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吉井正治『無縁声声(新版)』(藤原書店)

はじめに

釜ヶ崎(西成・あいりん地区)に関心を持ったのは、認定NPOのHome doorがきっかけだった。

大前提として、現在は公式な住所・地名として「釜ヶ崎」は存在していない。「西成区」は必ずしも日雇い労働者ばかりが住んでいるわけではなく、高級住宅街も含まれる。また「あいりん地区」とは住所ではなく行政の政策上の名称である。
以下では、本書をはじめ「日雇い労働者」をテーマにした本で最も用いられれている「釜ヶ崎」を用いる。

NPO法人Home Doorとは

ホームレスを脱する生活に向けて支援している団体である。

主要事業としては、大阪で「シェア自転車」を展開しているようだ。
ホームレスには、自転車で缶やダンボール回収作業をしている方々が多い。
「ホームレスの得意な仕事は?」の答えの1つが自転車のメンテナンスだったという。
このあたりはHomedoor代表で、日経Woman of the Year 2019にも選ばれた川口加奈氏の以下の著書に詳しく書いてある。
タイトルは自己啓発本のようだが、中身は自伝的な内容や、社会問題を解決するソーシャルビジネスについての経験が書かれている。

この本を読んで疑問に思ったのは「なぜ釜ヶ崎のような状態が生まれたのか?」である。
上記の本は「釜ヶ崎の現状」から問題解決を目指してスタートしているため、歴史的経緯などは記載されていないからだ。

「ドヤ」に30年間住み続け、労働運動と研究をつづけた著者

釜ヶ崎関連の書籍で必ず出てくる言葉が「ドヤ」である。
これは「宿(やど)」をひっくり返した言葉で、日雇い労働者のための簡易宿泊所をいう。
ドヤは1部屋3畳、場合によっては高さも通常の部屋の半分しかない。
これは、例えば「4階建の建物に労働者を詰め込むために間に仕切り(床)を作り8階建にする」などしたためである。

著者の平井正治氏はこのドヤに30年間住み続け、日雇い労働者として働きながら、労働運動と研究を続けていた。
部屋の三方向の壁は資料でいっぱいだという。

本書『無縁声声』は、平井氏の経験と知識を、語り部のような形で記述した本であり、おそらく過去にも未来にもこれ以上の資料は出てこないのではないのではないだろうか。

釜ヶ崎の歴史

本書の価値・魅力は歴史に関わることだけではないが、以下では歴史に焦点を当てて記述する。
著者・出版社の想いや、日雇い労働者の生々しい実態、詳細については本書を実際に読んでいただくのが良いと思う。

江戸時代中期~1885年頃まで

本書で最初に歴史的記録として紹介されるのは、江戸時代中期のものである。
石丸石見守(いしまるいわみのかみ)により、野宿者が集められた記録があるという。
ただし、場所は現在の釜ヶ崎ではなく、当時の長町、現在の日本橋であった。

1885年(明治18年)頃~1900年頃まで

全国でコレラが流行。
日雇い労働者は衛生状況が良くないため感染源となった。
衛生対策として大阪に上下水道が初めて作られる。
なお、この頃、偶然にアメリカで水力発電が発明され、1894年の「第4回内国勧業博覧会」に合わせて、上下水道の整備と合わせて日本でも初めて水力発電機が設置された。
1894年は平安遷都1100周年のため京都で開催された。
この日本初の水力発電機は京都市の都ホテルに現存している。
この電力で、京都市の路面電車が走り始めた。

1903年「第5回内国勧業博覧会」という転機

1903年の「第5回内国勧業博覧会」が、大阪の天王寺公園で開催されることに決まる。
当時、現在の大きな通りである御堂筋や谷町筋はなく、大通りというと堺筋であった。
この際に問題となったのが、日雇い労働者を集めた当時の「長町」の位置である。
博覧会には天皇も来場する予定であり、堺筋を通る際に日雇い労働者の「ドヤ」があるのは都合が悪い。
そのため行政とヤクザとの連携により、長町の日雇い労働者は現在の釜ヶ崎に強制的に移動させられることとなる。

しかし、その移動先は、さほど離れていない釜ヶ崎であった。
なぜか。
それは、日雇い労働者が、天皇の通り道にいては邪魔な一方、天王寺公園で行われる内国勧業博覧会のための労働力としては必要だったからである。

内国勧業博覧会後

第5回内国勧業博覧会終了後、釜ヶ崎の日雇い労働者は大量失業。
一部の失業者は、GHQ占領下でフィリピンの山岳道路(ベンゲット道路)工事に駆り出されるなどした。
しかしほとんどの人々は帰国できずフィリピン山岳地帯に集落を作り、現地で差別を受けるなどした。
これは小田作之助『わが町』に記述が残っているという。

朝鮮戦争と神戸港

1950年に朝鮮戦争が始まるが、当時は著者は神戸の港湾で日雇い労働者として働いていた。
なお、それ以前は松下電器(現パナソニック)で働いていたが、赤狩り(レッドパージ)により退職を余儀なくされた。
このあたりは本書を読んでいただきたい。

神戸港では、朝鮮戦争で死亡したアメリカ兵の内臓を抜き、ホルマリン漬けにしてからジュラルミンケースに入れてアメリカへ輸送するという仕事もあったという。
内臓を抜く作業は日雇い労働者が、ホルマリン漬けにする作業はインターンの学生が行っていた。

第一次釜ヶ崎闘争とヤクザ

1961年には2000人規模の日雇い労働者による「第一次釜ヶ崎暴動」が起こる。
当時は「石炭から石油へのエネルギー政策の転換」により炭鉱が閉鎖。
失業者が大量に釜ヶ崎に流れ込んでいた。
発端は、事故に遭い息があった日雇い労働者を、西成警察署が死体として処理したことにあるという。
この暴動にリーダーや計画性はなかった。
暴動は6日間。
1日目は労働者が西成警察署を包囲した。
2日目は、暴動をさらにけしかけようとしたヤクザの「山田組」にも矛先が向き、山田組の建物は全焼。
これを受け、警察は逮捕の名目え山田組の幹部を事実上保護したが、幹部2名はすぐ自殺したという。これは著者の推測では「口封じ」としている。
暴動の後半は、警察が警棒による暴力的鎮圧を行い収束した。
本書では、それにより指を失った労働者の写真も掲載されている。

山田組は釜ヶ崎の日雇い労働者を集める「手配師」の元締めであった。
本書では、目についた歩行者を捕まえてダンプカーに放り投げて多人数を積んだうえでシートをかけて大阪湾の大阪ガス工場に連れて行き、工場の仕事に従事させていたことが記載されている。
釜ヶ崎第一次暴動を受け、組長が自首する形で山田組は解散した。

1964年 東京オリンピックと新幹線

東海道新幹線の開通は、東京オリンピック開催のたった9日前であった。
この突貫工事には多くの日雇い労働者が従事し、事故による死者だけで210人、負傷者を含めれば1万人は超えるという。

なお、新幹線のルートは戦時中の「弾丸列車」という構想がもとになっている。
これは東京から韓国、満州を経由してベルリンまでを高速鉄道でつなぐという計画であった。

1970年開催 大阪万博の罪

大阪万博の準備期間になると、釜ヶ崎の土木・建設の賃金はハネ上がった。
朝に示された給与条件で現場へ行き、行った後で文句を言えば、建設が遅れると困るので給与が上乗せされる。
最終的には当初の4倍の賃金になることも珍しくなかったという。

ただし万博終了後やバブル崩壊後は、この逆で「朝はニコニコ、夕方はガミガミ」ということが行われた。
これは、日雇いのため昼過ぎまでは雇い主は優しく接して働かせるが、その後は暴言を吐いたり暴力を振るったりして、労働者が逃げ出すように仕組んだもの。
労働者が逃げ出せば、その日の賃金を払う必要がないために行われた。
月払いの場合は、25日頃まで優しく接し、その後に態度を豹変させる、といったことが行われていたという。

また、実は釜ヶ崎は独身男性ばかりが住んでいたわけではない。
家族持ちの日雇い労働者も多くいたという。

しかし大阪万博に向けた労働力不足のため、家族持ちの釜ヶ崎外への移住を促し、単身男性を受け入れる政策がとられた。
合わせて6畳のドヤを3畳にしたり、4階建てのドヤを外観そのままに7階建てにすることで、単身男性労働者をギュウギュウ詰めにしたのである。

問題は、そうして集めておきながら、大阪万博終了、さらにバブル崩壊後に失業者があふれても、何のケアもされなかったことにある。

1995年 阪神淡路大震災

解体・復興工事にも多くの日雇い労働者が従事した。
ここでは地元神戸の日雇い労働者と、釜ヶ崎の労働者の2つの状況が紹介されている。

神戸は、多重下請け構造のため、1日1万3000円と報道されていた賃金のうち、日雇い労働者の手に渡ったのは8000円程度だったという。
また、工事の際の怪我については雇い主が労働者を労働保険に加入させていなかったため、ほとんどが「交通事故」として処理された。
また「鉄パイプが脚に刺さった」といった怪我でも賃金を8000円程度上乗せされるだけで済まされることもあったという。
そのため解体・復興工事の労災の実態は全く不明である。

釜ヶ崎の日雇い労働者は、朝5時にはバスで出発し、戻ってくるのは23時を過ぎたという。
ただし神戸現地のような多重下請け・ピンハネはなく1日1万3500円だったと記載されている。
ただし上記のような労働時間では2日連続の労働は難しい。

災害と差別

現代でも命に係わる自然災害の際にホームレスを避難所に受け入れないという事例があるが、阪神淡路大震災でも同様のことがあった。

まず、避難所の人々は、相手が日雇い労働者やホームレスだと分かった上で「どこの町内会か」といった言い方で追い出す。
これは後に「家族カード」を持っている人のみ受け入れるいう形で仕組みとして日雇い労働者・ホームレスが避難所に入れないようになった。

そもそもホームレスは、避難所が作られた公園で寝泊まりしており、日雇い労働者が住んでいたドヤも地震で住める状態ではなく、完全に居場所を失っていた。
著者は「釜ヶ崎ならなんとかなる」と、できるだけ移動を進めたという。

さらに「釜ヶ崎の日雇い労働者が避難食を食べるために避難所に入り込んでいる」というデマまで流れた。
しかし、釜ヶ崎からの神戸復興の日雇い労働者は上述の通り、毎日朝5時のバスで釜ヶ崎を出発し23時過ぎに釜ヶ崎に戻る、という生活をしていたのである。

おわりに

以上が『無縁声声』に記載されている内容のごく一部である。
その中から歴史を概観した。

本書では別の切口として、著者が行っていた「労働運動」「港湾労働」などについても多く書かれている。

「教科書には絶対に載らない近現代日本労働史」として貴重な1冊である。

本書、あるいは釜ヶ崎をテーマにした他書籍を読むと、やはり大阪万博のために行政が単身男性労働者を釜ヶ崎集めておきながら、万博終了後およびバブル崩壊後に何のケアもされなかったことに大きな問題があると思う。

これらについては改めて別記事を作成する予定である。




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