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甘やかされた様に見える人は、甘えることが出来なかった人

甘やかされて育ったから、ろくでも無い大人になったんだ、などと言います。

ろくでも無い大人、というのが、どんな大人なのかは、人によってイメージする、ろくでも無い大人像、には幅があると思いますが、

他人に迷惑をかけたり、グレたり、粗暴だったり、引きこもっていたり、社会通念上、自立した大人とは認め難い、ということだと思います。

そして、甘やかされて、という表現は誤解される場合が多くあるのではないか、と思うのです。

インドでは、三才までは王様の様に育て、そこから後は、奴隷の様に、その後は、友人として接しなさい、という意味の子育ての格言が広く知られている、そうです。

奴隷という表現は、子供に多少厳しい接し方をしても、色んな経験をさせて、そこに学ばせなさい、という意味に捉えた方が良い、と思います。

それから、友人の様に、というのは、一人の人間として認め、対等な大人同士として向き合いなさい、という事でしょう。

つまり、子供に経験を積ませ、学ばせるには、先ず、三才までの幼少早期に、肯定的な受け容れが必要だということ、

肯定的な受け容れの時期があって初めて、経験と学びの時期があり、その二つの時期を過ごすことで、子供は心理的に成長し、

成長したなら、人間同士として敬意を持って尊重し合う関係性でありなさい、ということだと理解しています。


四歳に満たない幼少早期は、肯定的に感情を受け容れられることで、その子は、自分は存在するだけで価値が有る、という、安心感に包まれます。

安心感に包まれることで、【自己】とも言える感覚が、芽生えます。

【自己】は、湧き出す感情を拾い上げる、主体、であり、その子の人生の、主役、です。

【自己】が芽生えた上で、経験を積む時期を迎えたなら、経験は積み上がり、心はすくすくと育まれます。

幼少早期に親から湧き出す感情を否定されたり、拒絶されたりすると心は成長の歩みを停めてしまいます。

【自己】は芽生えず、人生の主役が不在のまま、経験を重ねても、積み上がることがありません。

幼少早期のつまづきは、幼少後期から少年期の経験の蓄積を阻害しますから、
つまづきは、つまづきを呼び、その子は年齢を重ねても、心は年齢通りに成熟する事が出来ません。
年齢なりの心の発達課題をクリア出来ないのです。


甘やかされて育ったから…、は、誤解されている場合が少なく無い様に思います。

幼児期の、甘えの願望、を満たされた人は、甘え、からの卒業は早いのです。

甘えたい、という幼児的願望を早くに卒業した人は、経験を積み上げることが出来、心が育ちます。

幼少早期に幼児的願望が満たされないと、発達課題をクリア出来ないままに、年齢を重ね、未消化の幼児的願望、満たされぬ甘えの願望に衝き動かされる大人になります。

幼児的願望は、甘えたい気持ちであり、褒められたいし、注目して欲しいし、自分中心でありたい、のです。

自立出来ない甘やかされた人、は本当は、甘えることが出来ないまま大人になった人、です。


甘やかされた様に見える人が、本当は甘えることが出来なかったのは、
親が、肯定的に子供を受け容れる程までに、心が成熟していなかったから、です。

心が未熟な親は、未熟な心を思考で補っていますから、子供の甘えたい気持ちをすくい上げることが出来ません。

たとえば、三才までは王様の様に育てるのが良い、と聞くと、
そうなのか、と、子供を、おだて、ます。

心が未成熟だと、子供を、おだてる、ことは出来ても、褒める、ことが出来ません。

おだてること、と、褒めること、の違いが解りません。

おだてる動機が、意図、であり、
褒める動機が、愛情、なのが、

心が未成熟だから、解りません。


その人の幼少期のつまづきは、幼かったその人に責任は一切、ありません。

親の心が未成熟だったことが原因、です。

しかし、人生の最初のつまづきが、

その人の人生に影を落としたとしても、

親の責任を追求し、恨んでも、

影を取り払うことは叶いません。

原因が親の心であることに気がついて、

恨むことは、自立への過程で通る道であり、

むしろ必要な通過点だと思います。

必要ではあっても、立ち止まり続ける場所では無い、と思うのです。

ひとしきり恨んで、

誤魔化さず恨んで、

前を向くことが出来た時、

未消化の願望は溶けて、

軽やかに生きている自分に、

気がつく日が訪れます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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