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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第7話『青ちゃん“青木眞一”の村八分/前編 “ど素人バンド構想”』

取材・文◎カスヤトシアキ
話/ケンゴ(ミュージシャン)
話・資料/山口冨士夫(ミュージシャン)
資料/青木ミホ


『江戸時代の日本堤は、最先端のイベント通りであった』


 青ちゃんは生まれも育ちも『日本提』である。

 住所でいうと東京都台東区ということになる。
 
 この辺りは隅田川にほど近く、江戸時代に入るまでは沼沢地が広がっていた。当時の隅田川(かつての荒川)は氾濫することが多く、水害から浅草地域を守るために『日本提』が造られたのだ。

 つまり『日本堤』とは、隅田川の氾濫から浅草の町を守るために造られた堤防のことなのだ。現在の三ノ輪から言問橋付近にかけて、約1.8キロにわたって続く土手であった。

 この土手を造るために左右の土地を掘って土を盛り上げるので、当然の如く土手に沿って堀が出来上がる。これを『山谷堀』と呼んだ。この『山谷堀』を造ったことで、一帯の水はけが良くなり、この一帯が「浅草田んぼ」と呼ばれる田園地帯に生まれ変わったのだとか。これが『山谷』地域の原風景である。

 『日本提』の誕生から約40年後、日本橋にあった『吉原遊郭』が、土手沿いに移転してきた。このとき、四方を塀で囲まれていた吉原遊郭の唯一の出入り口“大門”は『日本提』側にあり、遊びに行く江戸っ子は必ず土手の上を往来せねばならなかった。“大門”は『日本提』の真ん中辺りに位置するため、「通いなれたる土手八丁(※900メートル弱/全長1.8キロの半分という意味)」などと吉原通いを自慢するやからまで現れたという。

1広重作/土手にある茶屋は約100軒。大門がある土手の真ん中あたりは(門が見えないように)大きくカーブしていたという。

 吉原の来訪者は、妓楼(ぎろう)で遊ぶ客だけではなかったという。約100軒を超える茶屋では、昼から夜までイベントや商談が行われ、俳諧(“はいかい”江戸時代に栄えた日本文学の形式)や狂歌(“きょうか”社会風刺や皮肉、を盛り込んだ短歌)などに興じる風流人の集いも多く、季節ごとの催しも大人気だった。幕末には毎日5000人超が集まったというから、『日本提』は江戸最先端のイベント・エリアだったのである。

この風景は広重による創作。冬の日本堤の夕景である。日本提を、西に向かって描いている。空には半月が浮かび上がり、それを横切る雁(ガン)の編隊が美しい。土手上の道の両脇には、よしず張りの茶屋が立ち並び、客があふれかえっている。


『青ちゃん(青木眞一)と日本堤の土手道を行く』


 
 その『日本提の土手』の入り口、三ノ輪で青ちゃんと待ち合わせた。
 
 15年くらい前になるだろうか。久し振りに会おうということになったのだ。その時はお互いが『TEARDROPS』以来の再会だった。当時の僕は50歳を超えた頃で、すっかりいい親父になっていたのだが、それよりもさらに5つ年上の青ちゃんがどう変わっているのか、少しソワソワしたのを覚えている。三ノ輪駅の階段を上がり、明治通りと昭和通りが交差する大関横丁交差点に出ると、青ちゃんは道の向こう側から手を振っていた。

 ブルージーンズにカジュアルなパーカーを着た青ちゃんを見て、“な〜んも変わってないな”と思い、随分とホッとしたのを覚えている。

「よく来たな、こっちの方にはよく来る?」

 と言いながら、青ちゃんはチャーミングに笑った。“ああ、この笑顔だ”と一気に時間が逆戻りするのを感じていた。正直言って、三ノ輪に来るのは人生で二度目だった。はるか昔、高校生の頃、当時付き合っていた彼女に連れられて『モンド』という店で、大塚まさじ(※1)を観て以来だったのである。だから首を横に振った。

ザ・ディラン

※高校生のころ、『プカプカ』を聴きながら煙草をふかすと愉しい気分になれた。(本編とは関係ないが…)

 それなら「この辺をちょっと歩いてみねぇか」

 ということになり、『日本提の土手』を散策することにした。(と言っても、もう土手ではないのだが…)

「あっちに行くと山谷があるんだよ」

 と青ちゃんが左手を指差す。突然に興味が湧いた。山谷といえば、僕らの世代にとっては『あしたのジョー』である。かつて夢中になって読んだ漫画の世界が脳裏に渦巻いた。

(高音質) あしたのジョー (フルバージョン)

※『あしたのジョー』の連載が始まったのは1968年。日本はまさに高度成長期だった。孤児院育ちで何もない不良少年、矢吹ジョーが、拳一つで山谷から世界チャンピオンへと成り上がっていく様は、戦後のボロボロになった日本が世界相手に成長していく姿と重なり大ヒットした。また、当時の日本は学生運動の真只中であった。ジョーの持つ反骨精神は体制と戦う若者たちにとって、大いなる共感を呼んだのである。1970年に起きた『よど号ハイジャック事件』では、『赤軍派』のハイジャック犯リーダーの田宮が事件直前に執筆した『出発宣言』に、「最後に確認しよう。われわれは“明日のジョー”である」と結ぶほどであった。

【あしたのジョー】山谷のドヤ街で聖地巡礼 あしたのジョーの舞台 / Holy place of Tomorrow's Joe(Ashita no Joe) / San'ya Tokyo【聖地巡礼】


 その“山谷に行ってみたい”という希望は“また今度な”と、青ちゃんにあっさりとスルーされた。面倒だったのだろう。現在は海外からの旅行者も多く訪れているので、治安的に改善されたが、このころはまだ(それなりにだが)油断できない地域だったのである。

山谷ブルース


「あんなもんができるんだよ、俺は認めたくねぇけどな」

 青ちゃんが指し示す方向に『スカイツリー』の造りかけが見えた。(この当時はまだ下の部分しかできていなかった)建物と建物の谷間、道のはるか向こうで、まだ下の部分だけが映っていた。

ビルとビルの合間に小さなスカイツリーが顔を覗かせていた。

 そう言う青ちゃんの横顔を見て、ちょいと小粋な江戸の遊び人が、土手道を吉原に向かい行く姿を想像(妄想)した。「通いなれたる土手八丁」とは言わなかっただろうが、青ちゃんのことだから、妓楼(ぎろう)には入らずに行きつけの茶屋で“狂歌”なんぞをひねるのだろう。そこらにいる女でもはべらせて宵越しのひとときに興じるのだ。

 そう想ったらなんだか笑えてきた。青ちゃんが日本堤に生まれ育ったのも偶然ではない気がしてきたのだ。生家が『吉原大門』に隣接しているのも象徴的なのである。


吉原遊廓大門

 さて、そんな江戸っ子・青木眞一の数奇なる人生を、遊び心を持って土手から眺めてみたいと思う。

 かつての土手通りは、日本堤と音無川の流路の両方があったという。つまり、土手が2本あったのだ。(ゆえに日本堤は二本堤ともいう)同じように青ちゃんの人生も2本の道に分かれることになる。アートの道を目指すも、音楽に流れていった日々。そして、生来のきっぷの良さから、大好きだった音楽をキッパリと断ち切って生きた後半の人生。その風景にはいったい何が映っていたのだろうか?

 じっくりと、眺めてみようと思うのである。
 

『青ちゃんは生粋の江戸っ子である』


青木眞一/プロフィール
1951年1月5日生まれ。東京都出身。1970年、セツ・モードセミナー在学中に『村八分』初代ベーシストとして音楽活動を始める。1976年『スピード』でギタリストに転身し、1980年、伊藤耕たちと共に『ザ・フールズ』を結成。1983年からは山口冨士夫と行動を共にし、『タンブリングス』→『ティアドロップス』で活動するが、1987年、冨士夫の活動停止と共に、ジョージと『ウィスキーズ』を結成し、限定的ながらも印象的な活動をした。その後、1991年まで『ティアドロップス』で音楽活動をするが、バンドの休止と共に自身の音楽活動も終了した。最後のステージは2008年11月8日の山口冨士夫クロコダイル・ライヴでの飛び入りであった。2014年、12月18日、63歳でこの世を去った。

◉1969年に高校を卒業した青ちゃんは、新宿区舟町にあった美術学校『※1セツ・モード・セミナー』に入学した。デッサンを基本とするアート・スクールである。仲の良い同級生(同窓生)には、ケンゴ(『スピード』Vo)、石丸しのぶ(イラストレーター/画家)、ジニー・ムラサキ(小林コッペ/ミュージシャン・アーティスト)などがいた。創設者の長沢 節(ながさわ せつ)は日本のファッション・イラストレーターの草分けである。ケンゴによれば、ジニー・ムラサキ(コッペ)が冨士夫(山口冨士夫)をセツのキャンパスに連れてきたようだ。その時から冨士夫はキャンパスの常連になる。そこから青ちゃんと繋がり、『村八分』物語が始まっていくのである。

※1『セツモード・セミナー』
 セツ・モードセミナーは、東京都新宿区舟町にあった美術学校。創設者は長沢節。1954年開校。2017年4月23日に惜しまれながらも閉校した。イラストレーター、広告、出版界、ジャーナリズム、ファッション界、美術界、実業界に多数のクリエーターを輩出し続けた。当初は長沢節が主宰し、その後、長沢節の甥が校長を務めた。青ちゃんは長沢節お気に入りのモデルでもあった。『タンブリングス』の頃まで、長沢節先生のモデルのアルバイトをしていたと記憶している。

長沢節先生が描いた青ちゃんのクロッキー(サインが入っている)


 1543夜 『弱いから、好き。』 長沢節 − 松岡正剛の千夜千冊より


ケンゴ談/『セツモード・セミナーから“スピード”のころ』

※『2015/09/27 sun 新宿でのインタビュー』より

ケンゴ/(スピード)プロフィール
鈴木研五/1949年生まれ。三重県出身。セツ・モードセミナー在学中に青木眞一と知り合い、1976年、青木を誘う形で『スピード』の活動を始める。『スピード』は『ストゥージズ』等に影響を受けたサウンドを持ち、パンクムーブメント最初期のバンドの一つであった。当時の中央線界隈で活動していたバンド、『ミラーズ』、『ミスター・カイト』とともにジャンプロッカーズと題したシリーズ・ギグを開催し、その活動は1978年から始まる東京ロッカーズのムーブメントにつながった。しかし、その後の東京ロッカーズの一連の活動には同調しなかった。当時の記録映画『ロッカーズ』において、「ボーイズ・アイ・ラブ・ユー」の全曲演奏シーンと主要メンバーのインタビューが収められている。

ケンゴ 談/「青木とか、石丸(石丸しのぶ)とか、冨士夫(山口冨士夫)とか、みんな『セツ・モード・セミナー』で知り合ったの。小林コッペ(ジニー・ムラサキ)もいたなぁ……。当時の俺たちって酒を飲まなかったのよ。まぁ、飲めなかったんだよな。俺なんか飲みはじめたのは30歳くらいだから。それが今じゃアル中なんだから、全くイヤになるよ(笑)。
 
 当時の写真があるよ。俺と青木とジョンっていう奴とセツにいた奴が何人か、全部で5人かな? “渋谷でたむろする若者”ってイメージで新聞に載ったんだよ。青木はアフロみたいなヘアースタイルでね、ガリバー(※2)が撮ったんだ。ガリバーっていうのは、当時のヒッピーのカリスマみたいな奴でね、面白い奴だった。その写真が、毎日新聞だったかな、正月版の全面に載っちゃってさ、俺なんか、田舎に帰ったら大変だったよ。大騒ぎでさ!(笑)これからの若者って感じで載ったからね。俺の田舎?田舎はね、三重県の牛の松坂ってあるでしょ?それのもっと南に下ったところ」


毎日新聞1970年元日版/5人の若者が並んで写っている。真ん中のアフロ・ヘアーが青ちゃんだ。その横にケンゴとジョンという人がいる。バックは渋谷/西武。当時、渋谷西武には『やまもと寛斎』らのサイケデリックな服をそろえたアヴァンギャルド・コーナー『カプセル』があった。余談だが、このショットの撮影者/ガリバーは『藻の月』の花音(Dr)の祖父の親友である。花音の祖父も当時は同じシーンにいたのだとか。その後すぐに上海に渡り(建築家であった)、長い間海外生活をしていたのだが、現在は帰国して日本で暮らしているので、折りがあればそのうちにどこかでお話を伺いたいと思っている。

※2『ガリバー』
シュウゾウ・アヅチ・ガリバー(Shuzo Azuchi Gulliver)コンセプチャル・アーティスト。 1947年滋賀県生まれ。 本名/安土修三 。立命館大学文学部西洋哲学科中退。

シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」


シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「プロフィール」


◉ この年・1969年は国際反戦デー闘争が激化した年でもあった。前年の通称『新宿騒乱』を機に施行された政府による締め付け(騒乱罪)に対抗する手段として、反戦運動諸団体は新宿区を中心に『フォーク・ゲリラ』と称するベトナム戦争に反対する集会を各地で開いていた。

International(歌)/1969年新宿西口地下広場

※「インターナショナル」は、社会主義・共産主義を代表する曲である。ソビエト連邦では十月革命(1917年)から第二次世界大戦(1944年)まで国歌になっていたほか、日本でも労働歌として歌われていた。

ケンゴ 談/「そのうち冨士夫(山口冨士夫)がしょっちゅうセツに来るようになった。連れて来たのはコッペ(ジニー・ムラサキ)。その冨士夫との最初の出会いは、『※ダイナマイツ』の解散の時だったな。新宿の歌舞伎町にあった『サンダーバード』。そこに青木なんかと見に行った覚えがある。客はあまりいなかったと記憶しているよ(笑)。もっとも、ワンステージじゃないから客数はわからないけどね。」

トンネル天国(シングル・ヴァージョン)


ケンゴ 談/「セツの裏手に『ユニプロ(※3)』っていうプロダクションっていうか、事務所があってさ、俺とか青木とか、冨士夫もよくそこに顔を出していた。ラリーズ(裸のラリーズ)の水谷とかもいたなぁ……。よくたむろしていたよ。その事務所は京都の木村英輝(※4)なんかともつながっていて、今でいうイベント屋だな、企画をしたりしていた。当時はストーンズを呼ぶとか言って(富士オデッセイ)、息巻いていたよ」

雑誌『ニュー・ミュージック・マガジン』 1970年8月号/Vol.2・ユニプロが企画していた「富士オデッセイ」が特集されている。

◉1970年/8月15日から8月22日まで、静岡県の伊豆富士見ランドで「富士オデッセイ」という“ロックフェスティバル”が企画されていた。ローリング・ストーンズやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ボブ・ディラン、ピンク・フロイド、ドアーズなど、名だたるロックミュージシャンが出演予定者として名を連ねていたのだ。ケンゴのいう通り、企画立案は『ユニプロ』を中心に行われていたらしいのだが、直前になって中止になってしまった。原因は大手広告代理店の撤退や行政の認可が降りなかったことなどが挙げられているが、明確にはわかっていない。冨士夫は「フジオ・デッセイなんだからお前のイベントなんだよ」って主催者に言われていたのだとか。ただの駄洒落だが、本人は意外にも本気にしていたらしい。

※3『ユニプロ』
ユニット・プロダクション/企画事務所。主宰者は『宮井陸郎』でアングラの映画作家であった。他にスペース・プロデューサーでもあったし、サブ・カルチャーの旗手でもあった。

※4『木村英輝』
大阪府泉大津市出身の画家。元音楽プロデューサー。大学卒業後、ロック音楽プロデューサーとなる(村八分・Too Much 等)。1970年代後半から1980年代は、広告やポスターのデザインも含めたコンセプチュアルデザイナーとして活躍する。60歳から画家になることを宣言した。

 

ケンゴ 談/「ある時、アメリカから帰国したてのチャー坊(後の『村八分』Vo.)が、俺たちのシーンに現れた。それで、風月堂(※5)あたりでみんなしてタムロっていたのは憶えているよ。同じ頃、冨士夫が音のド素人ばかりを集めて、何かをやろうとしていたのも知っている。そのうち、青木が言い始めたんだ、「ケンゴ、俺、バンドをやりに京都に行ってくるよ」ってさ。楽器も弾けないのにどうやるんだろう?って想ったりもしたけれど、個人の自由だからね、快く応援したよ」

※5新宿『風月堂』/1946年から1973年まで営業した名曲喫茶の先駆け。横山五郎が、家業の潤沢な資金とクラシックレコードのコレクションを売りとして開業(戦時中はクラシックを聴くことが禁止されていた)。若き才能が数多く集った。1960年代後半の全共闘運動時代には反戦運動の活動家や学生が出入りするようになり、公安警察が監視していた。ベトナムに平和を!市民連合活動家の拠点ともなり、ベトナム戦争従軍米兵の脱走兵を保護していたことも度々あった。さらにフーテンも出入りするようになり、かつての芸術喫茶は大きく変貌を余儀なくされ、常連の客足も遠退き、1973年8月31日、戦後の新宿文化を象徴した名曲喫茶「風月堂」は閉店し、27年間の歴史に幕を閉じた。


【アングラの歴史を辿る】新宿ぶらり旅【60年代カウンターカルチャー】

15 - フーテン族 - 1967&1968

※新宿の東口駅前ロータリーはグリーンハウスと呼ばれ、フーテンが寝泊まりしていた。西口は全学連が占拠している。新宿駅はこの極端な若者カルチャーに振り回されていた。

ポツンと一軒宿 新宿に超高層ビル 東京ヘリ撮50年(1970年)【映像記録 news archive】


ケンゴ 談/
「俺のバンドはさ、最初は石丸(しのぶ)と始めたんだ。とにかく石丸はバンドをしたくてしょ〜がない、って感じだったな。だけど、自己中心的なのでリズムがとれなくなっちゃうんだ。全く周りが見えなくなっちゃうタイプ。それでも『やろ〜よ、やろ〜よ』ってうるさく言うからさ、仕方なく付き合って遊んでいたって感じだった。あいつがまともにギターを弾けたら、冨士夫のいいパートナーになっただろうに。そのくらい二人は仲が良かったんだから。石丸は冨士夫とベッタリよ。とにかくいつも二人は一緒にいた」

石丸しのぶのイラストによる『フラワー・トラベリン・バンド/SATORI』のレコード・ジャケット。フラワー・トラベリン・バンド(Flower Travellin' Band)は、1970年にデビューした日本のロックバンド。同年に開かれた大阪万国博覧会の出演中に、カナダのロックバンド『ライトハウス』に見出されカナダへ渡る。地元でライブ活動を重ね評価を上げた彼らは、アメリカのアトランティック・レコードと契約し、4月にアルバム『SATORI』をアメリカとカナダで発売(日本はワーナー・パイオニアから)した。余談だが、有名になった“ジョー山中”と何となく似ていることにより、たびたび間違えられ、「ジョー山中さんですか?」と訊かれるハメになった山口冨士夫は、「いいえ、ジャー山口です」と答えていたという。

Flower Travellin' Band - Satori Part II


ケンゴ 談/「そのうち、青木が京都から東京に戻って来た。京都ではいろいろあったんだろうね。なんだか意気消沈していたよ。でも、何も言わないんだ。だから敢えてこちらからも聞かなかった。

 それで、俺が住んでいる高円寺に青木を呼んだんだ。気晴らしに遊びに来させたんだけれど、そうしたら気に入ったんだろうな、奴も高円寺に引っ越して来た。それからは毎日来るんだよ、俺ん家に。必ず電話してから来るんだけどね、“今から行っていい?”って(笑)。どうせ毎日来るんだから、しなくてもいいのに、わざわざ電話してから来るんだ。そういうところあるんだよな、奴は。それでいて、来てから何をするでもないんだ。それなのに、とにかく、ず〜っといる。まぁ、メシを喰わしてさ、手内職なんかも手伝わせたかな !?」

◉その高円寺が再開発されようとしている。『高円寺再開発計画』とは、東京都が戦後以降に作成した都市計画道路の一つで、高円寺南口の大通り(高南通り)をそのまま北へと延ばし、純情商店街と庚申通り商店街を壊して、早稲田通りまで繋げるというもの。その北口大通り計画をさらに早稲田通りより北側(中野区の大和町)まで延ばすため、大和町中央通り商店街の古くからあった店舗は、現在、立ち退きでほぼ消滅しつつある。

高円寺商店街再開発反対デモ

※再開発はナンセンスである。ここぞとばかりに本領を発揮する、高円寺最強のサイケデリック・トリップバンド@『ねたのよい』。

ケンゴ 談/「青木と一緒に『スピード』を演るのはその後だね。俺たちは『東京ロッカーズ』に入っていたかのようにいわれているけど、実は俺、『東京ロッカーズ』は大嫌いだった!(笑)。その時のスタジオ・ライヴがネットに上がっているって? そんなこともあったなって感じだよ。4〜5年やったかな、『スピード』は。最初のステージは福生の『UZU』。その為にスタジオのリハに入ってさ。青木は大枚叩いてギターを買っていたよ。ファイヤーバード、それが気に入ってさ、即行で買ったんだけど、どういうわけかチューニングが狂うのよ。だから、ステージではチューニングのしっぱなし。終いにはギターが悪いのか、青木がおかしいのかわかんなくなっちゃってさ(笑)。でも、奴のギターはなんか面白いのよ。決して上手かないんだけどね。同じコードとリズムを弾かせても、『ん !?  何か違うぞ!』ってところがあるんだよね。独特なんだ。あの下手さ加減は誰にも真似できない(笑)。俺にとっちゃ、それが何ともいい感じなんだよな」

♥️ SPEED 1979 六本木 Sケンスタジオ ROCKERS(Movie) 東京ROCKERS Boys I love you (Vo. ケンゴ G. 青木真一 G. 川田良 B. ヴァニラ Dr. ボーイ)

 

ケンゴ 談/「よく、高円寺にあった賀句 (鳥井賀句)の店 (ブラックプール)でタムロっていたよ。奴が『スピード』のマネージャーだったこともあったからさ。そこに良(川田良)や、コウ(伊藤耕)も寄って来たんだ。それが、良が『スピード』に入るきっかけになったり、青木が『フールズ』を作る導火線になったんじゃないのかな !?

 青木は、いつもなんにも言わないから解らないんだ。とにかく寡黙なんだよ。だから悩んでいても解らない。『スピード』の頃もなんか悩んでいたな。そう、確かに悩んでいた。そんなのが、今更ながら、ぼやっと思い浮かぶんだ。それはきっとバンドのことだったんだろうけど、はっきりとは解らなかった。そのうち、青木が抜けちまったら、俺たちのバンドは『スピード』じゃなくなっちまった。……そんな気がするんだよね」

Give Me "Chance" THE FOOLS from 2CD

 

『青木眞一“ど素人バンド構想”のベーシストとして参加する』


◉経緯は定かではないが、ケンゴが言っていた、冨士夫の “ど素人バンドつくり”に乗っかった格好で青ちゃんは京都に渡ることになる。この辺りのストーリーは『山口冨士夫著/村八分』(K&Bパブリッシャーズ版)から読み取ることができる。

冨士夫「ある日、セツモードの若いイカした奴らだけで開いているパーティがあって、そこに俺が呼ばれてさ、青ちゃんと懇意になった。(中略)その青ちゃんを最初にバンドに誘ったのは俺だよ。当然だよ。だって、ロックバンドやろうぜっていうのは、一番カッコいいし、(青ちゃんは)ブリティッシュ系のムードとか、俺と同じようなものが大好きだった。

 青ちゃんが俺ん家に初めて遊びにきた時は、紀伊國屋の帰りだったかな。紀伊國屋の二階がテラスみたいになっていて、何かあったんだよ。四、五人で会おうぜみたいな。みんなで待ち合わせていた中に青ちゃんがいたんだ。Gパンをピンク色に染めてエナメルの黒いジャケットを着ていた。めちゃくちゃおしゃれだった。俺も都心にいる時はオシャレじゃないと面白くないから、おしゃれをしていて、オシャレ同士で口をきくようになったのが最初。だから“阿佐ヶ谷のオケラハウスに来いよ”って誘った。こたつの足が一本ない部屋。そこでいろんな音楽を聴きながら、とにかく一緒に一晩過ごしたんだ。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより)


◉その時は石丸しのぶやコッペ(ジニー・ムラサキ)もいたという。この4人の仲間たちは、ここからずーっと長く付き合い続けるのだから、実に人生を紐解くのは面白い。バンドに入ったのは青ちゃんだけだったが、息をしているシーンは他の二人にも近いものがあったのかも知れない。

 青ちゃんと冨士夫が京都に最初に行った時は、『ユニプロ』の宮井さんの紹介で京都のキーヤン(木村英輝)を訪ねる格好だった。その頃の話を『blog[小野一雄のルーツ]改訂版』の中の、木村英輝さんの文章から読み解くことができる。

木村英輝「(前略)宮井さんの相棒に、面倒見のいい五味ちゃんという姉御がいた。金のない若者たちに、今でいうアルバイターの手配をしてあげたり、寝床を提供したりもした。そんなこともあってか、五味ちゃんの周りには、いろんな若者があつまってきた。(中略)そんな若者のなかに村八分結成の要の一人になる青木君もいた。五味ちゃんから京都の私に電話があった。『青木君の知り合いのダイナマイツというGSの山口フジオ君がキーヤンとこ、訪ねるけど、よろしくたのみます』。当時、GSが終焉を迎えようとしていたが、ゴールデン・カップスやモップスとならんで実力派といわれたダイナマイツはかろうじて活動していた。私の家を訪ねてきたフジオ君は、ダイナマイツをやめたという。実に礼儀正しい爽やかな青年だった。変に突っ張ったり、かっこつけたりする連中とちがうオーラがあった。芸能界で苦労してきたのだ、物腰のやわらかい、俗にいわれる好青年というのがフジオ君に対する第一印象だった。GSをやめて京都に行こうと考えたのは、京都に、自分が捜している何かに出会えるかもしれないという予感があったからかもしれない。(後略)」(blog[小野一雄のルーツ]改訂版より)


◉その頃の京都は世界中からヒッピーが集まっていたという。ゲーリー・スナイダー(20世紀のアメリカを代表する自然詩人)もその一人で、冨士夫や青ちゃんは彼に会いたがったのだが、残念ながら彼はすでに京都を後にしていたところだった。その代わり、“フリーゲート(誰もが出入り自由なコミュニティ機能を持った部屋)”や京都のコネクションを紹介されている。そして、いったん東京に戻ったのである。

京都に滞在していた頃のゲーリー・スナイダー

ゲーリー・スナイダー

太平洋をつなぐ詩の夕べ – EDGE – ART DOCUMENTARY


◉青ちゃんが冨士夫と共に東京と京都を行ったり来たりしている頃、チャー坊がアメリカから帰国して、共通の知り合いを通して冨士夫を訪ねて来た。冨士夫にとってこの出会いは、あらゆる意味で運命的なものとなる。そのからみつく運命の糸の輪に、冨士夫は青ちゃんを結びつけたのだ。

冨士夫「青ちゃんは俺が(バンドに)引っ張り込んだんだ。俺より二つ年下で、まぁ、まだちょっとガキだったかな。ギターは弾けなかったけど、俺は友達と一緒にやった方がいいんじゃないかと思っていた。

 村八分の成り立ちは、俺が青ちゃんを(京都に)連れて行ったとこからだよ。その時に(チャー坊と)3人でバンドやろうって決めたんだ。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより)

◉(意外にも、と言ったら失礼だが…)チャー坊は、高校バスケットの名選手だったという。元気で明るい体育会系の少年。しかし、同時に詩や絵にも興味をもった、多彩なる横顔があった。

 チャー坊が18歳の時、ステファニィというアメリカ女性と出会い、アメリカに渡った。オルタモントでミック・ジャガーを見て、60万人の反体制による自然賛歌を体感し、ギンギンの若者たちと共にLSDを体験した。それら全ての感覚と覚醒を持ち帰って、冨士夫と出会い、青ちゃんを斜めにからめていく。全ての物事はそこから始まるのである。

 未知なる時空の中で、 “あっ!”から、始まるのだ。

あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』

 

(第7話『青ちゃん“青木眞一”の村八分/前編 “ど素人バンド構想”』終わり▶︎第8話に続く)

 

『L I V E I N F O R M A T I O N』 

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●9/17sun 立川 /A.A.カンパニー

出演/藻の月・mirei・燈

Random/ monotsuki/ UFOclub/2023/07/08

大地の根っこからいただく豊かさ ひとつひとつが 枝となり葉となり実をつける 愛を育てるように 花が咲く そして散り また命が産まれる 大地に地球に 想い願い祈り愛を込めて… ーーーーーーーーーーーーーーーー mirei second album release記念LIVE 「アイノネ」 @飯能市民会館小ホール 1/29(日)

Posted by mirei on Tuesday, November 22, 2016


OPEN:18:00/START : 19:00

CHARGE : 2,500円+1d

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●9/23sat 国立/地球屋

出演/藻の月・フーテン族

フーテン族 ねえだっこして Live

OPEN 19:00/START 19:30
CHARGE ¥1,500+1d


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●2023年9月21日(木)/荻窪 TOP BEAT CLUB
■山口冨士夫TRIBUTE BAND "FRIEND OF MINE"


○吉田 博Ba/Vo (ex.THE DYNAMITES) 
○延原 達治Gu/Vo (THE PRIVATES)
○P-chan Gu (ブルースビンボーズ) 
○ナオミDr(ナオミ&チャイナタウンズ)
○芝井 直実 Sax
■花田裕之(ROCK'N'ROLL GYPSIES)
■DELTA ECHO (延原 達治&手塚 稔 / THE PRIVATES)
OPEN18:30 / START19:00
ADV 4000+1d / DOOR4500+1d

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【山口冨士夫 / 渋谷屋根裏 1983(2CD)】


9/13out💽/没後10年を迎えた山口冨士夫の誕生日である8/10、本日解禁⚡️83年の完全未発表ライブ、初音源化/幻の未発表曲「雨だから」を収録した2枚組CD!
<初回限定特典付/予約> 

 

●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール
1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。


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