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現実逃避か、恋の逃避行か


たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
河野裕子『森のやうに獣のやうに』(※)


12月に入ったというのに、ずいぶんと暖かな日が続く。それでも自宅前の寺の木々からふり落ちる葉を踏みつけながら、カサガサという音を楽しんでいる子どもたちを見ると、かならずこの歌を思い出す。

この歌、普通に読めば、恋しい人と二人だけの世界にいくことを切望している歌で、おそらく現実的にはそれができないから、せめて“歌”という虚構の中だけは、という気持ちが込められているのだろう。

しかしあるとき私は、この歌を恋の歌ではなくて、つらい現実から逃避したいという歌なのではないかとひらめいた。

冒頭から三句までは、本来、「愛しいあなた、たとえば落ち葉をガサってすくうように」という解釈であり、「たとえば」は「君」にかかるものではなく、「落ち葉をすくうやうに」の直喩に対する呼応表現なのだろう。

一方、私の解釈のロジックはこうだった。「たとえば君」の部分を、道行く人々のような不特定多数の中から適当に誰か一人を選んで、「誰でもいいんだけど・・・たとえばそこのあなた」という意味だと解釈した。それであれば、「誰でもいいから、ここではないどこかへ私を連れていってほしい」という解釈がなりたち、現実逃避の歌ということもできるのではないかと考えた。

まるで世紀の大発見をしたかのような勢いで、これを和歌・短歌に詳しい学生時代の友人にぶつけてみたところ、「それはないでしょう」とあっさり退けられた。友人によれば、やはりここでの「君」は万葉集以来の伝統的な「愛しいあなた」(特別な人)であり、現代の二人称の「あなた」ではないという。

8年ほど前にこの歌の作者が亡くなり、その翌年に歌人でもあった夫が、作者の歌とその思い出を語る本を出していて、長年の自分の解釈があっていたのかをたしかめるために、おそるおそるページをめくり始めた。やはり代表作ともいえるこの歌についても言及していた。

作者が21歳のとき、付き合っていた男性とは別に、後に夫となる人の存在が大きくなり、板挟みの想いから、夫となる人(つまり特別な人)にこの歌を詠みかけたという。(『たとへば君―四十年の恋歌』河野裕子、永田和宏 文藝春秋 2011年)

一般的に解釈されている通り、恋しい人と二人だけの世界にいくことを切望している歌であり、現実逃避ではないという審判が下った瞬間だった。

こんな自分流の解釈を頑なに信じていた当時のことを思い出すと、ちょうど20代後半、進むべき道を見失い、心身ともに自分の殻に閉じこもっていたときで、そんな現実から逃げたいと思っていて、歌に自分を見出していたのだろう。

そう考えると、作品とは、発表によって作者の手を離れたとき、作者の想いや意図からも離れて、読者独自のものになる瞬間があるのではないか。作品の鑑賞の仕方としてそれはどうかと問う人もいるかもしれない。

しかし作者やそのように問う人には申し訳ないけれども、この歌をあのように解釈することで、自身の力ではどうにもならない現実へのわだかまりをやり過ごす場を、心が得ていたこともたしかで、当時の私には必要なことだったと思えるのだ。


それにしても、21歳でこれが詠める作者の早熟な歌の才能と、二人の男性から想われる女性としての魅力に想いをはせる一方で、倍以上の年齢を重ねながらも、そのどちらをも得ることができていない自身の人生を思いやる。

そのやりきれなさに、「ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」と思う今日この頃。いくつになっても、生きていくことの悩みは尽きない。それもまた人生。



※この歌を所収する『森のやうに獣のやうに』は、青磁社によって1972年に出版されたものと、沖積舎によって1987年に出版されたものがあるが、現在はどちらも入手困難(絶版)かと思われる。



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