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許す道、断罪する道、向き合う道

自分が抱える、苦しさ、は、

生きづらさ、だったんだ、

そう気がつくことは、

苦しむその人にとって、簡単なことではありません。

余程のレアケースを除いては、生きづらさ、の原因は、幼少期の親子関係にあります。

つまり、
生まれた時から苦しくて、
物心ついた頃には生きづらくて、
その人にとっては苦しい状態は、当たり前で、生きづらいのが常態なのです。

その人が、苦しみの無い状態を少しでも経験していたなら、自分は苦しい、と自覚出来た筈です。

その人に、生きづらさなど無い日が一日だけでも有ったなら、生きづらさを自覚した筈なのです。

でも、その人は生まれた時から苦しい立ち場に立たされ、物心ついた時には既に生きづらかったのですから、

生きづらさに気がつく事は、容易ではありません。

気がついた人は、それだけで尊いと私は思います。

不可能に近いことを、やってのけた、のです。

そうやって、生きづらさに気がついて、その生きづらさを手放したい、と願います。

生きづらさを手放す方法は、たった一つ、
自分と向き合うこと、です。

長く苦しんだその人は、生きづらさを手放す為に、自分と向き合う決意を固めます。

ところが、ここで道は三つに分かれます。

一つ目の道は、自分と向き合う道、
二つ目の道は、許す道、
三つ目は、断罪する道、です。

生きづらさに気がついた人は、自分と向き合う道を選んだつもりで、許す道や、断罪する道に迷い込むことが少なくありません。

許す道とは、自分に生きづらさを背負わせた親を許す、という道です。

親は、幼い自分を一人の人間として尊重することが出来ない人でした。

一人の人間として尊重する代わりに、親自身が抱える生きづらさから、目を逸らす道具として幼い自分を所有し、利用しました。

許す道に迷い込んだ人は、その親を慈愛に満ちた聖母の様に、全て許そうとします。

かつて、自分を貶めたことも、
かつて、自分を騙したことも、

親には親の事情があり、苦しみがあり、仕方の無いことだった、と水に流そうとします。

しかしそれは、幼かったあの日に、自分の泣きたい気持ちを呑み込んで、親の望み通りに笑って見せたことを、

今また繰り返すこと、なのです。

自分を殺して親を生かす、幼い日の思考パターンの焼き直し、繰り返し、です。

許す道、を進む限り、親は仕方がなかったし、自分は親を許した優しい子供で居られますが、

ずっと、優しい子供、であり続け、自分が主役となって自分の人生を歩む事はありません。

親の人生に登場する脇役、として生きることになります。


断罪する道は、親を、家系を、断罪します。

かつて、幼い自分を否定し、拒絶しながら、これが愛だ、と騙した親を断罪します。

親を、愛することが出来ない人にしてしまった忌まわしい家系を断罪します。

親や家系に激しい怒りを覚えるのは、自分と向き合い始めた時に必ず通る道ではあります。

言ってみれば、この迷い込んだ道を抜けたら、向き合う道、に戻る仕組みになっていて、

その意味では、許す道よりは、向き合う道に近いとも言えますが、

この断罪する道が、向き合う為の通過点ではなく、安住してしまう人も少なからず居ます。

親への怒りに囚われ、家系をどこまで辿れば忌まわしい負の連鎖の源なのか、と嘆き、

その怒りや嘆きの場所に立ち尽くし、生涯向き合う道に戻らない人も、珍しくは無いのです。


この二つの迷い道に踏み入ることは、当然の様に、起こります。

生きづらさを手放す際、許しの道に入り、断罪する道に踏み入り、揺れに揺れる時期はあります。

しかし、生きづらさを手放すという決意が固ければ、

自分と向き合う道に戻ることは出来ます。

許したくなるのも当然です。
親ですから。
断罪したくなるのもまた当然です。
苦しんだのですから。

生きづらいから、と言って、誰もが決意して、手放さなければならない、ということはありません。

納得して生涯、許す道の上に佇むのも、断罪する道に安住するのも、その人の自由であり、

そこに善悪も、正誤も、優劣もありません。

ただ、許す道に迷い込んだ人、
断罪の道に踏み込んだ人は、

得てして、自分と向き合っている、と思い込んでいます。

どの道を択ぶのも、自由ですが、立っている場所が見えなくなっている人は多くいます。

その時は、自分自身に問いかけてみて欲しいのです。

自分がフォーカスしているのは、自分の内面なのか、と。

親を許す時、親を断罪する時、家系を忌まわしく思う時、

フォーカスは、自分の内面に向いているでしょうか?

人生の主役に相応しいスポットライトは、自分、に当たっているでしょうか?

許しの道に踏み込んだ時、フォーカスは、親、です。
断罪する道に分け入ったなら、スポットライトは、親と家系、です。

自分にフォーカスして、自分にスポットライトを当てて、内面をしっかりと見据えた先に、本当の許しが見えます。
断罪する気持ちが溶ける日が来ます。

許しや断罪は、求めるものではなく、自分ととことん向き合う先に、結果として見えるもの、だと思っています。


主役をつとめるのも、脇役に徹するのもアリですが、

主役のつもりで、脇役になってしまうと疲弊します。

いつか、倒れてしまいます。

生きづらさを抱える人が、心理的な岐路に立つ時、

自分の立っている場所を知ることは、

とても大切なことだと思っています。


生きづらさを手放すことを願うなら、

自分と向き合うことが始まりで、

自分と向き合うことが全てだと、

思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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