ゴロヴリョフ家の人々「оспода Головлёвы」 【シチェドリン書評】
シチェドリンは19世紀後半のロシア、つまりドストエフスキーなどと同時代の風刺作家である。
そもそもシチェドリンという作家を私は知らなかった。光文社古典新訳文庫のZOOM配信で、ロシア語訳者の高橋和之さんが話題に上げており惹かれるまま購入。
本書「ゴロヴリョフ家の人々( оспода Головлёвы)」は1875年に書かれたシチェドリン唯一の長編小説。ロシアの農奴制度の崩壊とともに没落する貴族一家を描く。
日本での初版は1940年の湯浅芳子訳(河出書房>>岩波文庫)。
別訳はそのあとも僅か一版と日本での流通は少ない。
日本など外国で知名度の低い理由のひとつに" 難解なロシア的文体" が挙げられるであろう。
ドストエフスキーやソルジェニーツィンなどロシアの小説はご存じの通り、他国の文学に比べ論理的説明文が多い上に暗く鬱々し、読みにくい傾向にある。
さらに注目すべき点は、彼の作品が風刺小説、つまりロシア(ソ連)という大国の政治制度批判であったことだ。
これを出版するには" 間接的な言葉を駆使し、検問を通る必要" があり、それが読みにくさに拍車をかけた。
役者の湯浅芳子さんは記す。
間違いない評価である。
上下巻の2巻からなる本作だが、あまりの面白さに休日を一日潰し、一気に読んだ。
以下あらすじ。
農奴制度も崩れ始めた頃、地主貴族のゴロヴリョフ一家を支えるアリーナ・ペドローヴナとその子供たち。
時間は進み、人々は年をとる。
彼らの力は激動の時代とともに衰え一人ずつ、旅立っていく。その度起こる財産争い、家族間の不信、憎みあい。貴族の没落とその果て。
当時の貴族文化の息苦しさを、家族崩壊の過程を追い見事に表現した長編。
なんと素晴らしい小説だろう。
冷酷な文章ながら、そこにはそれぞれの人生が繊細に描かれている。
上巻の終わりあたりに差し掛かると、登場人物たちの小さな出来事に読者も動揺するだろう。我々は彼らの人生を読んできたのだ。
確かに暗い。重い。そこにあるのは絶望だ。
だが、時間は止まってくれない。終わりへ向かって進んでいく。そしてそれが人生だ。
ロシアの時代背景はとても興味深い。
はびこる農奴制度と地主家族の階級文化。そして田舎ならではの退屈な空気と、また立ちはだかる絶望。
登場人物の人生観もまた独特である。
この時代のロシアの空気感からかもしれないが、全員がはじめから" 終わりを見ている" 。
まるで子供のときから、" 自分は死に、全ては終わる" ことをはっきりと知っているように。
たとえばこう、
ちなみに彼は25歳の青年である。
またはこう。
だれもが終わりを確信している。
どうか最悪の終わりを避けられるよう祈り、諦め、地の果てへと向かう。憎みあい、ときどき過去を思い出し自分を、彼らを見つめてみる。生きていく。死んでいく。
次いでの特徴として、ロシア文学独特の名前と略称の反復(同一人物の複数の名前が同じシーンで何度も行ったり来たりする)が目につく。(故意かと思うがその意図は分からない)
これに加えて、前述もした回りくどい饒舌な説明文のためロシア文学の読み始めには適さないかと思うが、訳者はまた云う
読み終える頃にはこの小説が読みにくい文体であったことなどまるで忘れている。
わたしたちも同じ。結末は見えている。
始まったものすべてには終わりがあるのだ。
追記
※文章の旧漢字と表現は現在のものに直して引用しました。
※ロシアの農奴制度と解放令
小作制度は国によってかなり形態が異なりますが「幸福なラザロ」という20世紀ヨーロッパに蔓延った農奴制度システムを淡々と描く現代イタリア映画がとても良かった、ことを思い出したという余談。
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