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【映画感想文】レールから外れた人たちのいない世界で我々は暮らしたいのか問題 - 『すばらしき世界』監督:西川美和

 中学二年生の頃だったと思う。近所のシネコンでミニシアター特集が組まれ、西川美和監督の『ゆれる』が上映された。

 それまで、わたしにとって映画と言えばアニメかハリウッドのアクションもの。予告編を見ても、あらすじを見ても、爽快な雰囲気のない『ゆれる』はとても異質に感じられた。

 それでも、興味を惹かれた理由は主演がオダギリジョーだったから。なにせ、当時のわたしは『時効警察』にどハマり中。放課後、部活をサボって、一人、劇場に向かった。

 平日の三時〜四時。郊外の映画館に芸術的な邦画を観にくる物好きなんているはずもなく、小さなスクリーンは贅沢にも貸し切り状態。きっと「あの中学生さえ来なければ休めるのになぁ」と裏で言われていた。場違いなところに来てしまったかも……。ドキドキ、ワクワク、オダギリジョーの登場を待った。

 ただ、終わってみれば、そんなすべてがどうでもよくなってしまうほど、深い感動にしばらく席を立てなかった。思えば、生まれて初めて、喜怒哀楽のわかりやすい言葉で表現できない感想を映画に抱いた瞬間だったかもしれない。

 なにが正義で、なにが悪で、なにが正しく、なにが間違いであるか。世界にはなんとも言えない問題があると『ゆれる』を見るまで、わたしは知らなかった。その難解さが気持ち悪く、同時に堪らないほど面白くって、家に帰って、インターネットであれこれ調べまくった。

 ノベライズが出ていると知って、図書館へ行き、一気に読んでしまった。「一挙手一投足」という言葉が多用されていて、しばらく、口癖が「一挙手一投足」になるほど夢中だった。兄弟を告発するという内容は『カラマーゾフの兄弟』をモチーフにしていると聞いて、ドストエフスキーにもチャレンジした。

 自分の中で映画と文学がつながったのは完全に『ゆれる』がきっかけだった。

 十四歳のわたしは西川美和監督って凄いなぁと憧れた。映画監督といえば男性のイメージだったので、女性がとんでもない作品を撮っていることにしみじみ衝撃を受けた。

 経歴を見たら、早稲田大学卒と書いてあった。単純だったわたしは早稲田大学に行きたいと宣言し、まわりにゲラゲラ笑われた。なにせ、両親は高卒だったし、まわりの大人に有名大学卒業者はゼロ。担任の先生からも、「そういう大学は本当に頭のいい人たちがいくんだよ」と呆れるように諭された。

 悔しくて勉強しまくった。怒涛の勢いで成績を上げ、なんとか早稲田大学に合格できそうな高校に入ることができた。とはいえ、うちはお金がなかったので、最終的に私大は諦めざるを得なかったけれど、未だに、早稲田いいよなぁと未練をタラタラ持ち続けている。

 それぐらい西川美和監督のファンで、新作が公開されるたび、毎回、せっせっと足を運んでいたのに、最高傑作と名高い『すばらしき世界』は見に行けていなかった。シンプルに忙しくって、映画館が精神的に遠退いてしまっていたのだ。

 ずっと、気になってはいた。だから、最近、暇になったタイミングで、『すばらしき世界』がAmazonプライムに入ったと知り、遅ればせながらも慌てて拝見。ああ、やっぱり、西川美和監督って凄いなぁと思い知らされた。

 長い刑期を終えて、シャバに戻った役所広司演じる殺人犯。普通に生きようとしても、一度レールを外れた人間が普通に生きるのは難しく、社会の理不尽さに持ち前の怒りやすさが出てしまう。それでも、自分を助けてくれる人たちの顔を思い出し、適応しようともがき苦しむ。

 映画的物語としての完成度はもちろんのこと、犯罪者について、生育環境や境界認知の角度からアプローチし、これまでは自己責任に回収されがちだった「悪」の問題に一石を投じている点は圧巻だった。

 新自由主義の広まりに比例して、世界的に、社会のレールから外れることは自己責任であり、そのために社会のリソースを割く必要はないという考えが蔓延ってきた。

 日本でも小泉政権以降、自己責任論に基づく攻撃は枚挙にいとまはない。2004年のイラク日本人人質事件だったり、2008年の年越し派遣村バッシングだったり、最近ではホストの売掛金問題でも遊ぶ女性が悪いと批判の声が多く上がっている。

 要するに、紛争地帯に行くことは危なく、派遣社員として働くことは不安定で、ホストクラブは浪費であると明らかなのだから、ちゃんとリスクを回避してきた人たちがリスクを負った人たちを助けるなんて、おかしいじゃないかという理屈なのだろう。イソップ童話『アリとキリギリス』のような話だ。

 なるほど、たしかにそうかもしれない。小中高とトラブルを起こすことなく、大学もしっかり通い、ちゃんとした会社に勤めていれば、社会に迷惑をかけるような事態にはならないものだ。どうして、ちゃらんぽらんに生きてきたやつらを支援するのか。理不尽に感じるかもしれない。

 ただ、この考えは非常に歪んだ前提に基づいている。というのも、新自由主義における自己責任は、万人が自己の経済的利益を極大化するため、常に、経済合理的に行動する人間であることを想定しているからだ。

 そりゃ、いい大学を卒業して、いい会社に就職した方がいいのは当たり前だ。でも、正味、全員がそんな風に生きられるわけがないのは明らかじゃないか!

 だって、育ってきた環境によってはそんな生き方があることすら知らないまま大人になるかもしれない。精神もしくは身体において、障害としては認められていないけれど、生活をしていく上で困難につながる要素がないとは言い切れない。

 そういう人たちがレールを外れていくのは自分の選択なんかじゃない。従って、本来、そこに自己責任論は成立しないはずなのだ。

 いや、レールに乗れている人たちだって、なにも安泰なわけじゃない。長澤まさみ演じるテレビマンも言っていた。外れないようにしがみつくストレスを発散すべく、外れた人たちを攻撃したくなるのではないか、と。

 西川美和監督はこれまでの作品でも、当事者が直面する過酷な現実と対比させるように、まわりにいる普通の人たちの残酷さを描き続けてきた。本作ではその点もより一層追求されていた。

 物語が進むにつれ、役所広司演じる殺人犯は己の基準で正義を実践していることがわかってくる。弱者が痛めつけられているところを見たら、止めに入らずにはいられない。そして、その手段として暴力を使ってしまう。

 彼が社会に適応できないのは理不尽を受け流すのではなく、ひとつひとつ、解決しようとしてしまうから。そんなんじゃ、この世界で生きていけないよ、とアドバイスを受ける。

 でも、本当にそうなのか? と疑問を抱かずにはいられない。

 たしかに、見て見ぬフリをすれば問題は起こらない。例えば、昨年、JR宇都宮線でタバコを吸っているホストを注意した高校生が逆ギレで暴行される事件があった。ネットのコメントは賛否両論。まわりの大人が逃げる中、声をかけるなんて勇気があると高校生が讃えられる一方、頭のおかしいやつをスルーできないなんてバカだなぁと書いてもあった。

 東名高速夫婦死亡事故についても同様だった。頭のおかしいやつに関わろうとしなければ、逆恨みされることはなかったのに、と。

 その通りなのかもしれない。イジメだって、気づかなければないのと一緒だ。貧困だって、地球温暖化だって、セクハラだって、パワハラだって、見て見ぬフリをすれば存在しない。たまに見て見ぬフリのできない大事件が起こるけど、それは特殊なやつらの話。社会的に抹殺すれば、きれいさっぱり元通り。ああ、この世界はすばらしい!

 役所広司演じる殺人犯は、世界がそんな風にすばらしさを保っていたのだと仕組みを理解し、これまでの正義感を封印。なんとか新しい人生に向けて一歩踏み出していくのだが……。

 その後の展開はそうなるざるを得ない内容で、あまりにも美しく、あまりにも残酷だった。

 ラストカットは恐らく『トレインスポッティング』の有名な橋のシーンを引用していた。他にも、疾走するシーンなど、『トレインスポッティング』の引用が目立った。

 90年代を象徴する映画『トレインスポッティング』も新自由主義における自己責任論で、這い上がるためには犯罪に手を染めるしかない若者たちの苦しみが描かれていた。しかし、『トレインスポッティング』には若さがあった。どんなに絶望的な日々であっても、ドラッグとセックスでぶっ飛び、未来を切り拓くパワーに満ち満ちていた。

 2020年代の『すばらしき世界』に若さはない。老いた男はシャブの代わりに降圧薬を飲み、セックスはできない。

 すばらしき世界を作るのは簡単だ。レールから外れる人たちをどんどん消していけばいいだけだから。

 でも、我々は本当にそんな世界で暮らしたいのか?

 人間、いつ、レールを外れてしまうかわからない。いつ、消される側にまわるかわからない不安でビクビク過ごす毎日を幸せと呼べるだろうか。

 坂口安吾の『堕落論』を思い出した。

 かつて、ちゃんとしていた人たちがいた。国のために命を懸けた人たちがいた。処女を守り抜き、自ら死んでいった人たちもいた。すばらしき世界があった。

 一方、戦後、人々はみんな堕落してしまった。闇市は繁盛し、性的にも乱れまくった。

 ただ、そんな堕落した姿こそ、人間本来のあり方なのだと安吾は言う。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾『堕落論』

 役所広司演じる殺人犯が迫害される弱者を目にして、これまでのように怒り狂うのではなく、社会に適合する道を選んだとき、涙が止まらなくなってしまった。それは彼にとって自殺に等しい行為であった。

 あのとき、彼が手を挙げていたら、きっと、堕落したとまわりにがっかりされたことだろう。でも、いいじゃないか。堕落した方がよっぽど人間的なんだから。

 弱者を透明にしてしまうぐらいなら、すばらしき世界に生きる必要なんてないのかもしれない。ただ、そんな風に思いながら、わたしもまた見て見ぬ振りですばらしき世界に生き続けている。

 だって、このすばらしき世界は、レールから外れると消されてしまう恐ろしい場所。他にどうすることもできやしない。

 ラストカットに自分がいたらと考える。やっぱり、誰の目を見ることもできなかったと思う。




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