縄文人

日本人はどこから来たのか その3

前回までの記事では

・20000年前、スンダランドから海路でたどり着いた人々(A系統)
・30000~20000年前、北方から陸路で入ってきた人々(B系統)

がいた。彼らは勢力が弱く、広がりに欠けた。

・13000年前、モンゴル経由の陸路で到達した人々(C系統)

がいた。彼らは南方系の特徴を持ち、「縄文人」の祖となった。

・10000年前、スンダランドから海路で到達した人々(D系統)

がいた。彼らは7300年前の鬼界カルデラ破局噴火で九州から駆逐された。

という点まで触れました。

それから5000年の時が流れた2300年前、九州に到達した集団がいました。

戦乱を逃れて大陸を脱出した人々です。彼らをE系統と定義します。

E系統は中国南部から渡来した人々だと考えられています。

考えてみれば、この頃既に日本列島は「島」になっていたはずです。

ということは、日本列島に到達するには海を渡るしかないのですが、当時の技術で海を渡るのはまさに命懸けでした。

例えば、かの「遣唐使」は、4隻の船を用意(四つの船、と言われました)し、船団を組んで中国に向かいました。しかし途中で遭難、行方不明、あらぬ場所に漂着など数知れず…。多くの人が海の藻屑になっています。

上の写真は、Wikipediaから引用した、復元された遣唐使船です。長さ30m、幅が7mほどあるそうですから、当時の技術からすると「巨船」です。

しかし、15回派遣された遣唐使船が全て無事に戻ったのは何と1回だけ…。

実際、遣唐使に任命されたにも関らず拒否した人もいるようです。まだ死にたくなかったんですね…。かの菅原道真公も、自分が遣唐使に任命されたとたん廃止論を唱え始めた、なんていう話もあります。行きたくなかった…?

話を戻します。そんな危険な航海にE系統の人々が乗り出したのは、彼らがそれでも「行かざるを得ない」状況に追い込まれていたと考えられます。

中国では紀元前3世紀に「秦」が成立しています。つまり、2300年前の中国大陸は激しい戦乱の渦中にありました。その戦乱から逃れた人々が多数、九州に到達したと考えられています。

E系統の人々は中国南部の出身で、水稲耕作(水田で行う稲作)の技術がありました。彼らは到達した九州で稲作を行い、集落を形成していきます。いわゆる弥生集落の出現です。

そしてもうひとつ。彼らは北方適応(寒冷な気候に適応)した人々、つまり「新モンゴロイド」と呼ばれる人々なのです。

北方適応する以前の人々は「旧モンゴロイド」と呼ばれ、両者は明確に区別されています。

寒冷な気候に適応…という話になると、前回の記事に書いた

グロージャー、アレン、ベルクマンの3つの法則により、比較的長身で、彫りの浅い人々が新モンゴロイドの特徴、という点は説明できそうです。

そして、E系統の人々が、「弥生人」の祖になった人々です。

そして、ここから先なのですが…。

ひょっとすると、「弥生人」は文明度の劣る「縄文人」を駆逐し、日本列島を支配した、という認識をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

日本史で、ヤマト政権と蝦夷の戦いについて学びますので、その辺りもそのような認識が広がる一因なのかな?と思っています。

ところが、遺伝的に見ると、その認識には大いに疑問が出てきます。

実は、A~D系統の人々(旧モンゴロイド)に対して、E系統(新モンゴロイド)は繁殖力が強く、かつ生産力の高い水稲耕作の技術を持っていたために、大陸(東南アジアや中国)では、旧モンゴロイドは駆逐され、周縁部に追いやられてしまいました。しかし、日本では様子が異なったようです。

実は、縄文人の遺伝子は、「D」と言われるグループです。そして弥生人は「O」と言われるグループです。

大陸では、D遺伝子は非常に少数派なのですが、何と日本ではD遺伝子は40%近く残っているのです。北海道(アイヌ)や沖縄ではD遺伝子が50%を超えているというデータもあります。

これが何を意味するか…

それは、日本では、弥生人が縄文人を駆逐したのではなく、長い時間をかけて両者が混血していった、ということです。

遺伝的な観点からのお話はこれくらいになるのですが、実はまだ少し続きがあります。1400年前に日本列島に到達した、朝鮮系の集団です。

彼らは遺伝的には「O」に属するのですが、文化的にちょっと触れたい部分があるので、このシリーズの締めとしてその集団について書きたいと思っています。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

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