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温故知新(21)用明天皇(竹田皇子 尾張皇子 聖徳太子 聖徳王) 崇峻天皇(厩戸皇子 聖徳太子 聖徳法王) 山背大兄王(聖徳太子) 推古天皇 孝徳天皇 蘇我氏 橘氏 中臣氏

 第29代天皇の欽明天皇は、継体天皇の嫡男で、母は手白香皇女です。蘇我稲目宿禰の女堅塩媛(きたしひめ)を妃とし、大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)を儲けています。欽明天皇の時代(555年)に、蘇我稲目は、吉備国に大和朝廷の直轄地である白猪屯倉(しらいのみやけ)を置いていますが、白猪屯倉の候補地である岡山県真庭市の五反廃寺跡から出土した瓦は高句麗系のものです。また、『日本書紀』によると、蘇我氏の氏寺である奈良県高市郡の法興寺(飛鳥寺)は、用明2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したとされ、日本ではほかに類例がない高句麗の金剛寺と同じ様式で、三方に中金堂、東金堂、西金堂がある伽藍配置です。蘇我氏は、『古事記』や『日本書紀』では、武内宿禰を祖としていますが、稲目の父の名が高麗であることなどから、渡来氏族と推定され、稲目の妻が葛城氏の出であることから、その血統に連なったとする説があります。蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする巨勢氏巨勢徳太は、皇極天皇2年(643年)に、蘇我入鹿の命により斑鳩宮の山背大兄王を襲い一族を自害させています。

 飛鳥寺とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、神武天皇陵畝傍山東北陵四天王寺廣田神社鷲林寺(じゅうりんじ)、青谷上寺地遺跡があります(図1)。飛鳥寺には複数の呼称があり、法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)で、平城遷都とともに奈良市に移った寺は「元興寺」と称し、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」です。『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものとされますが、『元興寺縁起』には、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるため、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたとあります。法興寺(飛鳥寺)のある真神原(まかみのはら)は、雄略期に渡来人である今来漢人(いまきのあやひと)が住みついて開発された土地でした。588年に、新漢人の飛鳥衣縫樹葉(あすかきのきぬいのこの)の邸宅を壊して法興寺の造営が行なわれ、馬子の子の善徳(ぜんとこ)が寺司となっています。恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)が住み始め、当初は、馬子が所持していた弥勒石像が中金堂本尊であったという説があります。

図1 飛鳥寺とギョベクリ・テペを結ぶラインと神武天皇陵、四天王寺、廣田神社、鷲林寺、青谷上寺寺遺跡

 飛鳥寺とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、推古天皇の豊浦宮跡や小墾田宮跡と伝わる古宮遺跡があります(図2)。しかし、同緯度にある雷丘東方遺跡から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、こちらが小墾田宮跡と推定されています。

図2 飛鳥寺とギョベクリ・テペを結ぶラインと古宮遺跡、雷丘東方遺跡

 戸矢氏は、「蘇我」はヤマト言葉の「訓読み」ではなく「音読み」であることから、新たに作られた名としています1)。蘇我氏は、最終的には飛鳥を本拠地としましたが、出身地としては、「今来郡」だった大和国高市郡の「曽我」説などがあります。奈良県橿原市曽我町(大和国高市郡曽我)には第41代持統天皇が蘇我氏滅亡をあわれんで創祀させたとされる宗我坐宗我比古神社があります。持統天皇の母方の祖父が、蘇我入鹿と従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂です。

 「蘇我」は、訓読みすれば「我蘇り(われよみがえり)」なので1)、安康天皇(倭興 蓋鹵王と推定)に討たれた高句麗系の難波吉士日香香と関係があるかもしれません。『日本書紀』雄略紀に、難波吉士日香香の子孫に「大草香部吉士」が賜姓されたとあり、「蘇我」は「草香(日下)」に由来するのかもしれません。『古事記』によると、難波吉師部の祖は忍熊王の将軍だったので、仲哀天皇(讃王)と関係があったと考えられます。上田正昭氏は、著書で「国譲りと天孫降臨の物語自体が、高句麗の降臨と国ゆずりの話をもとにして構想された」とする説を紹介しています2)。

 587年に起こった「丁未の乱」は、仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされたとされていますが、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは排仏派ではなかったという説もあり、最近では、仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されています。排仏派とされる中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は、舎人迹見赤檮に殺されていますが、『聖徳太子伝暦』には、馬子の命を受けていたとあるようです。この頃から、中臣氏と蘇我氏の対立は深まっていたと考えられます。

 矢で射られた物部守屋を討ったのは秦河勝(はたのかわかつ)とされています。秦河勝は、大生部多(おおうべのおお)も討伐していますが、大生部氏は、仁徳朝に壬生部に定められた伊豆国造若多祁命の子・麻目古乃直の後裔とされています。壬生部は、大兄や、皇太子のような皇位継承者のための部とする説もあります。蘇我蝦夷・入鹿は、自らの墓を造るのに、上宮王家の壬生部を使役したといわれます。また、『日本書紀』皇極紀によると、山背大兄王の家臣であった三輪文屋君は、入鹿の軍勢に襲われ斑鳩宮から生駒山に逃亡した際に、山背大兄王に、東国の「乳部(壬生部)」のもとで再起を期し、入鹿を討ってはどうかと進言していますが、山背大兄王は、戦闘を望まず「吾が一つの身をば入鹿に賜わん」と言って自害しています。これは、法隆寺にある玉虫厨子の「捨身飼虎図」を連想させます。

 京都市右京区太秦にある広隆寺(こうりゅうじ)は、秦氏の氏寺で聖徳太子を本尊とし、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像があります。これは、韓国国立中央博物館にある新羅領内慶尚北道奉化郡で発見された金銅弥勒菩薩半跏思惟像と類似していることが知られています。弥勒菩薩半跏思惟像は、早くには敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の北魏の塑造があります。佐伯好郎氏は、秦氏は弓月国から敦煌を経て、朝鮮半島を経由して日本に来たとしています3)。

 図書館の調査資料によると、「丁未の乱」は、用明天皇の薨去後に、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇に立てようとした物部守屋と蘇我馬子が対立したことにより起こり、丹後半島(京丹後市丹後町)にある「間人(たいざ)」の地名の由来は、穴穂部皇子と兄弟の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が、「丁未の乱」の難を避けて大浜の里に滞在し、乱が収まって退座されたことによるようです。用明天皇の皇后の穴穂部間人皇女は、欽明天皇の第三皇女で、母は蘇我稲目の娘とされていますが、丹後に逃れているので、丹波に逃れた顕宗天皇や仁賢天皇と同様に、物部系と推定されます。

 穴穂部皇子も、物部守屋と結び、蘇我馬子に対抗して誅殺されているので、母親は物部系と推定されます。法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する藤ノ木古墳は、6世紀第4四半期の築造と推定され、被葬者は穴穂部皇子と第28代宣化天皇(せんかてんのう)の皇子の宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力とされています。穴穂部皇子は、物部の本拠地である八尾の「穴穂」で養育された可能性が高いといわれ、「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられています。欽明天皇と宣化天皇の皇女の間の皇子には、石上皇子(いそのかみおうじ)と倉皇子がいます4)(図3)。第32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、592年に蘇我馬子の命令で東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺され、すぐに埋葬されたとされていますが、天皇でありながら、殯(もがり)が行なわれていません。石上皇子は、名前から物部系と推定されるので、穴穂部皇子と同一人物で、宅部皇子は『扶桑略記』『本朝皇胤紹運録』等には欽明天皇の皇子とあるので、倉皇子と同一人物と推定されます。592年に暗殺されたのは崇峻天皇ではなく、石上皇子(穴穂部皇子)と倉皇子(宅部皇子)で、藤ノ木古墳に埋葬されたと推定されます。穴穂部皇子(石上皇子)や穴穂部間人皇女の母親は、蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)ではなく、宣化天皇の皇女の稚綾姫(わかやひめ 倉稚綾姫)と思われます(図3)。また、穴穂部皇子と炊屋姫の話は、創作されたものと思われます。

図3 宣化天皇の皇女と欽明天皇の皇子 出典:篠川賢「物部氏」吉川弘文館

 聖徳太子所縁の大阪市天王寺区にある四天王寺は、本尊が救世観音なので、崇神天皇を祀っていると推定されます。『日本書紀』によれば推古元年(593年)に建立が開始されたとされ、伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。四天王寺には、「聖徳太子」の佩刀であったと伝えられる国宝の「七星剣」が所蔵(東京国立博物館に寄託)されています。62.4cmの刀身に北斗七星や雲、竜虎などが金象眼で描かれた、わずかに内反りの片刃を持つ直刀です。かつては現存する以上の長さがあったようで、「八握剣」と思われます。

 四天王寺は、伊弉諾命を祀っていると推定される天太玉命神社とギョベクリ・テペを結ぶライン上に位置しています(図4)。当初の四天王寺は現在地ではなく、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため建てられたという説があります。

図4 天太玉命神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと四天王寺

 『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿」についての記述に、「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」と記され、「弓削の大連」は物部守屋とする説があります。生石神社は、出雲大社と橿原神宮(かしはらじんぐう)を結ぶラインの近くにあります(図5)。

図5 出雲大社と橿原神宮を結ぶラインと生石神社

 守屋は敏達元年(572年)に大連に任じられ、用明天皇の代も大連として天皇を補佐しています。706年に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあり、千田稔氏によると、養老令の注釈書である『令集解(りょうのしゅうげ)』の古記(738年頃の成立)に死後賜る諡(おくりな)について、「上宮太子を聖徳王と称するの類なり」とあり、「聖徳」は、死後上宮太子に与えられたようです。これらのことから「聖徳王」は、用明天皇と推定されます。

 華道の家元池坊家の伝承によれば、四天王寺建立のため京都に赴いた聖徳太子が、中京区に六角堂(現頂法寺)を建立し、同道した小野妹子に太子持仏の如意輪観音を本尊として守るよう命じたといわれています。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、用明天皇は諱を池辺皇子(いけのべのみこ)といい、「池坊」の由来と関係がありそうです。

 頂法寺と橘寺を結ぶラインの近くには、経津主命を祀る佐紀神社や、聖徳皇太子御誕生所の石碑があります(図6、7)。四天王寺は593年の創建とされ、頂法寺と橘寺を結ぶレイラインがあることから、橘寺は593年以前からあったと推定されます。また、レイラインに聖徳皇太子御誕生所の石碑があることから、六角堂(現頂法寺)は、用明天皇(聖徳王)が誕生した厩戸皇子のために建てたものと推定されます。用明天皇が即位2年後の587年に崩御したというのは史実ではなく、聖徳太子(厩戸皇子)が四天王寺を建立したという話に合わせるために創作したと思われます。

図6 頂法寺と橘寺を結ぶラインと佐紀神社
図7 頂法寺と橘寺を結ぶラインと聖徳皇太子御誕生所の石碑

 景行天皇の后は、大橘比売命(橘皇后)なので、孝元天皇の曾孫で、崇神天皇の孫の八坂入媛命が大橘比売命と推定されます。宣化天皇の后は、橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)で、仁賢天皇の皇女です。用明元年(585年)に第30代敏達天皇が崩御し、橘豊日皇子(用明天皇)が即位しています。橘氏は、飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族で、敏達天皇の後裔とされています。用明天皇は橘豊日皇子なので、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩媛の皇子ではなく、実際は敏達天皇の皇子と考えられます。『古事記』に記された敏達天皇と推古天皇の子の葛城王(かずらきのみこ)は、『古事記』にのみ記載され、『日本書紀』には記載がなく、敏達天皇と推古天皇の子は、二人の皇子、五人の皇女とされるので、葛城王は、小張王(尾張王)と同一人物で、用明天皇のことかもしれません。

 敏達天皇と推古天皇の子である竹田皇子(たけだのみこ)の名前は葛城地方の地名に由来し、早くから皇位継承の有力候補と目されていましたが、泊瀬部皇子(崇峻天皇)の即位後は、竹田皇子は史料から登場しなくなるので、この頃に薨去したと考えられています。用明天皇は、585年の即位後、わずか2年で崩御したとされていますが、中臣勝海は用明天皇2年(587年)に竹田皇子の像を作り呪詛したとされています。竹田皇子の墓は『日本書紀』に推古天皇が竹田皇子の墓に合葬するように遺詔したことから、推古天皇陵として治定されている磯長山田陵(大阪府南河内郡太子町大字山田)とされています。近年の発掘調査により、推古天皇は、奈良県橿原市の植山古墳(図8)にまず葬られた後、磯長山田陵に改葬されたという学説が有力視されています。用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵(図8)に葬られますが、その後、推古元年(593年)に「河内の磯長の陵」(図8)に改めて葬ったと記録されています。竹田皇子が尾張皇子で葛城王(用明天皇)とすると、磯長山田陵から河内磯長原陵に改葬されたと思われます。奈良県高市郡明日香村橘にある橘寺とジェッダを結ぶラインは、用明天皇河内磯長原陵の近くを通ります(図8)。推古天皇磯長山田陵とオリンポス山を結ぶラインの近くに聖徳太子磯長墓があり、ギョベクリ・テペと用明天皇河内磯長原陵を結ぶラインの近くに聖徳太子御廟や弘法大師堂があります(図9)。

図8 橘寺とジェッダを結ぶラインと推古天皇磯長山田陵、用明天皇河内磯長原陵、聖徳太子磯長墓、伝用明天皇磐余池上陵、植山古墳
図9 推古天皇磯長山田陵とオリンポス山を結ぶラインと聖徳太子磯長墓、ギョベクリ・テペと用明天皇河内磯長原陵を結ぶラインと聖徳太子御廟、弘法大師堂、二子塚古墳

 橘寺は、四天王寺式伽藍配置をとり、本尊が聖徳太子で、観音堂には、如意輪観音を本尊として祀っています。橘寺の如意輪観音は「救世菩薩」とも呼ばれます。顕真の「聖徳太子伝私記」では「橘寺は法隆寺の根本の末寺なり」とあり、「南都七大寺巡礼記」(平安中期)には、橘寺は聖徳太子の菩提寺として金堂には救世観音が納められていたとのことです。本尊の聖徳太子は、崇神天皇(豊耳命)と推定されます。『古事記』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記され、非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)と記し、橘寺の由来にもなっています。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したといわれる場所がありますが、この「聖徳太子」は、用明天皇の皇子の厩戸皇子と推定されます。

 橘寺の真北には、崇神天皇の異母兄で、日向三代の鸕鶿草葺不合尊(開花天皇)の陵墓と推定される椿井大塚山古墳があります(図10)。また、橘寺(北緯34度28分12秒)は、伊弉諾神宮(北緯34度27分36秒)や矢田宮(神宮神田 北緯34度28分)とほぼ同緯度にあり(図11)、海神神社(北緯34度27分51秒)ともほぼ同緯度にあることから、上宮王家と天太玉命饒速日命(瓊瓊杵尊)や須佐之男命との血縁関係を示していると推定されます。

図10 椿井大塚山古墳と橘寺を結ぶライン
図11 伊弉諾神宮と神宮神田(矢田宮)を結ぶラインと 橘寺

 橘寺とオリンポス山を結ぶラインの近くに、兵庫県丹波市山南町岩屋にある高野山真言宗の石龕寺(せきがんじ 山号は岩屋山)があります(図12)。寺伝によると、用明2年(587年)に聖徳太子が蘇我馬子と共に物部守屋と戦った後、毘沙門天を祀ったことに始まるとされ、南北朝時代、足利尊氏が京都から播磨国に逃れる際に留まった寺です。石龕寺の鎮守として弁才天が祀られていましたが、明治時代の神仏分離により市杵島比売命を祀ることとなり、現在でも祭神は弁財天であるとする信仰があるようです。石龕寺の南に、市杵島比売命(丹生津姫命)の墓があると推定される天王山古墳群があります(図12)。石龕寺は、用明天皇が物部守屋を弔うために、物部氏の祖神である饒速日命(瓊瓊杵命)の后の市杵島比売命(丹生津姫命 弁財天)を祀ったと思われます。橘寺は、寺伝では欽明天皇の別宮(橘の宮)があったとされますが、「橘」の名前や、石龕寺と関係付けられていることから、橘寺には用明天皇の別宮があったと思われます。

図12 橘寺とオリンポス山を結ぶラインと石龕寺、天王山古墳群

 日本最古の刺繍遺品として知られる天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、尾張皇子(敏達天皇の皇子・母は第33代推古天皇)の娘の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、聖徳太子を偲んで、祖母に当たる推古天皇に願い作らせたとされています5)。尾張皇子は、『上宮聖徳法王帝説』においても、聖徳太子の妃の1人である位奈部橘王(いなべのたちばなのみこ 橘大郎女)の父親として登場しています。『天寿国繡帳』の銘文(飯田瑞穂が考証・校訂を加えたもの)には、「尾治大王之女名多至波奈大女郎」の記載があり、「尾張大王の女、名は多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)」と解釈され6)、「大王」は天皇で、「(おな)」は娘と考えられるので、尾張皇子(尾治大王)は、橘豊日皇子(用明天皇)と推定されます。したがって、用明天皇の父親は敏達天皇、母親は推古天皇で、娘が橘大郎女と考えられます(図13)。天寿国繡帳左上の亀形に「部間人公」の4字が確認でき、これは人名「孔部間人公主」の一部で、橘豊日皇子(用明天皇)の后の穴穂部間人皇女のことだと考えられています(図13)。

図13 上宮王家関係略系図 出典:「敗者の日本史」宝島社新書

 天寿国繡帳を見ると、亀形や中に兎がみえる月など、尾張(吉備)の孝元天皇珍彦命の亀、菟道彦の兎)と関連があるように思われます。法隆寺とギョベクリ・テぺを結ぶラインの近くには、白兎神社(はくとじんじゃ)があります(図14)。白兎神社は、白兎神を主神とし、保食神、豊玉比売を合祀していますが、大国主命(菟道彦)、豊受大神、卑弥呼(豊玉姫命)を祀っていると推定されます。

図14 法隆寺とギョベクリ・テペを結ぶラインと白兎神社

 図13の「崇峻天皇」に当たるのは、穴穂部間人皇女の兄弟の穴穂部皇子(石上皇子)と考えられます。『日本書紀』によると、崇峻天皇の妃の大伴小手子は、天皇の寵愛が衰えたことを恨んで、蘇我馬子に密告したとされ、『先代旧事本紀』によれば、寵愛を受けたのは夫人物部布都姫とされているようです。崇峻天皇の女御(にょうご)の河上娘(かわかみのいらつめ)は、蘇我馬子の娘とされ、東漢駒が崇峻天皇を殺した後に駒が河上娘を奪ったので、駒は馬子に殺されたといわれています。河上娘は、馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物とされることもあり、『上宮聖徳法王帝説』6)より、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の母は刀自古郎女とされるので(図13)、山背大兄王は崇峻天皇の子で、崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)だったと推定されます。山背大兄王の母は、物部布都姫だったのかもしれません。

 尾張皇子が用明天皇で、厩戸皇子を崇峻天皇として、上宮王家の系図(図11)を見ると、第29代欽明天皇から第32代崇峻天皇まで、父子関係だったと推定されます。用明天皇の生年は不詳とされていますが、聖徳太子の誕生は敏達3年(574年)とされています。用明元年は585年なので、用明天皇(尾張皇子)が聖徳太子だったとすると11歳で即位したと考えられます。『聖徳太子伝暦』には、太子が11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されているようです。

 『日本書紀』によると聖徳太子(厩戸皇子)は、推古9年(601年)に斑鳩宮(いかるがのみや)を造って、以後そこを居所としたとされます。法隆寺金堂の「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)があらためて推古15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述があります4)。用明天皇が607年に崩御したとすると享年は33歳と推定されます。用明天皇の享年は様々ですが、最も若い『水鏡』で36歳とされています。

 推古天皇は、崇峻天皇が馬子の命令で暗殺された後、崇峻5年(593年)に即位し、在位期間は628年までの36年(『古事記』では37年)となっていますが、622年に聖徳太子(崇峻天皇)が亡くなったとすると、在位期間は実際には6年程度だったと推定されます。複数の男子の皇位継承者がいる中で推古天皇が即位することになったのは、生母が蘇我氏出身だったためと考えられています。法隆寺金堂の中央に安置される釈迦三尊像には「推古29年(621年)に前大后(穴穂部間人王)が亡くなり、推古30年(622年)に、王后が亡くなり、翌日、上宮法皇(聖徳太子)も亡くなったとあり、像は623年に司馬鞍作止利に造らせた」という内容の光背銘があります。大山氏は、聖徳太子の妻の「王后」の「后」は、即位した大王の妻のことで、誤りとしていますが5)、崇峻天皇の「后」で正しいと考えられます。法隆寺には、聖徳太子が16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床で看病した際の様子が描かれたとされる鎌倉時代の聖徳太子像(孝養像)が遺されています(写真1)。用明天皇が亡くなった年が607年で、その時、厩戸皇子が16歳だったとすると、崇峻天皇(厩戸皇子)が生まれたのは591年と推定され、31歳頃に亡くなったと推定されます。崇峻天皇の諱は『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とあり、若くして亡くなったことを表していると思われます。

 斑鳩宮(いかるがのみや)は、厩戸皇子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿で、『日本書紀』によると、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだとされます。厩戸皇子が591年に橘寺で生まれたとすると、斑鳩宮に移り住んだのは14歳と推定され、斑鳩宮を造ったのは用明天皇と推定されます。斑鳩宮には、厩戸皇子の薨去後は、山背大兄王一族が住んでいたことから、尾張皇子(用明天皇)、厩戸皇子(崇峻天皇)、山背大兄王は、崇神天皇から続く上宮王家だったと考えられます。崇峻天皇(厩戸皇子)の「崇」と「厩戸」は、崇神天皇(みまきのすめらみこと)と関連付けていると推定されます。『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、聖徳太子(用明天皇と推定)は推古6年(598年)に諸国から良馬を貢上させ、舎人の調使麿に命じて飼養したとされるので、厩戸皇子(崇峻天皇と推定)の名前は、少年時代に住んだ橘寺(用明天皇の別宮と推定)の近くに馬小屋が多数あったことに由来すると推定されます。

 薬師如来坐像の光背銘には、「天皇」の記載があることなどから、飛鳥浄御原令が編纂された持統3年(689年)以後の成立と考えられています4)。しかし、法隆寺(斑鳩寺)に遺跡が残る若草伽藍(わかくさがらん)は、発掘調査によって、斑鳩宮と同時期に造られたと考えられ、日本では最も古い建築様式の四天王寺式伽藍配置だったことがわかり、若草伽藍が創建時の法隆寺である可能性が高いとされています。若草伽藍は、崇峻天皇(東宮聖王 厩戸皇子と推定)と豊御食炊屋比売命(推古天皇)が、用明天皇の冥福を祈って建立したと推定されます。

 『日本書紀』には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事があります。養老2年(718年)には、県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承があります。第45代聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう 701年-760年)は、藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、仏教に篤く帰依し、多くの寺院の創建や整備に関わり、また、救貧施設の「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善などを行っています。『法隆寺資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、主に県犬養橘三千代によって、法隆寺の再建や仏像の建立や修復が行なわれたと推定されます。

 『日本書紀』に、崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、陵墓は、6世紀末から7世紀初頭に築造された赤坂天王山古墳とする説が有力です。赤坂天王山古墳は、岡山県倉敷市にある由加神社本宮と同緯度(北緯34度30分)にあり、赤坂天王山古墳とオリンポス山を結ぶライン上には法隆寺があるので(図15)、崇峻天皇(聖徳太子 厩戸皇子)の陵墓と推定されます。

図15 赤坂天王山古墳とオリンポス山を結ぶラインと法隆寺

 聖徳太子は、推古30年(622年)に妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)と共に病となり、1日違いで死去し、叡福寺北古墳(磯長陵(しながりょう))に葬られたとされています。磯長陵は、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとする説があり、「三骨一廟」と呼ばれています。磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地で、推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされています。『上宮聖徳法王帝説』6)によると、山代大兄(山背大兄王)は、厩戸豊聰耳聖徳法王が菩岐々美郎女を娶って生まれた異母兄弟の舂米女王(つきしねのひめみこ)を妻としています(図10)。したがって、磯長陵に一旦葬られた聖徳太子(聖徳法王)は、厩戸皇子(崇峻天皇)と推定されます。厩戸皇子が「法王大王」などの称号をもっているので、厩戸皇子を後の天皇だとみる学説もあるようです7)。

写真1 聖徳太子像(孝養像) 出典:https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

 611年から615年に『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を著し、620年に『国記』『天皇記』を編纂したのは崇峻天皇(厩戸皇子)と推定されます。『三経義疏』は、中国の学僧の注釈を基礎に独自の解釈を加えたもので、大乗菩薩行の実践の精神に貫かれ、日本仏教の原点的意義をもつ(百科事典マイペディア)とされています。

 山背大兄王も聖徳太子と呼ばれていたと考えられ、山背大兄王の子に用明天皇と同じ名前の尾張王がいます(図8)。崇峻天皇が、20歳の時に山背大兄王が生まれたとすると611年頃と推定され、上宮王家(山背大兄王)が滅亡した643年には、山背大兄王は32歳頃で、王子は12歳頃だったと推定されます。「聖徳太子及び二王子像」(「唐本御影」とうほん みえい)と同様に、二王子と共に描かれた聖徳太子像は、兵庫県加古川市の鶴林寺にもあります(写真2)。

写真2 聖徳太子孝養像及び二王子・二天像 出典:https://shizubi.jp/blog/196/

 加古川市内には、法隆寺と同じ伽藍配置を持つ、西条廃寺、石守廃寺、中西廃寺などの寺院があったようです。鶴林寺の前身は、四天王寺聖霊院といわれ、聖徳太子が14歳の時(587年)に、馬子が守屋を滅ぼした後、四天王寺を建立しましたが、2年後に、景行天皇所縁の賀古の郡においても三間四面の精舎を建て、釈迦三尊と四天王を祀ったのがはじまりとされています。鶴林寺は、ほぼ備前車塚古墳(孝元天皇の陵墓と推定)と浦間茶臼山古墳(崇神天皇の陵墓と推定)を結ぶライン上にあります(図16)。また、鶴林寺とオリンポス山を結ぶラインの近くには、建葉槌命(卑弥呼と推定)と大国主命の娘の下照姫命を祀った倭文神社があります(図17)。

図16 鶴林寺と備前車塚古墳を結ぶラインと浦間茶臼山古墳、
図17 鶴林寺とオリンポス山を結ぶラインと倭文神社

 鶴林寺の鎌倉時代に描かれている聖徳太子像にある「天部」は仏法の守護神で、「天部」が四天王のうちの広目天多聞天(毘沙門天)とすると崇神天皇(豊耳命)を表しているのかもしれません。鶴林寺には、聖徳太子坐像及び二王子立像もあり、二王子は山背大兄王と、弟の殖栗王とされていますが、「聖徳太子と二王子」は、山背大兄王と王子の尾張王らを描いたものかもしれません。鶴林寺の山門前には安産子育地蔵尊が祀られ、播磨のこの地域は、8月23日に地蔵盆をするそうです。山背大兄王(聖徳太子)の王子らを祀ったのが始まりかもしれません。山背大兄王の墓所の候補とされている生駒郡平群町の西宮古墳は、楯築遺跡(大日孁貴の墓と推定)や金蔵山古墳(垂仁天皇の陵墓と推定)とほぼ同緯度にあり(図18)、山背大兄王の墓と推定されます。

図18 西宮古墳と楯築遺跡を結ぶラインと金蔵山古墳、

 紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、 「 唐本御影 」「 阿佐太子御影」という、2つの異名があり、笏(しゃく)を持ち帯刀して立つ太子が描かれています。眉などの描き方から、8世紀半ばの奈良時代に描かれたというのが通説になっています。「阿佐太子」は 百済の王族の画家で、日本に仏教を伝えた聖明王武寧王の子)の子孫で、『日本書紀』には推古5年(597年)に来日したという記録があります。厩戸皇子(崇峻天皇)が591年に生まれたとすると、年代的には合いません。「阿佐太子御影」の異名の由来は、当時朝廷の最高実力者だった関白・九条道家(1193-1252)の兄の慶政が伝えた話によるもので、九条道家は、藤原北家、関白・藤原忠通(1097-1164)の曾孫です。「 唐本御影 」は、鶴林寺の「聖徳太子孝養像及び二王子・二天像」を見た渡来人が唐人風に描き直したものかもしれません。「聖徳太子二王子像」は、秦氏の「魔多羅神とニ童子」の絵と似ているというブログがあります。秦河勝と深い関係のある京都太秦・広隆寺境内の大酒神社には、仮面と装束を着けた摩多羅神が牛に跨がって赤鬼・青鬼とともに練り歩き、災厄退散の祭文を読み上げるという牛祭があります。

 600年の遣隋使の派遣、603年の冠位十二階の制定、604年の十七条の憲法の制定は、用明天皇の代だったと考えられます。『先代旧事本紀』によると、十七条の憲法にある「篤く三法を敬え」の「三法」とは、『日本書紀』にある「仏・法・僧」ではなく、「儒・仏・神」となっているようです5)。唐から帰国した僧・道慈(どうじ)が、『日本書紀』の仏教関係記事の述作に関わり、聖徳太子関係記事に関わったとされています8)。聖徳太子(用明天皇)は、宗教の形式にはこだわっていなかったと思われます。冠位十二階や十七条の憲法を最初に制定したのは、用明天皇(聖徳王)と推定されます。

 天足彦国押人命(天押帯日子命)を氏祖とする小野妹子は、『日本書紀』によれば607年(推古15年)大唐(当時の隋)に派遣され、608年に隋の使臣裴世清を伴って帰国しましたが、隋の皇帝煬帝からの返書を百済において紛失したと報告しています。野田利郎氏によると、『隋書』と『北史』で「倭」ではなく、「俀」を使用したのは、隋の王朝が「倭国の多利思比孤」を不正に継承された王と考えたことによる可能性があるとしています。「」は「弱い」という意味で、「倭国」を貶めて使用したとも考えられています。『隋書』には、「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」とあり、吉村武彦氏は、「阿毎多利思比孤」は天足彦(あめたりしひこ)のことで、天子(天児)の和語としています7)。中臣氏の祖神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の別名は天足別命(あめのたらしわけのみこと)なので、「天足彦国押人命」から、和珥氏の祖の「天押帯日子命」の「押」を除いた名前かもしれません。

 遣隋使の派遣は、推古朝の時代とされていますが、『隋書』倭国伝には、「王妻号難弥(王の妻は難弥と号した)」とあり、遣隋使を派遣した倭王は男性としてとらえられています。これについて、吉村武彦氏は、単なる誤りとは考えられないとしています7)。

 608年には、用明天皇はなくなっていると考えられ、難弥は、崇峻天皇の妃の小手子(こてこ)かもしれません。小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられますが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びたといわれています。崇峻天皇(厩戸皇子)の推定年齢から、蜂子皇子は幼子だったと思われます。『日本書紀』崇峻紀元年に書かれている崇峻天皇の家族関係と同じ内容の記述が「上宮記下巻注云」にあり、「聖徳太子」の子である長谷部王(泊瀨王)と大伴小手子との子が「波知乃古(はちのこ)王と錦代王である」と記されていますが、長谷部王(泊瀨王)は、崇峻天皇の実名と同じです8)。「上宮記下巻注云」の「聖徳太子」が用明天皇で、子が崇峻天皇とすれば理解できます。

 宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社とオリンポス山を結ぶラインは、羽黒山と月山の間を通ります(図19)。これは、聖徳太子と倭建命の関係を示していると考えられます。

図19 大高山神社とオリンポス山を結ぶラインと羽黒山、月山

 小野妹子と共に使者となった鞍作福利(くらつくりのふくり)の父とされる鞍作止利は、祖父が司馬達等で、425年に倭讃が宋(南朝)に送った官吏が司馬曹達なので、鞍作福利を送ったのは、難波吉士日香香の子孫の「草香部吉士」と推定される蘇我馬子と思われます。小野妹子は隋の返書を百済人に掠め取られ紛失したと述べていますが、鞍作福利は日本に帰国しなかったと伝えられているので、関係があるかもしれません。『日本書紀』によると裴世清の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成(きしのおなり)が出迎え、中臣宮地烏摩呂(なかとみのみやどころのおまろ)らが接待役をつとめた9)とされています。中臣宮地烏摩呂は、天神系氏族で讃岐国山田郡宮所郷を発祥とする説もあり、讃王仲哀天皇)と関係があるかもしれません。東漢氏が、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当したのは、孝文帝の時代は、北魏と高句麗が同盟関係にあったためと推定されます。遣隋使の際に、東漢氏の東漢直福因(倭漢直福因)が留学生として同行しています。

 『旧唐書(くとうじょ)』は、中国五代十国時代(907年~960年)に編纂され、唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)が書かれていますが、このうちの「倭国伝」には、倭国は古の倭の奴国であると記され、「日本国伝」には、日本国は倭国の一種族であるとし、その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたと記されています。607年の遣隋使から、対外的には、国津神系の倭国から天津神系の日本国に変わったと考えられます。

 2020年に、斑鳩宮が、入鹿の襲撃によって焼失したことを裏付ける可能性がある斑鳩宮の一部とみられる壁土が見つかっています。蝦夷は、入鹿が上宮王家(山背大兄王)を滅亡させたことを知り「自分の身を危うくするぞ」と嘆いていることから、入鹿の行動は、蝦夷の大王家の外戚の地位を守るという意に反していたと考えられます。蝦夷の母は物部守屋の妹の太媛であることが関係しているかもしれません。『日本書紀』の中での聖徳太子の描かれ方は、ヤマトタケルとよく似ていて、事績が詳細に記述されているといわれています。これは、ヤマトタケルと同様に聖徳太子を物部氏から切り離す意図があったと思われます。『日本書紀』以前の資料で、蘇我氏が推古天皇の在位期間を意図的に長くしたとすると、推古天皇の生母が蘇我氏だったため、聖徳太子の事績を、蘇我氏が主導したこととするためと推定されます。

 奈良県桜井市大字吉備にある吉備池廃寺は、第34代舒明天皇が発願した我が国初の勅願寺・百済大寺(639年発願、673年移築)であることがほぼ明らかになっています。吉備池廃寺は、法隆寺と同じ日本独自の伽藍配置を持ち、東に金堂、西に塔という配置になっています。金堂は、一辺が法隆寺の約1.5倍で塔は九重もあったといわれています。吉備池廃寺とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、北葛城郡広陵町大字百済にある百済寺があります(図20)。『日本書紀』には、舒明天皇が「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」と命じた旨の記事があるので、百済寺付近には大宮があったのかもしれません。

図20 吉備池廃寺とギョベクリ・テペを結ぶラインと百済寺(広陵町)

 吉備池廃寺の付近は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)、清寧天皇の磐余甕栗宮(御逗子神社)、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。履中天皇磐余稚桜宮跡とギョベクリ・テペを結ぶラインは耳成山(みみなしやま)を通り、ギョベクリ・テペと天香久山を結ぶラインは藤原宮跡を通ります(図21)。用明天皇の磐余池辺雙槻宮は、5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建設されたとされ、2011年に天香久山から北東に数百メートルの位置にある発掘現場(橿原市東池尻町221)で大型建物跡が発見され、磐余池辺雙槻宮である可能性が高いと報道されています。

図21 履中天皇磐余稚桜宮跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと耳成山、ギョベクリ・テペと天香久山を結ぶラインと藤原宮跡、御逗子神社、継体天皇磐余玉穂宮、吉備池廃寺跡、用明天皇磐余池辺雙槻宮跡伝承地

 奈良県にある石舞台古墳は、蘇我馬子の墓とする説が有力ですが、墳丘が破壊されているのは、崇峻天皇を殺害させたことにより、後に大祓が行われたのかもしれません。須佐之男命は、高天原を追放されていないと考えられることから、蘇我氏により、須佐之男命が大祓を受けたことにされた可能性も考えられます。624年に大王家の外戚となった蘇我馬子が、推古天皇に葛城県を本居として請うていますが、直轄領のため許されませんでした。『日本書紀』には、皇極元年(642年)に、「蝦蛦、己が祖の廟(まつりや)を葛城の高宮に立てて、八佾之儛(やつらのまひ)を為(す)」と記されていますが、八佾之儛は、古代中国の雅楽の舞の一形式で、これを行うのは天子だけで、日本でも天皇の特権とされていたようです。

 上宮王家(山背大兄王)滅亡の2年後の645年に、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが入鹿を宮中にて暗殺し、蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)が起こっています。この時、中大兄皇子は皇極天皇に、「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えたとされています。蝦夷は、舘に火を放ち『天皇記』などを焼き自害しましたが、『国記』だけは拾い出されたようです。

 乙巳の変の際、蘇我氏の母をもつ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は私宮へ逃げ帰り、「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」と述べたとされます。「韓人」とは、古代において朝鮮半島南部を中心として紀元前後に定住していた民族諸集団を指します。蘇我稲目との崇仏論争で物部尾輿(もののべおこし)とともに排仏を主張したとされる中臣鎌子(かまこ)が知られています。『日本書紀』には、忌部氏の祖神太玉命とともに、祭具として玉・鏡・幣(ぬさ)を掛けた聖木を用意したのが、中臣氏の祖神天児屋根命としています。

 中国では古くから吉凶を占うために、亀の甲や牛の肩胛骨を用いた卜占(ぼくせん)が行われていましたが、中臣氏の前身は卜部(うらべ)氏だったとする説があります10)。対馬国卜部氏は、対馬県主家の対馬県氏(対馬県直)の一族で、祖神の候補としては建比良鳥命や天児屋根命が挙げられています。常陸国の鹿島神宮の卜部は、上古より鹿島神宮に仕え、太占(ふとまに)に携わった家系で、鹿島神宮の周辺には卜部氏が居住していたといわれ、天平18年(746年)に、常陸国鹿嶋郡の卜部5戸が中臣鹿島連姓を賜姓されています。『懐風藻』(751)大津皇子伝に「時有二新羅僧行心一、解二天文卜筮一」 (易経‐繋辞上)とあるようです。室町時代(16世紀)に描かれた「大織冠像」には、新羅系の僧侶が創建したといわれる広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に似た半跏姿の藤原鎌足が描かれています。中大兄皇子は、天太玉命の系統と推定され「韓人」ではないので、実際に入鹿を討ったのは中臣鎌足だったと思われます。

 敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫で、子は、第34代舒明天皇(じょめいてんのう)と茅渟王(ちぬのおおきみ)です。茅渟王は、皇極天皇・孝徳天皇を儲けています。乙巳の変ののち、皇極天皇の弟の第36代孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治がおこなわれました。大化の改新で打ち出した諸政策の一つに、民意を重んじる目安箱のような鐘櫃の制(かねひつのせい、しょうきのせい)と呼ばれる施策がありました。雅子皇后の実家の小和田氏(おわだし)は、孝徳天皇の皇孫で日下部表米(但遅麻国造)の末裔が小和田を名乗ったのがルーツといわれます。

文献
1)戸矢 学 2021 「「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈 神々の子孫」 方丈社
2)上田正昭 2012 「私の日本古代史(上)」 新潮選書
3)坂東 誠 2016 「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」 PHP文庫
4)篠川 賢 2022 「物部氏 古代氏族の起源と盛衰」 吉川弘文館
5)大山誠一 1999 「〈聖徳太子〉の誕生」 吉川弘文館
6)東野治之 校注 2013 「上宮聖徳法王帝説」 岩波文庫
7)吉村武彦 2019  「新版 古代天皇の誕生」 角川ソフィア文庫
8)大山誠一(編) 2003 「聖徳太子の真実」 平凡社
9)久保有政 2014 「日本とユダヤ 聖徳太子の謎」 学研パブリッシング
10)古川順弘 2021 「古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎」 宝島社新書