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他人の目と、心の中の自分

他人からどう見られているのか、が全く気にならない人は仲々いない様に思います。

生きる上で、他人と関わること無く生きることは出来ないのですから、

他人の目が気になるのは、至極当然だと思いますし、必要なことだと思っています。

逆に、他人の目ばかりを過度に気にしすぎる人は、世の中に相当数いると思うのです。

私達はあらゆる事のバランスを取りながら生きています。

バランスが崩れた状態になった時、人は窮地に陥ったり、暴走したりする様に思います。

人が精神的に成熟すると、おしなべて中庸な考え方、態度、立ち位置、生き方に行きつく場合が多い、と感じています。

他人の目を余り気にしないのが、絶対的に正解で、

過度に気にすることが、悪だ、と断じるつもりはありません。

ただ、どちらが安定的に思えて、どちらが危なっかしく映るか、と問われれば、答えは言わずもがなでしょう。

他人の目を過度に気にする、ということは、あらゆる事の判断を他人の尺度で測ってしまう、とも言えます。

「ここでこう言ったら相手はどう思うだろうか」
「この人は私を嫌っていないだろうか」
「この人は私を好意的に見ているに違い無い」

こう考えた時点で相手が主で、自分が従の関係性に瞬時に陥ります。

自分の人生の中の「今」を他人に明け渡す瞬間です。

極めて受動的な心の構えです。

自分が発する言葉や、起こす行動、つくる表情、仕草が、相手にどう受け取られ、どんな反応が返って来るか、で次の自分の言動が決まって来ます。

相手にどう受け取られ、どんな反応が返って来るか、を敏感にキャッチすることは、必ずしも悪いことではありません。

たとえば、ショービジネスやエンターテイメント、芸術、芸能の世界では、

客がどう受け取るか、は生命線とも言えます。

接客、営業の仕事なども然りです。

言わば、他人の目を過度に気にする特性も、昇華すれば、生きる術にもなり、もっと大きな可能性へと繋がる場合もあります。

ただ、その特性を活かし社会的成功を収めることと、その人の心の安定や幸福度は必ずしも一致するとは限りません。


私達がコントロール出来るのは、自分の心だけです。

他人の心はコントロール不能なのです。

仮に、他人の目を過度に気にする特性を、特殊能力と言える程までに、磨き、高め、昇華させて、社会的に大成功したとしても、

本来、コントロール不能な他者の心を掌握し続ける精神的負荷は決して小さく無いと思います。

その世界の成功者の全員がそうとは言いませんが、心の平穏と引き換えの成功も少なくは無い、と思うのです。


成功者のことを脇に置くなら、過度に他人の目を気にすることは、概ねその人を悩み多き人にします。

コントロール不能な他者に、自分の人生の「今」を明け渡すからです。

私達が触れることが出来るのは、「今」だけです。

過去や未来は思考が造り出す想念です。

どれだけ鮮やかに蘇る思い出も、リアリティに富んだ未来予想も、思考が造るイメージです。

触れることが出来るのは、「今」だけです。

「今」の連なりが人生、だと考えます。

「今」を明け渡すことは、人生を明け渡すことに等しいと言えます。


先に、心が成熟すると中庸な在り方に近づく、と言いました。

その人は、心に確かな【自分】という意識があります。

心が成熟するとは、その【自分】が逞しく育つ、という事です。

その人には【自分】があるのです。

心の真ん中に【自分】があると、他者が入り込む隙間がありません。

心の真ん中に【自分】があると、「今」を明け渡す暇を与えません。

他者が気になることも有ります。

しかし、他人の尺度を借りて測ったり、他人の態度を過度に不安に思ったり、安堵したり、ということが極めて少ないのです。

全く動じない、という訳ではありませんが、少なくとも、他者に振り回されることは、とても少ない、バランスが良い人と言えます。

その場その時で変わりません。
自分の中に尺度があるからです。

極端から極端に振れません。
逞しく【自分】が育っているからです。

中庸を目指してそうなったのでは無く、結果そうなった、と言えるでしょう。


人の在り方、生き方に善悪、正誤、優劣は無い、と考えます。

ただ、人の目が気になって、生きづらさを感じ、

その生きづらさを手放したい、と思い始めたならば、

心の中の【自分】を育て直すタイミングなのかも知れません。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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