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「他人の立ち場に立て」と怒る人は、他人の立ち場に立てているのか

「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」
と苛立つその人が、相手の立ち場に立てない人であることは少なく無い様に思います。

相手の立ち場に立つには、先ず自分と他人の感情を分ける境界線が明確であることが必要です。

感情の境界線は、心の中の確かな【自分】という意識の外郭線です。

心の中の【自分】は、幼少期に親から、感情を肯定的に受け容れられ、存在を尊重されること、によって育まれます。

【自分】の外郭線が、感情の境界線、ですから、
【自分】が育っていて、感情の境界線が曖昧な状態は無く、
逆に感情の境界線が明確に引かれているのに、【自分】が育っていない、という状態もありません。

【自分】と、感情の境界線、は必ずワンセットの関係性です。

少し解りにくいかも知れませんが、【自分】が無く、感情の境界線が曖昧な人は、相手の存在、もボヤけています。

勿論、物理的には、自分がいて相手もいる訳ですが、心に【自分】が無く、境界線も曖昧なのですから、

心理的には、自分と相手は地続きで、区別がある様な、ない様な、曖昧な状態です。

曖昧な状態にある人は、自分の気持ちを察してくれない他者に腹を立てます。

自分と相手の区別が曖昧で繋がっている様な感覚を無意識に持っていますから、

自分の意思や要求を解さない相手に、どうして分からないんだ、と腹が立つのです。

腹を立てるその人も、自分と相手は別の人間であることは、目で見て分かっていますし、理屈でも、言葉でも当然理解しています。

しかし、心理的には区別がついていません。

だから、相手が自分を理解しないことが許せないのです。
それこそ、しょっちゅう腹を立てることになります。

冒頭の、「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」と言うその人が、相手の立ち場に立てない人である場合が少なく無い理由です。

相手が感情の境界線が明確に引かれている人であれば、自他の区別の無いその人が、鬱陶しく思えます。

自分の感情を押し付け、拒否すると腹を立てるのですから、相手からしてみたら、距離を置くべき人、になってしまいます。



心に【自分】があって、感情の境界線が明確になって初めて、心理的に相手が浮かび上がる、と言えます。

感情の境界線が曖昧な限り、目で見て相手を認識していても、心理的には相手などいない極めて独りよがりな世界に、その人は生きています。

だから他人に腹が立ちます。
「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」と言うのです。


【自分】が育たず、感情の境界線が曖昧な人は、
【自分】が無く、感情の境界線が
曖昧な親の下に育った人です。

だから、生まれた時から、感情を肯定的に受け容れられることも、
存在を尊重されることも無く、育ったのです。

親は、独りよがりな世界に生きていて、心理的には、他者を他者として認める事が出来ません。
子供に独立した人格を認めることは出来ません。


【自分】が無い人は、自分で自分の価値を見出すことが出来ません。
価値を感じ取る【自分】が無いのですから、価値を見出すことが出来ません。

だから、他者の承認や賞賛を求めます。
他者の評価がそのまま自己評価になりますから、他者の承認や賞賛が必要なのです。

その人の親は、子供からまで、「お母さんは優しい」「お母さん大好き」といった言葉を欲しがります。

その言葉を子供から引き出す為に、ことさらに優しげな言葉を口にしたりします。

言ってみれば、芝居がかった言葉を使います。
「お前の為を思っている」
「お前が心配で昨夜は眠れなかった」
などなど。

親は、子供の人格を尊重することが出来ないのですから、言葉には心が伴っていません。

しかし、子供は、生まれた時から、親の優しげな言葉を聞いて育ち、
心が伴わない優しげな言葉を、優しさだと思っています。

だから、その子は、大人になっても、本当の優しさに居心地の悪さを感じ、

芝居がかった心の伴わない優しげな言葉に惹かれます。


相手の立ち場に立てない人は、独りよがりの世界に育ち、今も他者の姿をおぼろげに見ています。

相手の立ち場に立つにも、

言葉よりも、心をキャッチするにも、

何より、自分の人生を活き活きと生きるには、

今の心の在り様を知り、

【自分】を育てることが、

不可欠だと、思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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