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読書記録:「わからないまま考える」山内志朗

「わからないまま考える」(山内志朗著)を読了した。

一言感想を述べるとしたら……、難解だった。
いつもの図書館で借りた本である。並んでいる背表紙の中からふと目に留まったタイトル。著者は見知らぬ名前。ぱらぱらめくって相性を見る。おもしろそう、いまのわたしに響きそう、そのくらいの気持ちで借りる。そう言った意味で図書館は気軽だ。

著者は中世哲学、倫理学を専門とした研究者であり、この本は「倫理のレッスン」というタイトルで文芸誌「文學界」に連載されていたものをまとめた本である。
車窓を流れるような日常の風景から、著者の思考はなだらかに中世哲学の世界へ足を踏み入れる。令和の東京の雑踏から、やがてスピノザ、ドゥルーズ、アウエルバッハと名前が連なってゆく。哲学を体系立てて学んだことのないわたしには縁遠い世界だ。知らぬ間に森へ迷い込むかのように、わからなくなる。引用元の数行から「エチカ」を空気のように吸うには酸素が足りなさすぎる。

「文學界」は、比較的硬派な文芸誌ではあるもののあくまで読み手は一般(大衆)である。おそらくわたしのような読者も想定しているのだろう、時代や地域、学問領域を超え、さらには「シン・エヴァンゲリオン」や「天気の子」を媒介にして、行きつ戻りつしながら思索がすすんでゆく。(ただ、残念ながらわたしはエヴァも天気の子もきちんと観たことがないため、理解に欠けたまま読み進めたのだが)

しかし、エヴァや天気の子は読者に迎合するために引き合いに出されたものではない。
「エヴァ」や「天気の子」には、そのストーリーが内包している象徴に「セカイ系」という共通項があるという。
「セカイ系」とは「世界」ではなく「セカイ」である。カタカナ表記の「セカイ系」の要素は、「孤独であるというイメージ」「他者を求めているイメージ」「分からない敵と戦っているイメージ」からなる。何と戦っているのかわからないまま、戦うことに意義を求めて、そこから自分の存在意義を見出していく。死に向かって戦うことが実存であり、何かを救済する(できる)という意識が実存であるらしい。


後半、「過去の中に存在する未来」というタイトルの項がある。ここでは、「フィグーラ」という言葉が重要な意味を持つ。
「フィグーラ」とはラテン語で「型・タイプ」という意味である。イタリア語では「(女性の)容姿」という意味になる。つまり聖母マリアのことだ。
キリスト教という枠組みの中でフィグーラを考えたとき、それは「ある特殊なプロットの形式のことである」という。
「歴史とは、或る出来事は先に起きた別の出来事の成就されたものでもあれば、先に起きる出来事は後に起きる出来事のフィグーラでもあるというような存在の様式なのである」と著者は言う。一方通行の因果関係ではない、ということだと私は理解している。

「同じことは人間の人生にも言えないのか。人生の目標は、フィグーラとして立てられる。どういうことか。自分への約束、自分との契約として立てられるということだ。(中略)約束しなければ約束を成就することはできない。人生においても同じだ。人生のある時期に自分に約束しなければ、自分の夢を成就することはできない。約束は、普遍的客観的な通則を借りてくることもできるが、個性的な目的を成就するには、独自の契約を自分とかわす必要が出てくる。(中略)超越的に外在的に与えられるのではない。」
いま、ここにわたしが生きている意味を考えるとき、それは過去の自分が何らかの変化を遂げたものであると願いたい、と思う。不意に降りかかる出来事に意味を見出したいと思うときもそうだ。過去の出来事を糧に、現在の出来事をうまく乗り越えようとすることもそうかもしれない。

著者はこうまとめている。
「過去を見つめ、過去を遡及的に探索しながら、未来に向かって背を向けたままで、後ずさりしながら、未来に向かうという、人間実存の時間内運動の構造の姿はフィグーラ構造と重なり合う。」
未来は決して誰も見ることが出来ない、という当たり前の限界のなかで、どのようにして自分の人生を物語として紡ぐのか。過去は二度目の体験ができなくても、いつも掌のなかにある、と感じることはできる。いつでも取り出して案じることもできる。逆を言えば、それだけしかできない。そして未来は背中で感じることしかできない。


借りた本だけれど、気に入ったものは手元に置きたくなる。この本はそのひとつになるかもしれない。うまくまとめられるほど読み込めなかった。もっともっと読み込みたい。わからないまま思索することが哲学の本質なのかもしれないけれど、それでもわたしは、もう少しわかりたい。

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