ばそうというDNAに隠された意志の示すところの結果でもあり、それは世代を繋げることによって止まるところのない命の継続を意味するものでした。


それが、「久遠の命」なのです。


「久遠の命」が何処まで行くかは誰にも分からないことでしようが、私達はこの命がずっと続いて行く事を信じてこれまで生き続けて来たのです。

これからも私達は、その信ずる方向へと歩んで行くのでしよう。


このような私達の「信じる生き方」はこの

「久遠の命」推進の最大のエンジンになるので

す。



一方、私達の行く先々には、必ず問題が発生いたします。
そして必ず解決されます。


例えば、
    『5.本当に私達は、   
    私達の生まれる意味も理由も知らないまま、
    又、
    生まれる意志も無く、
    誕生してきたので有りましようか? 』 、

の項目で述べた、私達の加速する知的進化とそれによって引き起こされる社会の複雑化に対して必要となる人びとへの教育とその負担問題などは、必ずや解決されることでしよう。


私達は、あらゆる問題を曇りのないクリーンな心で解決し、新たなより良い世界を見つける事になるでしよう。

しかし直ぐに別の新たな問題に遭遇することにもなります。


1つの問題の解決は、必ず新たな問題を派生する事になるのであります。


それを解決出来るのは、やはり私達です。

このようにして、私達は「久遠の命」を続けることになるのです。






13.「唯一無二の私の命」


「久遠の命」の主役こそが私達の、

「唯一無二の私の命」なのです。

    そして、

「唯一無二のあなたの命」なのです。


原始細胞の時代から、私達の肉体に宿り、

めくるめくような時間を経て生き続けて参り

ました。



自らの力によって生き続けてきたと信じて、

あるいは時には、大いなる力、神の力に依って

生かされて来たと信じつつ、今も命を永らえ続

けています。


私達は、<唯一無二の存在でもある私達は>、

常に心をクリーンに保ち、

我が命(いのち)の命(めい)ずるままに、

生き続けて行くのです。



「苦しみや絶望」

とは言え、私達は、時にはとてつもない苦しみ

や絶望に遭遇する時もあります。

そのようなときには、心静かに落ち着いてしか

もクリーンな心で新しい人生経路を提示される

のを待ってみましよう。



私達の人生・命は、私達の長い長い祖先の方々

の総意から生まれたものであります。

どのような苦しみも、絶望も総意として与えら

れたものに含まれている「意志」を曲げたり屈

服させることは出来ません。


生きるのです。

生き続けるのです。

きっと私達は乗り越えられるのです。





「縁」

私達の持つ「縁」は全て、私達が生き続けられ

るように支援してきてくれました。

私達が一生懸命に悩み、解決策を探していると

きには時々、心の中にふわっーと湧き出てくる

御託宣のような言葉を受け取る時もあるでしよ

う。

それこそが、「久遠の命」からのご託宣なのです。



「大いなる力」

海中生物が陸上での生活に慣れるのに膨大な時

間を掛けて進化してきたのに比べ、誕生に当っ

ての私達はわずか数時間で大きな変身を遂げて

きたのです。


つまり、羊水の世界から大気・空気の世界での

生存へと自らを変身させてきたのです。

これこそが、私達が未だ充分には理解していな

い何かある「大きな力」によるものだろうと考

えられるのです。

その理由について以下に述べてみたいと思いま

す。



「記憶」

先ず第一に、私達自身はその誕生にまつわるい

ろいろな記憶さえなく、そのような経験が意識

されることもなく過ごして参りました。

脳科学者と言われる人びとは、「その頃の胎児

の脳は未熟で記憶能力も充分でなかったから、

当然のことである」と結論づけることでしよ

う。


しかし、その未熟な胎児が、羊水世界から空気

呼吸の世界へ突入し、

母体からの栄養補給も失ってしまうという大転

換を意味するこの事の重大さを知っていたので

しようか?


あるいは私達の未熟な胎児は、そのリスクを担

保する何かを、知っていたのでしようか?


それこそが、私達の長い永い祖先からの総意に

よる力であり、「縁」の力によるものであった

のでしよう。



「大転換」つまり「再誕生」

これは、胎児から人間への大転換であったので

す。

胎児から人間への生まれ変わり、「再誕生」で

もあったのかもしれません。


この時の私達の「産声」は、

母胎からの独立、

母胎と母父への感謝の声であり、

人間としての独立を誓う儀礼、

羊水から呼吸への切り替え、栄養補給を母乳に

頼る事になるための儀礼でも有り、儀式でもあ

るのかもしれません。

そして「再誕生」を宣言する為の精一杯の自己

表現なのかもしれません。


更にはその大きな声は、民族や使用言語に関わ

らず世界共通で、約440Hz(1秒間に440回の空

気振動)で「ラ」の音と決まっているのだそ

うです。

人間としての尊厳を示す立派な声でもありま

す。

この声は、これからの栄養補給や支援等を

要求する主張でもありましよう。

特に、これ以降の命綱となる食料を求めている

幼児の、未熟ながらの真に迫る要求でもありま

す。

全力で生き始めた、生命の主張でも有ります。






これ迄とは全く異なる世界へのデビューを示

す、「一大転換」でも有ったのです。

「そうなんです、
 大転換であり再誕生なのです」

私達は、時には「無我夢中」に大転換を果たさ

ねばならない時もあるのです。

生まれ変わる事が必要な事もあるのです。


その時には、それまでの記憶も消えて、新たな

自分に大転換するのです。





「導かれて」

しかもその間の胎児の私達は、きっと無我夢中

のまま何か大きな力に「導かれるように」生き

続けて来たのでしよう。


いいえ、これからも人間としての私達は、

「導かれるように」生き続けて行くのです。



このような不可思議な経験を持つ私達は、更な

る難問にも対処する能力を有しているのかもし

れません。


私達をしばしば襲う苦しみや絶望は、静かにク

リーンな心で向き合えば、幻のように消え去る

事もあるかもしれません。


私達には、どのような問題にも対処して行ける

可能性を感じます。


しかし一方私達は、いつもなにがしかの超え

ることの出来ない大きな壁にぶち当たるような

局面に出遭うこともあるのです。



このことは必ずしも、私達人間が努力を積み重

ねる事だけによって、全てを切り開いて来たと

言う訳ではなく、「何か重要な力が他に存在し

て」私達を支援してきたことを示唆しているよ

うにも思われるのです。


そのような局面では、「久遠の命」とでも言う

べき「何らかの大きな力」に導かれ、生き続け

て来たと言った方が、もっともっと真実に近い

事実であったのではないかと思われるのです。

2011年のサッカーワールドカップドイツ大会で優勝した、日本女子サッカーチーム(なでしこジャパン)のキャプテン、澤穂希さんは、
目に見えない力を頂いた。ひと言では言い表せないが、あの年だったことにすごく意味がある優勝だったと思う」
と語っていました。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 東日本大震災があった2011年のワールドカップ(W杯)ドイツ大会で初優勝を飾った日本女子代表(なでしこジャパン)。
世界を驚かせ、日本を勇気づけました。

読売新聞2023年6月27日版

又そのような結果として初めて、これまでの私

達はこの「久遠の命」を維持出来てきたのだろ

うと思われるのです。




私達は、「祖先」からの総意や関連する全ての

「縁」からの総意によって授けられてきた大き

な支援によって誕生し、生き続けて参りまし

た。


更には、「久遠の命」という大きな力が(いわ

ば私達人間<生物種としての人類>の

特別な力が、あるいは人間の力(<生物種とし

ての人類>のDNAの力)が私達を強力に支援

し数々の難局から私達を守ってきてくれたもの

と考えられます。



そして私達は今後も、私達が授かったこのよう

な様々な力を信じて、生き続けて行くのだろう

と思います。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


私達は、これらが「神様から命じられた

道」であると信じて、

感謝の気持ちを深めながら、

これからの毎日を無我夢中で、

「導かれた」ように、歩んで行くのです。



私達の前には、喜びも、悲しみも、時には

絶望さえもが訪れて参ります。

私達には、それすらも私達の試練の一つであろ

うと考えて乗り越えて行く事が求められている

のです。


私達の長い歴史の中で、そのような事は何回も

起ってきたのです。


それにも拘わらず、私達は次の世代には、より

良い生き方を望みつつ、バトンを渡し続けてき

たのです。


先人の歩んで来られた道を、同じように私達も

乗り越えて参りたいものです。

「唯一無二の私の命」は、

「唯一無二のあなたの命」でもあります。



この「唯一無二の命」は、私達の祖先の皆様の

頂点に立っている「命」でも有ります。


この頂点に立つ「命」つまり、

「唯一無二の私の命」は、

「唯一無二のあなたの命」でもあります。


私達の命はみんな、同志なのです。


唯一無二の命は、孤独ではなく、孤独に陥るこ

ともなく、お互いが開かれた存在として他者を

尊重して「久遠の命」の則を守り生き続ける事

になるのです。



私達はこれまで授かった「唯一無二の命」に感

謝して、この命の灯火を守って参りましよう。

そこには喜び、悲しみ、を乗り越えてきた人び

との長い永い物語が息づいています。

そして次に生まれてくる人達が、出番を求めて

今か今かと待っているのです。

その人達に、より良い生き方をして頂きたい

と、願いつつ新たな詩と音楽を捧げて参りたい

と思います。



                       

                 終わり。


* * * * * * * * * * * * * * * 

            最後に 

これまで色々な皆様方のご意見・ご指導を頂きましたことで、今までの世界感を更にアップデートし、新しい楽曲作りへの意欲を新たにするに到りました。

今後の皆様の「命の盛んなる事」をお祈りすると同時に、これまでのご支援に心から感謝申し上げます。


そしてこの投稿に関して、更に皆様方のご意見・ご見解などをも頂ければ大変嬉しく存じます。

「唯一無二の私の命」の物語の「詩」と「音楽」は、この物語を素材にして、作成して行きたいと考えています。

場合によっては、物語自体にも変更や修正が加えられるかもしれません。

目標としては数ヶ月から最大一年間ほどを予定しています。

              

                




長文をお読み頂き、大変有り難うございました。

佐野美知夫 拝
2023年6月14日



最後に、一生懸命歌って下さった歌い手の皆様による、
楽曲「合唱曲 久遠の命」
をお聴き頂ければ幸いでございます。
皆様方に幸多き日々が訪れますよう、お祈り申し上げます。

2023年8月6日改訂




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