【連載小説】『陽炎の彫刻』3‐2

「助手席、来ませんか。」
 梶川君が言った。僕は驚いた。僕も車を運転する人間だが、初対面の人間を助手席に乗せることに何となく抵抗を覚えないものだろうか、と瞬間考えた。
「いいんですか?」
「後ろの席からの景色も飽きたんじゃないかと思いまして。」
 佐々木さんの家に着くまで、窓外を所在なさげに眺めていたことに気付かれてしまったかもしれない、と気まずい気持ちも多少あった。しかし、どうせなら眺める景色を変えるのも退屈しのぎになるのではないかという彼の気遣いがユニークに感じた。
「じゃあ、助手席に失礼してもいいですか。」
「どうぞ。」
 僕は、梶川君の隣に移動した。僕がシートベルトを着けた音を認めると、彼は車を進めた。車は大通りに出た。そこで梶川君が僕に話しかけた。
「僕のこと、そっちの部署の人から聞いていますか?」
 僕はこの質問に戸惑った。それまで彼のことを知らなかったからだ。そして、彼がどうやら僕のことを知っているらしい口振りだったからでもある。なんとなく、今のこの状況が不均衡な気がした。運転席の彼を見ると、形の整った彼の横顔があった。表情は一切崩れていなかった。
「前から松谷さんのことは聞いていたんです。僕と同い年の人が転職してきたって、なんとなく噂に聞いていたんです。」
 なるほど、僕はさっきまでの彼の口振りや排除的な感じのない態度に合点がいった。僕が事前に彼のことを聞いていたように、彼の方でも僕の話を聞いていたようだ。
「そういうことでしたか。いや、僕も同じ部署の方から聞いていたんです。まさか、梶川さんだったとは…」
 そんな話をしながら、所々で梶川君に道案内をした。車は東京都心郊外の道を進んでいく。Elbow Bones & The RacketeersのA Night in New Yorkがラジオから聞こえてくる。華やかなホーン隊のイントロが聞こえてくる。この車にも場所にも似つかわしくない華やかさだ。この似合わなさのために、却って曲が浮いているような気がした。
「このあたりは、ニューヨークには程遠いね。」
 あたりを見ながら、少し苦笑いして僕は言った。
「リムジンでもないしね。」
 梶川君は、鼻で笑いながら自分の車のことを言った。
 梶川君が途中でコンビニに寄っていいかと訊いたので、僕は了解した。コンビニに着いて、梶川君は何かを買いに中へ、僕は煙草を吸いに外のベンチに座った。昼よりは涼しいが、夜霧が薄く立ちこめていて、少し空気が湿っているように感じる。煙草も少し湿気ていて、味がぼやけている。数十メートル先の街灯が、夜霧が立ちこめる空中にはっきりとした光の輪郭を描いていた。
 梶川君が店から出てきた。僕のところに来ながらレジ袋の中を漁って何かを取り出そうとしている。彼はレジ袋から缶コーヒーを2本取り出して一本を僕に渡した。彼は僕の座っているベンチに座った。3人掛けのベンチの両端に僕と彼が座る恰好になった。ブックエンドみたいに。そこからどんな会話を交わしたか、いまいちよく覚えていないが、彼からコーヒーを受け取ることを遠慮しなかったのは覚えている。
 僕と梶川君が初めて出会った夜は、そんな風だった。それから、僕たちは二人で会うようになった。間に佐々木さんが入ることもあっが、そのうち僕と梶川君だけで会うことの方が多くなっていった。そんな僕たちを見て佐々木さんは「結構じゃないか。20歳超えて出来る友達は貴重だぞ。」とよく言っていた。本当にそうかもしれない。
 僕と梶川君を繋げたのは佐々木さんだ。だが、一体何が僕と梶川君を繋ぎとめていたのかは分からない。友人関係のはじまりはよく覚えていても、その継続の要因は意外に見えないものだ。もっと付き合いが長くなれば、どこでどうやって知り合ったのかも忘れてしまうのだろう。
 そこから2年後の秋、梶川君は退社することになる。彼は元々、大学院に進学を志望していて、僕の会社に勤めていたのも、経済的事情から働いて学費を稼ぐためだったのだ。大学院の入試まで、退社した時点では1年の猶予があった。入試の勉強のため、早めに会社を辞めたのだ。大学院の入試には、外国語の試験もあり、専門的な学術用語なども頻出する。そのため、大学受験のようにはいかない部分も多々あるらしい。
 梶川君の部署は、彼の送別会を開いた。僕は部署が違ったため、その会には参加しなかった。その代わりと言ってはなんだが、僕は個人的に梶川君の送別会を開いたのだ。
 その時の店が、僕たちが今こうしてコーヒーを飲んでいる、このファミリーレストランというわけである。梶川君が退社しても、何となく僕たちの関係は続いていた。こうして食事をしたり、さっきのようにお互いの家に行き来したりするのだ。たまに深夜までどちらかの部屋で映画を観たりもする。まるで大学生だ。本当に、何が僕と梶川君を繋ぎとめているのだろう。
 時刻は8時半を過ぎた頃だった。ファミリーレストランにしては長居しすぎたかもしれない。僕たちはコーヒーを飲み終えて、会計を済ました。
 エアコンの効いた店から出ると、夏の暑さが膜みたいに肌にまとわりついてきた。

ー続ー

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