「この気持ちもいつか忘れる」#2

このタイトルを見かける度に思うけど、住野よるはやっぱり天才だ。このタイトルがもう優れもの(なぜ上から目線)

やっぱりこの歌詞を思い出す

さすが空きっ腹に酒といった感じの歌詞だ
前回も書いたが、これと似たようなことを昔の私は思っていたので、最近この歌詞に出会って悦に入っている。

そう、それでこの本だが自分が結末はまだ受け入れるに足る精神年齢ではなかったものの、「人生には突風が1度あって、そのあとはやり過ごすだけ」みたいな文にはとても共感した

自分語りになるが、私は中学受験が今までのピークだったので。やっぱり折に触れてどうしても思い出して懐かしみたくなるのがこの時期なのだ。最近はあまり過去に固執しないようにしようとしているけれど、昨日も献血の時に止血のために腕を上げた時、サピの授業で止血の時は腕を上げるように教わったシーンを思い出してしまった。懐かしかった。先生がみんなにうでを上げるように促して、みんな興味深げに手を挙げていた。面白かった。思い出して、少し泣きそうになった。もうあの頃には戻れないからだ。泣いて浄化したい時というのがあるが、そういう時はあの頃を思い出せば良い。それくらい泣ける。あの頃を思うと、どうしても悲しくなる。例え今が楽しかったとしても涙が無意識にこみ上げてくるだろう。間違いない、あれが私の青春だったのだ。誰がなんと言おうと。たとえ多くの人が中学受験を可哀想だと言おうと。例え多くの人がサピを学畜養成所と言おうとも。私は楽しかったのだ。あの時がいちばん楽しかったのだ。だから中学受験を批判する意見や、「中学受験は楽しくなかった」と主張する意見を見ると、かなしくなる。とんだ被害妄想だ。別に私を批判した意見ではない。だけれど、自分のことを批判されたかのようにかなしくなるのだ。もちろん中高が全く楽しかった訳でもない。中高ももちろん楽しくはあった。でもそんなのは仮初にすぎなかった。不幸中の幸いみたいな歓びしか無かった。中高の私は全く勉強を楽しめなくなっていたし、ただ時間をやり過ごすだけだった。そういえば同じような人を、Twitterで見つけた。同じように、中学受験が楽しい思い出で、勉強が楽しかった最後の思い出で、同じように女子校で、同じように過去の自分に縋って、高いプライドと目標を捨てきれず、実力に伴わない志望校を掲げていた人が。運命かなにかかと思った。間違いなくドッペルゲンガーだと思った。Twitterをやっていて本当に良かったと思った。絶対にいつかエンカしようと思った。でも、その人は浪人して、上昇志向で、高い目標を捨てないほどには腐ってなくて、意識は私より高くて、「入学時には余裕で入れたところに入らずに志望校落として入学して我慢できるの?」なんて耳の痛いことを言うから、その人は全く悪くないけど私には耐えられなくてブロ解してしまった。その人は嫌いじゃなかったのに。

でも別に良いのだ。過去に固執していても良いことはない。受験直前に気づいたけど、過去の栄光にすがっていても、過去の自分より劣っている自分が赦せなくなるばかりで、身の丈に合わないことをするのに時間を費やすばかりで、良くない。だから私はやめた。例の人とは別垢では繋がってるし、いつか会えればと思う。ううん、絶対に会おうね。いつか私のコンプが解消される日まで。

私には耐えがたかったのだ、その人は私がやる気を持ち合わせていた場合の世界線を呈していて、パラレルワールドの私にしか見えなかった。朝井リョウの「どうしても生きてる」に非常に私の気持ちによく似た文がある。

自分より優れた人間の前では自分の矮小さが言わずとも明かされる気がして耐えられないのだ。まあそれだけだ。

Twitterは過去の傷を癒してくれた。過去の傷とか被害者ぶってるけど勿論自分の過失だ。同じような、進学校落ちこぼれが沢山いた。浪人界隈もそれで好きだった。自分みたいな、過去の栄光のせいで実力に伴わない目標を下げられずにいた人たちが。勉強に興味を失ってしまってる自分に愕然としてる人達が。たまに「浪人界隈高みの見物してんの?笑」と聞かれることがあるが、全く違う。むしろ分かりすぎて見ていた。同じ人たちがいるということを確認するだけでもこんなに癒されるのかと驚いた。中学受験落ちこぼれやなんやかんや。ちなみに私のTwitterでの目標は御三家落ちこぼれをコンプリートすることだ。(なにそれ)

もちろん浪人界隈がとてつもなく面白いからフォローしているというのが一番の理由だけど。この面白さは少しサピに似ていた。みんな優秀でかつ、面白くて。さっきの「入学時余裕だった学校に入れないの我慢できるの?」発言じゃないけど入学時の成績は面談でわざわざ揶揄されるくらいには優秀だったはずだから、あの成績のままなら東大理IIIとかでかつてのサピ仲間と再会して、またあの面白い会話を聞けたのかと思うと悔やまれる所はあるが、最終的に私は浪人しない道を選んだ。なぜなら勉強という苦痛に更に1年間も耐える程の胆力は私にはもう無かったからである。早く勉強から解放されたくて仕方なかった。受験後の体験記の質問に「あなたにとって勉強とは」とかいうプロフェッショナルをパクったみたいな質問があったけど、急いでいた私は反射的に「苦痛」という言葉を思い浮かべた。もちろんそんなことを書く訳にはいかないので「生きていくための手段」という殺伐としたことを書いたが、正しいと思う。私は勉強以外はできなくて、いやでも何か才能があるということだけでも感謝すべきなのだけれど、親の学歴を見れば分かるように遺伝でしかなくて、そんな自分に無力感を覚える。あー、自分は大したことないやつなんだなあ、と。所詮親の経済力と環境に依拠してきただけの空っぽ人間なんだなあと。本来はこんな恵まれた環境に居られることなど稀だから感謝して、やりたくてもできない人の分も頑張るべきなのかもしれないけれど、私にはもう気力がない。サピに、中学受験の塾に、やる気をまるごと置いてきてしまった。昔は勉強好きだったのになー。今は以下みたいな感じだ。

そして多分こんなものを⤵︎ ︎後生大事に取っておくくらい固執してる人間は自分くらいだろう。あの頃、同じようにサピの上位層にいたけれど、今は…という人がいるのならば、ぜひ会ってみたい。


私は幸い、予想外にも非公認課題サークル学部と言われるくらい勉強熱心な学部に入れたし、上手く行けば海外の企業にも勤められるくらいすごいとこらしいし、ちょっと前までは「メイクしなくても済むようにしたいし、海外住みたいから海外企業行く!!」なんて言ってたけど、弊学部の評価欄で低評価してた先輩のように大したことない企業入って、ギリギリ普通の生活を送るのかもしれない。その可能性の方が高い気がする。だいたい学校が売りにしてることって、一部の上澄み上位層だけが勝ち取っていくものだから。学校説明会なんてアテになんない。多くの学生は学校説明会で説明されているようなこととは無縁なまま、6年間を無為に過ごしていくのだと知った。普通の企業に入って(わんちゃん就職浪人しそうなまである)普通の生活で、金欠金欠と努力もせずに喚いて、たまにあの頃を懐かしんで終わっていくのだろう。私はもう「昔は良かった」とつぶやくご高齢の方々を罵る気にはなれない。そんなものだ、きっと。海外企業なんて努力に努力を重ねないと行けない。海外が年功序列日本より競走厳しくないなんて訳ないし。はやく人生消化したい。

もう親を殺したニートの気持ちも分かるようになってしまったし、通りすがりに憂さ晴らしでぶつかる人も責められない。みんな疲れてるんだ。はやくしにたい。

この話の主人公も、チカとの再会を心の片隅で願いながら人生をこなしていた。私ももう戻らない中学受験を懐かしみながら気づいたらしんでいるのだろう。なるべくは親の死後にしにたい。唯一しんだら心の底から悲しんでくれる親がしんだら生きている意味などもう無いだろう。生きる意味は作るものだとかもう聞き飽きたが、そんなものを作り出す気力ももう無い。やる気は出すものだとか、やる気は行動してから出てくるものだとか散々聞いたが、もうどうでもいいのだ。ただ朝起きて飯が食えて、ドラマが見れて、推しが見れて、寝れれば、それでいいのだ。そうやって誤魔化して、親が死ぬまでの時間を食い潰そう。暇つぶしは人一倍得意だ。人助けとか高尚な気持ちはもう湧いてこない。どこかのスレッドでも見かけて安心したが「自分の身体だけ生きるやる気のある人に預けてしにたい」。アフリカの子供たちにでも身体を預けたい。臓器移植詳しくないけど死ぬ時は体を誰かに預けられたらと思う。1番努力がいらない社会貢献だ。それと同じノリで最近献血に行ったら、骨髄バンクの人が必死にPRしてたので大学が落ち着いたら行こうと思う。良い人に自分を仕立てあげに行こうと思う。前テレビでそういう、病気の臓器のドナーかなんかを探すドキュメンタリーか何かを見た気がするけど、見つからないドナーを必死に探す姿がかなしくて見るに絶えなかったので、助けたい。完全に上から目線で失礼だけど、社会貢献だしいいだろ。まあそれくらいだ。

子供は作りたくない。生きるのは面倒だからだ。私はそんな面倒なことを他人に押し付けたくない。

人間はかなしい生き物だ。人間だけじゃないかもしれない。女性は人によっては生理の影響で生きてる3分の1が体調不良だし、男性は常に性欲が人生を妨げる。なんかTwitterで面白い人フォローしてて気づいたら男の人ばかりになってたから最近知ったけど、男の人も大変そうだ。なのに、女VS男みたいな無意味な論戦を繰り広げ合うし。馬鹿みたい。不幸比べをしても誰も幸せになれない。みんな等しく大変なのに。誰も悪くないのに争う論争がいちばん不幸で、きらいだ。人間は、動物は、誰の意思でもないのに種の保存を行うようにプランニングされてて、種の保存という名の、単なる化学反応のためだけに生かされている。とても、くだらない。みんな大変そうだし、みんな早くしんだらいいよ。地球爆発してしまえ。

父母の死と共に死にたい理由に長生きしていても大変なことが増えるというのがある。病気になるし。別になりたくてなった訳じゃない病気にお金を払うというのはとても理不尽な気持ちになりそうだ。それにボケたりなんかしたら今まで以上に人に迷惑をかける。それに子供なんかいたりしたらボケた姿を見せるのは子供を悲しませることになる。それも反出生主義を唱える理由の一つだ。子供を産んだ時点で悲しむ人を確実に1人生産することになるのだ。罪深い。もちろん人にこの理論を強制する気は無い。人に自分の価値観を押し付けるのは迷惑だ。ただ、理解はできないと思う。
練炭自殺が良いらしい。どうせ口だけなんだろう?と言われるのを防ぐために今度詳しく調べようと思う。親が悲しみそうだから親より先に死ぬのはやめておくつもりだけど、無理だったら予定より早く人生脱退するかもしれない。早く中退したいな。

もちろんしにたいと口にする快感はある。背徳感もあるし、終わりを想像するのは楽しい。終わりというのは、この長い長いいつ終わるのか分からない道のりの終わり、という意味だ。別に死ぬ瞬間を楽しみにしてる訳じゃない。痛みを伴うだろうし。みんなも"終わり"が好きなはずだ。いつ終わるかわからない苦痛ほど、楽しくないものは無い。

この間、「アフリカの子供たちより恵まれているのにそれに気づけずにいる人たちが沢山いるということこそが日本の今の問題なのかもしれないな」とかいうツイートを見かけたが、うるさい、と思う。たしかに認知が歪んでいる気はするが、どうでもいい。認知行動療法でも授けてくれれば良いが、精神科に行こうなどと言うと、親に馬鹿にされるし相手にされない。無駄金を使うなと言われる。だいたいミセスもミスカサズで言ってる通り、優しいほど暇じゃないのだ。自分勝手なのは百も承知だが、人間は本来自分本位な生き物のはずだろう。正しいことを言えば良いというものでもないし。真実は人を傷つける。私は正しいこと言った自分すげーみたいな人たちが嫌いだ。自分は俯瞰してますよ的な、自分を除外するかのようなまなざしが嫌いなのだ。本当はそういう意図では言っていないのかもしれないが。

日曜劇場の天国と地獄を録画しているので最近見終わったのだが、ひとつ死ぬ前にやりたいことがあるとすれば盛大な自己犠牲だ。かっこよく、しにたい。よく分からない願望だが、自己顕示欲と関係ある気がする。天国と地獄で日高が一人の人のためだけに濡れ衣を敢えて着ようとしたように、他人には理解できないような、自己犠牲を成したい。東が成したように、この世に有害な人たちを殺してから、道連れにしてからしにたい。究極的には歴史に名を馳せたいだけなのかもしれない。だとしたらかなしい。私は所詮そんな人間だったのだ。まあ全てのことは自分のためなのだから、自己犠牲をする自分に酔うためで正解なのかもしれない。それにしてもやっぱり、死が近い人間は強いなと再認識する。捨てるものが無いから行動の可能性が無尽蔵なのだ。法律に違反して正義を貫いても構わないし、なんだって出来る。この全能感的なものに憧れてしにたいと口にするところが自分にはあるのかもしれない。厨二病だ。

反出生主義で思い出したが、以前林先生の初耳学でニートに対する授業にて、とあるニートが自分を産んだ親を軽く批判する、みたいなシーンがあって、最終的にはそいつは林先生に論破されたのだが、私はそのシーンに軽い憤りを覚えた。なぜ論破される。あなたが今まで経験してきた楽しいことも、親が産んでくれたおかげですよ?みたいな下らない意見に論破されていたのだ。くだらない。そんな、今まであった大変なことたちを上回るほどの楽しいことってそんなありました?無いですよ。コスパが、悪い。割に合わない。完璧主義だからそう思ってしまう。これからある?だるいだるい。やっぱり対価を払わなきゃ利益が得られない世界じゃあ、つまらない。退屈。別にわざわざ大変なことを体験してまで楽しくなりたいと思うようなもんじゃないよ。すべてがめんどうくさい。本当に自分は身体を誰かに預けた方がいい。父親は30歳超えたら人生楽しくなるとかいう根拠のないことを言っていた。どうなるか、見物だね

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