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人間に対してニーズという言葉を使うことについて

『ニーズ』と言葉を検索をすると、求め・欲求・需要・必要と出てくる。

ニーズがある/なしで語られる時、人材や我々人間に対してもニーズの有無を当てはめられるようになった。必要とされる人材、必要とされる行為、一切無駄がないように動くこと。


人間に対して当てはめる”ニーズ”とは一体なんだろうか、就職活動や仕事をしていると「それって必要なことなんですか」と、言葉が飛び交うことがある。無駄なものは削減し、有効なものを継続をしていく。還元先だけに注力をし、不必要だったと切り捨てられたものには、本当に”ニーズ”という付加価値はなかったのだろうか。


教員時代は、”ニーズ”に敏感であり、鈍感であったような気がする。目の前にいる子どもの必要としているもの、保護者が必要としているもの、背景を含めた最低限のところをくみ上げ、国が提示したフォーマットに則って還元をする。必要とされるものが増え続け、割に合わない人数で対応をし、裁量は自分に委ねられて、あなたがやっているだけだからと個人責任に帰結をし、教育をいちサービスとみなすのであれば、サービス提供の質には個人差の開きがあるように感じた。もし、提示されたフォーマットから外れる案件だったら?問題だったら?それは、イレギュラーとして扱われて、怪訝な顔をするのであろうか。自分が怪訝な対象化になったら、ひどく傷つく癖に、支援する立場となった時には、ディフェンシブに動くのは、私も結局取り込まれてしまっている。

それは、教員業界だけではなく、どの社会においても、給与や個人の仕事量、個人の人格や良し悪しを決定づけるものではないのに、まるで給与で人間を値踏みされているようだ。


「運という言葉を知っているか」、と尋ねたくなる。一度落とされた人間は梯子を外されて、地獄のような日々を回収したあとに手に入れるものは、ずいぶん前に社会が決めた”エリート”たちが踏み荒らした後だった。

私たちはなんで生きているんだろうな。ニーズあるなしで尋ねられるのであれば、あなたなも私も本当に、社会の求めや需要を満たしているのであろうか。そんなニーズは果たして正しい基準なんだろうか。

満たしてなんていなくても、生きていていいはずなのに、うまく生きられない。

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