ヨルシカの藍二乗という曲名について考えたこと

ヨルシカさんの、主に藍二乗という言葉について考察したことを書きます。憂一乗など他の楽曲への言及もあります。
『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』(初回盤)の内容に触れていて、ネタバレになっているのでご注意ください。
歌詞には「」を付けています。

藍の花言葉「美しい装い」「あなた次第」が、エイミーとエルマの物語に合っている気がします。
青は藍より出でて藍より青し、という、弟子が師匠を越えることのたとえがあります。
エイミーは藍(師匠)、エルマは青(弟子)なのかなと。

藍二乗=藍藍=アイアイ(猿) とすると、
エルマの詩を模倣している、猿真似している、とも思えます。

エイミー(曲)の「何かに待ち惚け、百日紅の花が咲く」は、待ち続けた人が百日紅になったという伝説を連想します。
藍二乗→アイアイ→お猿さん
「君が引かれてる0の下」→落ちる と思うと、
猿が滑り落ちる→サルスベリ(百日紅) と取れます。
エイミーは百日紅になったのかもしれません。
「君に茜差す日々」→百日に紅差す→百日紅 と思えますし。


青い光と黄色い光を混ぜると白になります。
六月は雨上がりの街を書くの「君が引かれてる0の下」が藍二乗(iの2乗)なのは、
黄味(きみ=君)が白(0)から引かれて青(藍)になった、と取れる気がしました。

『雨とカプチーノ』MVでも、
エイミーの青とエルマの黄味がせめぎ合ってる感じがします。
「灰色に白んだ」カプチーノの色は、青と黄が混ざった色、
僕(アイ、藍)と君(黄味、ユー)が混ざった色でもあるのかなと。

月の光は黄色っぽいので、藍に混ざって白(0)になる色、
夜の藍色に浮かぶ黄味(君)が月であり、エルマな気がしました。

憂一乗=黄味(君)の一条 で、
藍色に差し込んだ一条の光(月光)が、憂一乗なのかなとか。


Emerald Green(エメラルドグリーン=花緑青)からElma(エルマ)を引くと
Red Green が残ります。
三原色(RGB)はRed Green Blue なので、Blue=エルマ とすると、
藍二乗は、エルマ(藍)しか見えなくなったのかなと。
目を覆う涙(花緑青)の中に、もういないエルマ(-1のBlue)が見えるという。

花火の青色は、花緑青でも作るらしいです。
夕凪、某、花惑いの「この胸に散る花火」「花泳ぐ」は、花緑青で散ったエイミーの事でもあるのかなと。
雨晴るるの「この目を覆った淡い群青」=青い花火=花緑青 と思います。
夕凪、某、花惑いは「この歌の歌詞は380字」、雨晴るるは「藍の色だ」で藍二乗をオマージュしていますし。

「覆」には、ひっくり返す(くつがえす)の意味があるので、
「この目覆う藍二乗」はiの2乗を掛けると180度回転する(ひっくり返る)事を意識してる気がします。
「この目」が見る方向を、未来から過去(思い出)へ反転させたと。
だから僕は音楽を辞めた(アルバム)では、
曲名に日付のある曲が過去へ向かっていきますし(8/31→八月某→7/13→六月雨→五月花→5/6→4/10)。



『八月、某、月明かり』と『夕凪、某、花惑い』が対なので、
月と夕が対応してると取れます。
『藍二乗』と『憂一乗』も対なので、
−1(1を引くこと)と夕(ゆうと同音)も対と取れます。
胸の中心に一つ穴が空いて、
「月日」から「一」が引かれ「夕日」になったのかなと。
エイミーとの月日(思い出)が夕日になった、とも思えますし
エイミーを失った後のエルマの月日が夕日になった、ずっと明けない夜になった、とも取れます。

『夜紛い』で「月」(=エルマ)に一つ穴が開いて「夕」になったから、
夜の月だった夕=「夜紛いの夕暮れ」 なのかなと思いました。
紛い物の月が、夕であると。

「月日」からそれぞれ「一」を引くと 夕0=ゆうれい になります。
『夕凪、某、花惑い』では、想い出の僕ら(僕らの月日)が色褪せて、
夜しか見えぬ幽霊(夕0)になったのかなとか。

その後『ノーチラス』で、
「思い出」から未練の「心」がさよならし、
「思い出」から「一心」が引かれ「日の出」になった、
日の出(夜明け)がエルマに訪れたのかなと思いました。


雨とカプチーノMVの色は、
青=藍の空 赤=夕日 黄=月の色 と取れます。
三原色が雨に混ざって「灰色に白んだ」という。
アルバムの2曲目で藍と憂、3曲目で月と夕が対応していて、
ゆうは、夕(ゆう)=赤とも、君(you)=黄味きみとも思えます。

「君が溢れないように」は、黄味が溢れないように、
エイミーの見た月明かりが消えないように、って事かなと。

白夜(灰色に白む)=藍と夕と月が混ざる=僕(藍)と君(憂)が混ざる で、
エルマの日記の最後では、
エイミーの模倣を辞めた=僕と君が分かれた=白夜から抜け出した のかなと思いました。



藍二乗という曲名は君がいないことを表していると、インタビューで語られています。
君がいない状態が−1なら、君がいる状態は0に対応するのでしょう。

藍二乗の対になる曲は憂一乗で、
藍=I(僕)、憂=you(君) と思えます。

君=0 とおくと、
憂一乗は0を1つ掛けることになります。
どんな数も0を掛ければ0になり、その後どんな数を掛けても変わらず0のままなので、
0に染まる、つまり君一色に染まることを表してると思いました。

エルマ(君)と出会って、エイミーの人生はエルマ一色に染まったのかなと。
「エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ」という歌詞に合います。

エルマは、心に穴が空いたで藍二乗の歌詞「君だけが僕の音楽」を引用しています。
エルマの人生もまた、エイミー色に染まったのかもしれません。


虚数iを掛け続けると、複素平面上で0との距離を保ったまま、くるくる回り続けます。
それはi(僕)が0(君)との距離を保って、君に永遠に出会えないまま回り続けることにも思えますし、
月の公転にも思えます。
君のもとへ届くのはiの光、月光だけなのかもしれません。
ヨルシカの『月光』というモチーフにはそういう意味もあるのかな、と思いました。

エイミー(曲)の最初の歌詞では、数が1ずつ増えていきます。
0になって掛け算として行き詰まっても、1を足し算していけば良いんだよ、という、エルマからエイミーへの回答のように感じました。



藍二乗と憂一乗は、
あい=eye
ゆう=言う
とすると、目と口で対応します。
iの2乗= i i (泣いてる目の形)
uの1乗=U (口の形)
としても、目と口です。

藍は艹に監で、監には見るという意味があります。
艹(草冠)は夏草で、夏草が邪魔をして君が見えなくなったのかなとか。
草葉の陰(あの世)で見守ってるから藍(艹の陰に監) とも思えそうです。

藍二乗=eyeに錠 とすると、
「この目覆う藍二乗」は藍で目(eye)に錠が掛かった、目蓋を閉じたと思えます。
MVで顔が隠れてるのも、目を塞いでいると取れますし。

『詩書きとコーヒー』についてです。
「冷めた目で愛を語る」は、
eyeと愛でアイが二つ→藍二乗
語る(言う)で口が一つ→憂一乗
「冷めたコーヒーも相変わらず」も、
"アイ"スコーヒーと"相"でアイが二つ→藍二乗
コーヒーを飲む口が一つ→憂一乗
と取れます。
2番での同じ箇所に、
「冷めた目の中で君の詩を書いていた 僕のこの日々は君の為の人生だ」
とあります。
目(eye)や僕(I)が君(you)を目指していて、藍二乗や憂一乗との繋がりを感じました。



液という漢字には夜があるので、
「ただ夜を泳ぐように」は、涙という液のなかの夜を泳いでると思えます。

藍二乗は「視界の藍も滲んだまま」「この目覆う藍二乗」から、空の藍色が涙で滲んだと取れます。
涙が氾濫したとも言えそうです。
藍と濫は似ていて、濫には水が溢れるという意味があります。
藍二乗で目から涙が溢れ、憂一乗で口から言葉が溢れたと思うと、
『雨とカプチーノ』の「君が溢れないように」に繋がる気がしました。
灰色に白んだ言葉や心をカプチーノのように飲み込む、溢れないようにするという。

『声』に「泣くときに溢れる 黙ったって喉の奥にいる、神様の話」とあります。
エルマの日記帳「私にとっては今でも、貴方こそが神様に近い」から、神様=エイミーとすると、
『雨とカプチーノ』の「君が溢れないように」は、君(エイミー)が溢れないように涙や言葉を飲み込むと思えます。
『声』にも「この喉を通るさよなら呑み込んで」とありますし。

『歩く』の「頬を伝え花緑青」「言葉ばかりが口を伝う」も目(涙)と口(言葉)が対応しています。
目と口に君(エイミー)が入ってきて、
涙や言葉となって、また目と口から溢れるのかなと。
「何も見えずにただ君を見てる」→「頬を伝え花緑青」
「君の言葉を食べて動く僕の口」→「言葉ばかりが口を伝う」


雨とカプチーノ「君が溢れないように」は、
藍二乗「わざと零した」に対応してそうです(零すと溢す)。
「零した」はゼロの下
「溢」は氵に益で、益は損の対義語。
「君が引かれてる0の下」「忘れるだけ損」
損して零れた藍二乗とは逆に、得をした結果溢れてしまうのかなと。



『雨とカプチーノ』の「言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて」は、言い訳を部屋の中に置いておくと取れます。
瞳という窓の外には出さない、つまり涙を出さないってことかなと。
「灰色に白んだ言葉(心)」は灰色の雲、雨(涙)になりそうな言葉(心)かなと。

窓辺=瞳としたのは、
『五月は花緑青の窓辺から』に「例う涙は花緑青だ」とあり、
花緑青=涙
花緑青の窓辺=涙がある場所=瞳
と思えるからです。

花緑青=涙 とすると、
藍二乗「遠く仰いだ夜に花泳ぐ」は花緑青が泳ぐ、涙が流れると取れます。
続く「春と見紛うほどに」は、花粉症並みに涙が出たと。
「ノート、薄い夜隅に花泳ぐ」はインクとして花緑青を使った、あるいは涙でインクが滲んだのかなと。
藍二乗の「花泳ぐ」「夜を泳ぐように」が、
雨とカプチーノの「花に溺れ」「夜に溺れ」に対応してる気がしました。


エイミーは自分自身の目の中、涙の海に沈んでいったのかなと。
花緑青を呑む=エメラルドグリーンの海(涙)に呑まれる
「例う涙は花緑青だ」、エルマへの手紙に「涙というのはきっと毒に近い」とあります。
自家中毒のように自分(アイ=藍)に溺れていくから、藍二乗なのかもと思います。

花緑青(曲)の「さようなら 青々と息を呑んだ 例う涙は花緑青だ」は、
青々=藍藍=藍二乗 と取れます。
「人生の価値は、終わり方」
花緑青を呑む最期は、息を吞むほど美しかったのかなと。
「青々と」は、緑が生き生きしてる時に使うので、「花緑青」という単語に繋がります。
エイミーにとって生が一番輝くのは「さようなら」の時だったとか。



『八月、某、月明かり』は夜
『夕凪、某、花惑い』 は夕と思えるので、
藍二乗を夜色
憂一乗を夕色 とすると収まりが良いです。
夜は居ないはずの君と逢えて二人になるから藍二乗
夕方は君の幽霊が見えず一人だから憂一乗 という。
『夕凪、某、花惑い』に「想い出の僕ら、夜しか見えぬ幽霊みたいだ」とありますし。


『藍二乗』と『夕凪、某、花惑い』の関連を考えます。
藍二乗と夕凪某の日付は一日違いで、
夕凪某の「この歌の歌詞は380字」は藍二乗オマージュです。
夕凪某のタイトルの着想は東京の花火らしいので、花惑いの花は花火でしょう。
両方の歌詞に「花泳ぐ」とあり、藍二乗の「花」も花火と思えそうです。
藍二乗の「遠く仰いだ夜に花泳ぐ 春と見紛うほどに」は、春の花畑みたいに色鮮やかな花火だったのかなと。
「君は言葉になる」(夕凪某)は、「この人生さえほら、インクみたいだ」(藍二乗)を意識していそうです。

「花泳ぐ 春と見紛うほどに 君をただ見失うように」(藍二乗)
「花泳ぐ 夏を待つ     君は言葉になる   」(夕凪某)
という歌詞が対応しています。
エルマにとってのエイミーが夏
エイミーにとってのエルマが春だと思うと
盗作が夏、創作が春である、
盗作おじさんと妻に似てるなと思います。


『夕凪、某、花惑い』についてです。
難解なんかい何回なんかいは同音異義語です。
「この世は僕には難解だった」から何回も生まれ変わる気がしました。
数字や「足りない」という歌詞が多い曲ですし。


『憂一乗』と『八月、某、月明かり』の関連を考えます。
憂一乗は水中で月明かりのような日光を見た情景から出来た曲らしいので、月明かりを通して八月某に繋がります。
憂一乗「僕には何にもいらない」は八月某「何もいらない」を連想します。
バイトを逃げ出したエイミーに「何処でもいいからさ、逃げよう」と歌ったと取ると、優しいなと思いました。


『八月、某、月明かり』についてです。
「君の人生は月明かりだ 有りがちだなんて言わせるものか」は、有りがちではなく月並みと言わせたいのかなと(月明かりだけに)。
何者なのかも不明な『某』を照らし、固有の誰かにしてくれた月明かりだと思えます。
エルマの月明かりがエイミーを、有りがちじゃない、『某』じゃない人にしてくれたと。

「あの世ではロックンロールが流れてる」は、
ロックンロールみたいに転がって(Rollして)転生したと取れます。

ロック=6×9=54(ろっくごじゅうし) とすると、
27は54の半分、ロックのド真ん中と取れます。
27クラブや「人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った」は、ロックのド真ん中で果てたのかなと。

「藍の色」は虚数iの色、自転車みたいに回る複素平面の単位円の色、
巡る「君のいない夏」の色、
Rollする、あの世のロックンロールの色でもあると思いました。



『六月は雨上がりの街を書く』に「今の暮らしはiの2乗 君が引かれてる0の下」とあり、君がいなくなって下へ落ちたと思えます。
「雫一つ落ちる」という歌詞は、雫にエイミー自身を重ねているのかなと。
藍が二乗になったような暗い海へ落ちた先で、エイミーはエルマの月明かりを見たのかな、と想像しました。

藍二乗は、青空の青が濃くなって(藍に藍が重なって)夜空になったとも思えます。
君がいなくなって、夜の闇の中みたいに何も見えなくなったのかなと。


五月雨式とは、物事がだらだら続くという意味です。
六月は雨上がりの街を書くは、
「ずっと雨の街を書いている」五月雨のような暮らしの終わりを待っている気がします。
「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」が式で、五月雨式なのかなと。

エイミーの英語表記はAmyで、並び替えるとMay(五月)です。
五月は花緑青の窓辺からは「涙は花緑青」で、エイミーの目なのかなと。
六月は雨上がりの街を書くの「雨樋を伝う五月雨」は五月の涙、エイミーの涙と取れます。
Elma(エルマ)を並び替えるとMeal(食事)です。
「君の言葉を食べて動く」エルマは、エイミーを糧にしたのかなと。
五月雨の先、雨晴るる六月へ行く、
花緑青で散ったエイミーの続きへ行く、生きていくという風に感じました。

藍二乗→あいあい→相合傘 と連想できます。
憂一乗と雨晴るるで、憂さ晴らし。
憂さが晴れて傘がいらなくなる、エイミーの模倣を辞める(相合傘じゃなくなる)のかなと。
ノーチラスの「傘を出してやっと外に出てみようと」は結局出なかったけれど、「晴れたら外に出よう」で傘無しで出ると。


Amy(エイミー)の元になったフランス語の意味は愛
→藍(愛)二乗
Elma(エルマ)はトルコ語で林檎→林檎の花言葉の「優先」「誘惑」
→憂(優・誘)一乗 と思えます。
雨晴るるに「藍の色」「愛の色」とあり、
憂一乗はエルマが導かれるように(誘われるように)足が進んで、優しい夜の色のバルト海に飛び込んだ時の曲ですし。


六月は雨上がりの街を書く、雨晴るる、藍二乗の繋がりを考えます。

『六月は雨上がりの街を書く』『雨晴るる』には「今の暮らしはiの2乗」「藍の色だ」など、藍二乗への言及と取れる歌詞があります。
『雨晴るる』は『六月は雨上がりの街を書く』のアンサーソングなので、
『六月は雨上がりの街を書く』に倣って藍二乗の要素を入れたのかなと。

『雨晴るる』では雨の青さと晴天の青さ(夏の青さ)が重なっていて、
青が二重なのが藍二乗に似ています。

エイミーの藍二乗にエルマの想う藍二乗(雨晴るる)を重ねて藍四乗に、
つまり−1に−1を掛け算して、1にしたのかなと思いました。

四季の巡りを、虚数iを掛ける操作で表してる気がします。
iを4回掛けたら1に戻る事と「君のいない夏がまた来る」事が対応してるのかなと。

時計の文字盤や12ヶ月に、複素平面の単位円を対応させている気がします。
6時と6月を対応させてみます。
『六月は雨上がりの街を書く』の「君が引かれてる0の下」は、
6時が0時の下にあるように、
六月が、君のいた0月の下、満月の下に沈んでいるってことかなと。
ヨルシカのロゴマークの由来の一つが時計の6時だということも、関連付けて考えられそうです。



複素平面の単位円での一周を、一日や一年や一生に対応させて、
+1=昼、夏、生
−1=夜、冬、死 とも思えます。
(ノーチラスMV2分39秒に「この一年が僕の一生だ。」とあるので、一年を一生に対応させました。)
一周する事は一日が経つ事、四季が巡る事、生まれ変わる事であると。
−1は藍二乗で、i^4=i^0=1 は四季の巡り、
飛行(曲)は+1、落下(曲)は−1に対応します。

『六月は雨上がりの街を書く』の「君が引かれてる0の下」より、実軸を縦、虚軸を横としています。
雨上がりは梅雨明け、つまり夏だと思えば+1になり、「上がり」という語と単位円の上(+1)が対応します。
「俯いた」という歌詞は−1を見ること、花緑青(曲)の「あの夏がいつまでだって頭上にいた」などは+1を見ることかなと。

地球の裏側へ行くと、昼夜と季節が反転します。
複素平面で−1を掛けると原点から見て裏側へ行くので、藍二乗は浅い正午(+1)から藍色の深夜(-1)へ行ったのかなと。
眠って目覚める事は、昨日の自分をリセットするとも思え、小さな生まれ変わりと思える気がしました。
『夜明けと蛍』に「地球の裏側へ飛びたいのだ」「藍の色 夜明けと蛍」とあります。
藍色に染まる空は、一般には夜明けや日没後すぐの事を言うみたいです。
藍を1つ掛けるとi(夜明けや日没後すぐ)になり、更に藍を重ねる(藍二乗)と-1(深夜)になるのかなと。

地球上を真っ直ぐ進むと、一周して元の場所に戻ります。
ヨルシカのキャラも、人生を真っ直ぐ進んでいたら元の場所(この世)に生まれ変わったのかなと。
生まれ変わりがテーマの負け犬が『夏、バス停、君を待つ』で終わるのは、 バス停=ばすてい=バースデイ(誕生日)
生まれ変わって(四季を巡り一年経って)バス停(誕生日)で再会するのかなと。

ヨルシカのロゴマークが時計の6時の形なことに合います。
時計の数字と複素平面の単位円は、n時とi^(n/3)で対応させられるので。

月が向かい合ってるロゴマークでもあるので、水面に月が映ったと思うと、単位円とした場合の虚軸が水面だと取れます。
エイミーは水面より下(−1)に沈みました。
憂一乗もUを半円と思えば単位円の半分(−1)と思えて、だから「湖の底にいるみたいだ」なのかなと。

ロゴマークは目の形でもあるので、瞳を単位円と同一視すると、藍二乗(−1)は瞳の一番下、瞳に溜まる涙だと思えます。あいはeye(アイ)と思えますし。

ロゴマークが円形なのは、CDが円の形である事に掛けてるのかなと。
輪廻を巡っても音楽をする事は、CDという円の中で何度でも音楽を鳴らす事に似ているなと。



藍二乗は、君がいない(引かれてる)ことを0の下、i^2=-1 で表現しています。
憂=U とすると、Uは0を半分にした形です。
君(you=U)と2人、Uが2つで0だったけれど、
君が居なくなって、Uが1つだけになったから U^1(憂一乗)かなと。

i^2=-1(藍二乗)を1に掛けると、複素平面の単位円上で、半円の軌道(∩の形)を描きます。
U(憂)は、図形として藍二乗(∩の形)の対になってます。
藍二乗と憂一乗、∩と∪が合わさって0の形の軌道を描き、
元いた場所、1に戻るのかなと。
『六月は雨上がりの街を書く』の「君が引かれてる0の下」は、0という軌道の一番下の地点にいるって事かなと。

藍二乗→-1へ沈む
き→き→浮上 とも取れます。
都落ちの「水に落ち流れやがて憂き」で、憂きと浮きを掛けていますし。

和歌で藍は愛の掛詞、憂きは浮きの掛詞に使われるらしいです。
染めるほどに濃くなる藍の色(深まる愛)からいつかは目が覚め、 憂き世(浮き世)に戻るのかなと。
恋(愛)に落ちるとも、恋に浮かれるとも言うのが面白いです。

藍二乗を月光が幽かに照らす海底、冥界(あの世)みたいなもの、
憂一乗を憂き世(浮き世)、この世だと思うと対になります。

0を満月の形とすると、「君が引かれてる0の下」は、君のいない月光の下なのかなとか。
0という形を、循環、輪廻転生になぞられている気がします。
エイミーとエルマは、互いを求め、輪廻を巡り続けるのかもしれません。

月光DVD冒頭の「欠けてしまった何かを探している」を、掛けてしまった何かとすると、掛けたi^2(藍二乗)を探してると取れます。
i^2=「君が引かれてる0の下」 で、
i^2を無事見つけもう1度掛けるとi^4=+1、つまり君の元へ戻れると。


ノーチラスでは、海に沈んでそこから浮上するのを眠り(死や別れ)からの目覚めに喩えています。
ノーチラスはオウムガイの事で、オウムガイには渦巻きがあります。
渦巻きが回りながら遠くへ行くように、
眠りと目覚め、生まれ変わりのサイクルは、時計のように回りながら少しずつ変化していくのかなと思いました。


「ノート、薄い夜隅に花泳ぐ」の夜隅という造語は、四隅よすみに掛けてると思います。
ノートの余白の隅で余隅よすみとも取れそうです。
「君が涼む ただ夜を泳ぐように」は余白を泳ぐ、
「想像力という名前の海」を泳ぐのかなと。
「夜しかもう眠れずに」は、余白という可能性に夢を見てる気がします。


春ひさぎ →春楸
夏ひいらぎ→夏柊
秋つばき →秋椿
冬えのき →冬榎
 夏
春木秋
 冬
上の図は、『451』をmod 5(5で割った余り)の掛け算の循環に見立てた、
 1
253
 4
と同型になります。
{1,i,-1,-i}の乗法群とも同型なので、 i=愛 とすると、
「愛を待ち惚け」して季節が(陽炎のように)巡っていく事
愛という炎で燃やしていく事(『451』の歌詞)
iを掛け算して複素数平面の単位円上をくるくる回る事
が対応すると思いました。

アルバム8曲目『五月は花緑青の窓辺から』『歩く』に「夏が終わる」「夏の終わり」とあり、
8曲目『冬眠』の「夏が去っていつか終わりが見えるころに」に繋がりそうです。

夏の終わり→夏終→夏糸冬
 夏
春糸秋
 冬
「あの夏がいつまでだって頭上にいた」とあるので、夏が上になる図にしました。
君と「糸」で繋がっているから、季節や輪廻を巡っていけるのかなと。

夏=昼=+1
冬=夜=-1(=i^2) とすると、
「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」
「夜しかもう眠れずに」=冬眠
ノーチラスでの眠りが海底に沈むこと(-1へ行くこと)であること
ヨルシカのロゴマークが時計の6時の形で、夜を表してること
に関連付けられます。

夏終の「糸」は451の「意図」に通じるので、
 1
253
 4
に関連付けられます。
451の「胸の窓を開けて」は、意図(糸)を見せて、円の中心にあるものを見せて、という意味に取れると思いました。



藍二乗は、ああ無情と語呂が似ています。
無情=0乗 とすると、
ああ0乗
あい2乗 となって、
あう4乗 と続きそうです。
逢う4乗とし、i^4=1 で元の場所に戻る
あるいは四季を巡って再び夏になったと取れて、
エルマとエイミーは再び出逢えたのかもと思いました。

藍二乗の「変わらない風景 浅い正午」は、0時、つまり君がいた0の場所かなと思います。
エルマにとって無謬の色がエイミーへの憧憬だった(雨晴るる)ように、
エイミーにとってエルマが無謬の色だから、変わらない風景なのかなと想像しました。



藍二乗「わざと零した夢で描いた今」は、
「零した」=ゼロした=マイナス1(藍二乗) でもあると思いました。
「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」と一致します。

だぼ辞め初回版の手紙では、「零」の令が「今」に似た表記です。
雨の下の今(零の下部分)で暮らしてるのかなと。

「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」≒ゼロの下(今)で暮らす
雨の下が今なら、
雨の上(雨上がり)には過去(想い出)や未来がありそうです。
「想い出の中でしか見えない 六月の雨上がりの中で」とありますし。
時計の針がヨルシカのロゴみたいに6時(あるいは6月)で、過去や未来が12時にある、
6にいる短針が、12を指す長針を見上げてるのかなと。

「遠く仰いだ空、君が涼む」とあるので、
雨の下で、雲の上の晴るにいる君を仰ぐと思えて『晴る』を連想しました。



ただ=無料タダ とすると、
藍二乗の「ただ、ただ君だけを描け」は、無料で君を描け、つまり見返りを求めないと取れます。
「何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかった」のかなと。

「遠く仰いだ空、君が涼む ただ夜を泳ぐように」は、
月涼し(夏の季語)を意識してるのかなと。
エイミーはエルマ(君)の詩に月明かりを見ましたし。
『月夜』というインクで描いた君が、夏の夜に涼んでいると。


藍二乗はインクの藍色でもあるので、
「わざと零した」は、
零下こぼした=0の下=i^2(藍二乗) で、零した藍色のインクかなと。
藍色=夜の色 と思うと、
「わざと零した夢で描いた今に寝そべった」は、
「夜しかもう眠れずに」
藍色のインク(月夜)で描いた時間の中で眠るのかなと。

「零した」や「君が引かれてる0の下」は、
0時の下で6時、ヨルシカのロゴマーク「6時から夜」にも繋がります。

「寝そべったままで時効を待っている」と続きます。
ノーチラスの「時計が鳴ったからやっと眼を覚ました」が時効で、
夢から覚める(夢を諦める)時=音楽を辞める時 を待ってる気がしました。
藍二乗は夜と朝の6時、夢の始まりと終わりが二重になってると取れます。

エイミーの目は「深い夜の色をしている」
ノーチラス「夜が明けたらもう目を覚まして」は、
目(藍)を開けることと、
夜(藍)が明けることが二重写しになってるのかなと。
ノーチラスは最初だけ「眼」でそれ以降は「目」です。
眼を覚ました後の「この目覆う藍二乗」から覚めるまでの曲に聴こえます。



「浅い正午 高架下、藍二乗、寝転ぶまま」
藍二乗は引くマイナスと取れて、加えるの逆。
「高架下」は、高く加える木の下と書きます。
木の低くに引かれたもの、木陰が藍二乗でもあるのかなと。
木陰は小さな夜で寝転べるけど、「浅い正午」だから熟睡はできない(夜しか眠れない)。
エルマ(曲)「浅い夏の隙間に寝そべったまま~夜の深さも知らないままで」に繋がります。


うたた寝は転寝うたたねとも書きます。
「寝転ぶまま~空っぽな自分を今日も歌っていた」は歌た寝(うたた寝)なのかなと。
浅い眠りの中で歌う、夢の中で歌うと。
「夢で描いた今に寝そべったままで時効を待っている」
時効になって夢が終わる、歌た寝(音楽)を辞めるのかなと思いました。



「人生は妥協の連続」は、
人生は今の連続なので 妥協だきょう駄今日だきょう と思えます。
「売れないなら全部が無駄だ」とあり、
無駄な今日、駄今日の連続だったと。

エイミーは「売れることこそがどうでもよかった」が「昔はそうだった」になって、音楽(人生)を辞めます。
駄今日(売れない人生)でありたかったのかなと。


エルマの日記に「エイミーは無駄という言葉が好きだった」とあります。
藍二乗「所詮売れないなら全部が無駄だ」は、
無駄(損)を愛せなくなった、愛が藍二乗(損=マイナス)に思えてしまって音楽を辞めたのかなと。
「売れることこそがどうでもよかったんだ~昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた」に繋がります。

エルマの日記の中でエイミーは「愛すべき無駄」「往年のジャズナンバーも、ロックンロールも、その譜面にはない無駄から生まれてきた」と言うので、
無駄を愛せなくなったから音楽を辞めるのは、理屈が通ってると感じます。


『だから僕は音楽を辞めた』(曲)についてです。
「あんたのせいだ」=あんたの生だ とすると、
エイミーはエルマ(あんた)に一生を捧げたのかなと。
『詩書きとコーヒー』に「僕のこの日々は君の為の人生だ」とありますし。

あんたの正だ とすると、エイミーがエルマの詩に見た無謬の光(間違えない正しい光)とも思え、エイミーにとってエルマが正の数(+1)だった、とも取れます。

素直に取ると、「あんたのせいだ」=あんたの所為だ です。
エルマに生を捧げる事は、
エルマの所為にする事と、表裏一体なのかなと思いました。


藍二乗MV「白紙の人生に拍手の音が一つ鳴っている」で万年筆と紙が映るので、白紙の人生=詞や曲を書く余白 と取れます。
だぼ辞めMVの紙飛行機は、エイミーが白紙の人生(音楽)を折って飛ばした、捨てた(辞めた)って事かなと。
紙飛行機の直前に万年筆と紙が映りますし。

白い紙の左右に手を置く=手白手=拍手 と連想できます。 
藍二乗MV「空っぽな自分を今日も歌っていた」では、白紙の左右に空っぽの手があります。
拍手の音=白紙に曲を書く時の音=空っぽな自分の歌 かなと思いました。

拍手する音や手の動きは、鳥の羽ばたきに似てると思います。
だぼ辞めMVの白い鳥は、音楽(人生)の終わりへの拍手でもあるのかなと。




『憂一乗』について考えたことです。
一乗=一条の光(闇に差し込む希望の光)
とすると、憂一乗は海底に差し込んだ月明かりと思えます。
ゆうゆう とすると、幽霊のエイミーが見せた、幽かな光なのかなとか。

ゆうう とすると、「呼吸の一つが喉に絡んだ」から、
言う(息)の一つ=憂一乗 とも取れます。

数は一乗しても変わらないので、
一乗とは、あってないようなもの、透明と思えます。
「水圧で透明だ」に掛かってる気がしました。
「言葉って薄情だ」も、言う薄情→ゆう薄情→憂一乗 と連想できます。

優しさをくれた人(エイミー)が居なくなって、「優」から「人」が消え、
「憂」だけ残ったのかもしれません。


憂=U とするとき、
Uという形は、瞼が落ちそうになってる目の形にも見えます。
「湖の底にいるみたいだ」は、眠りに落ちているイメージでもあるようです。(エルマ特設サイトのノーチラスについてのインタビューより)
藍二乗の目が涙で覆われ二重になった視界という意味の、対になってる気がしました。

憂一乗の歌詞「睡蓮」は、睡眠に掛けてる気がします。
睡蓮という語の由来は、
蓮に似た花が朝開き、夕方には花弁をたたんで水中に眠る事らしいので。

一乗=一錠 とすると、憂鬱だから一錠の睡眠薬を飲んだと思えます。
逃避としての睡眠で「逃げよう」という。
眠りが深くなる=水底へ沈んでいく と思うと、
「水圧で透明だ」は、眠りで意識が薄れていく(透明になっていく)描写かなと。
「柔らかな泥の感触」は泥酔と取れますし。



『憂一乗』はユートピアを連想しました。
ユートピアのユーは否定でトピアは場所、何処にもない場所、理想郷の意味です。
理想を求めるエイミーへの「何処でもいいからさ、逃げよう」は、理想郷じゃない何処かでも良い、と取れます。
エルマの日記に「ただ一緒にいてくれたら、それだけで良かった」とあります。
you(エイミー)の居る場所でさえあれば、エルマにとってはユートピアだったのかなと。

ユートピアのユーが否定なら、ユーを二つ重ねると否定の否定で肯定になります。
憂→U→半円→複素数平面の単位円の半分→マイナス1 と思うと、藍二乗と同じ値です。
憂二乗=プラス1(二人合わせてプラスになる) と、
ユーにユーを重ねて肯定になる事が対応すると思いました。

エイミーの「優しい夜のような深さがある」瞳は、憂いを帯びた藍色の目だと思いました。
憂い→憂鬱→ブルー で、藍色(濃い青色)に混ざると夜の闇ぐらい暗くなるのかなと。

藍二乗を鬱蒼と取ると、憂一乗と合わせて「憂鬱」になります。



藍二乗「白紙の人生に」
憂一乗「人生は透明だ」
は対になっています。
「空っぽな自分を今日も歌っていた」に対しての「蜃気楼よりも確かならそれでいいよ」、たとえ白紙でも紙はそこにあるよって意味に聴こえました。


藍二乗はマイナスと思えます。
「この目覆う藍二乗」は、
この目を負う藍二乗 君のいない喪失感(傷)を目に負う事、盲目的になる事でもありそうです。
憂一乗「目的とかいいから」は、盲目的を肯定してる気がしました。
「君を追っているだけで」
≒君を負っているだけで
「見惚れてしまっただけで」は目を奪われた、盲目的になったと取れます。

藍色の目
憂いを帯びた目 で、藍二乗と憂一乗は対になります。
i^2を複素数平面の単位円の半回転と思うと、
U(憂)という半円と合わせて一回転で、目(eye=i)が回る。
目が回ることと、駆け巡る走馬灯を掛けている気がしました。




「視界の藍も滲んだまま」は涙で滲んだと取れます。
六月(曲)の「深い雨の匂いだって忘れるだけ損」は、
雨(涙)を忘れると損(マイナス=藍二乗)
今の暮らしが「君が引かれてる0の下」であっても、
忘れたら本当のマイナスになってしまう気がしたのかなと。

パレードの「忘れないように 君のいない今の温度を」は、零下(藍二乗)を忘れないと取れます。
涙が「乾かないような想い出」、涙を忘れずに、君のいない「一人ぼっちのパレード」を続けているように思いました。
涙やインクが零下(氷点下)で凍って保存され、忘れない(乾かない)ようになるのかなと。



憂一乗は、「こんな自分ならいらない」で自分が消え、You(憂)だけ残ったのかなと。
エイミーを模倣する内に、自分(エルマ)がいなくなるという。
藍二乗は「君が引かれてる0の下」でI(僕)だけ残ったと取れます。
「視界の藍も滲んだまま」で、自分一人しかいないのに二重になって、僕を君と見紛うから藍二乗とか。

憂一乗「水圧で透明だ」は、 水圧(外部からの圧力)に押しつぶされて自分が無くなることを、透明人間に喩えてるのかなと。
エイミーを模倣する内に自分が透明になる、幽(ゆう=憂)になりYou(エイミー)が一つ残るという。

水のように透明な集団の圧力(水圧)に押され、個を失い透明な集団と同化する。固体から液体になる。
内側からは透明でも、外から見れば湖のように色があり、偏っている。
「このまま何処でもいいからさ、逃げよう」は、
 個のまま何処でもいいからさ、逃げよう って意味にも聴こえました。



憂一乗「水圧で透明だ」は、少量の水は透明ですが、湖や海、水圧が分かる量だと青色(藍色)に見えることを連想しました。
水の色は「蜃気楼よりも確か」で、「幸せの色は準透明」に対して「それでいいよ」って言ってるのかなと。
目の中には涙の海があって、藍色や準透明、エメラルドグリーン(花緑青)色になるのだと思いました。


雨晴るるは、雨と晴が縷々(るる)続く、雨と晴れを繰り返し続ける事と取れそうです。
「君のいない夏がまた来る」、季節を繰り返すように天気も繰り返すと。
『晴る』でも晴れと春、天気と季節を対応させていますし。


雨晴るるは「やっと雨が降ったんだ」で始まり一番サビは「藍の色」
「雨が上がった」後のラスサビは「愛の色」
雨(涙)の滲んだ藍色が乾き、愛の色に戻ったのかなと。
藍二乗「視界の藍も滲んだまま」は、愛が涙で滲み藍色になっていたとか。

藍二乗の「藍」は「愛」と同音のアイで、
憂一乗の「憂」と「愛」は下部分が同じ。
「愛」の上部分は「妥」と同じです。(「人生は妥協の連続」と歌詞にある)
愛を妥協して、藍や憂になってしまったのかなと思いました。


詩書きとコーヒーの、
「冷めた目で愛を語る」は愛が藍色になったのかなと。
冷めた目=零下れいかのeye=0の下のアイ(藍二乗)
雨晴るる「もっと書きたい ずっと冷めない愛の歌を」は、零下(君が引かれてる0の下)にならない歌、君(の痕跡)が世界から引かれずに残るような歌に思えました。

ノーチラスの「目を覚まして。見て。寝ぼけまなこの君を忘れたって覚えているから」は、
愛から冷めて(夢から覚めて)いいと別れを肯定してるように聴こえました。
忘れたようでも、何かはちゃんと残るという。
生まれ変わった先でまた会おう、という意味にも聴こえますが。



「月愛三昧」という言葉があり、月の光があらゆるものにやさしく降りそそぐように、あらゆる人びとにそそがれるブッダの慈悲の事らしいです。
憂一乗は水底から見た月明かりの情景の曲なので、
憂一乗×藍二乗=月愛三昧 なのかなと思いました。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。