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まだ子どもだから。

今年のわたしの誕生日、「おめでとう」と数年ぶりに連絡をよこしてきたのを皮切りに、先日も母の恋人から連絡があった。内容をかいつまむと、「実はR(母)以外の女性を好きになってしまっている。どうしたらいいのだろう?」。言っておくが、相手は母の恋人である。わたしにとって、わたしの日常生活に登場する人物ではない。
自分の日常生活に登場する人物ではないことは、相手にとっても同じだと思うのだが、どうしてわたしにこんな私的極まりない(かつ、少しばかり入り組んだ)慕情を打ち明けてきたのだろう。困惑を隠せないまま何往復かLINEのやり取りをした。そしてひとりつぶやいている。「しょーもな」。

母の恋人(Iと呼ぶことにする)とは、わたしが実家に住んでいたときに一年半程度、定期的に顔を合わせていたことがある。つまり面識はある。しっかり顔もわかるし話もしたことはある。父が他界してから母と親密になったのは明らかだが、存命中から関わりはあった。母を精神的に支えてくれているように見えたし、何より父と比べてずっとまともそうな印象を受けたことから、わたしも、複雑な思いはありながら好意のようなものも抱いていたと思う。もちろん、母が抱いている好意とは別の種類の。

Iはずっと独身である。母とも、籍を入れることを考えたことがあるのか不明だ。その辺りに関して何かポリシーがあるように見えなくはない。
一方で母は、最近の様子はわかりかねるものの、たぶん婚姻関係という契約を多少ならず望んでいるように見える。わたしには、気を遣ってか直接そのような話はしないけれど。

ひとしきり彼の自己開示を含む文字のやり取りをした後、このまま文字を打ち続けてもただただややこしそう、誤解を招きそうとだと思い、通話に切り替えた。そしてIはこう言った。
「どうやったら、その、気になっている女性と近づけるんだろうか」
思わず眉間にしわが寄ったのがわかった。
「Iさんはその女性と近づきたいと思ってるんですね?」
「…………」
「いや、いいんですよ、とりあえず。母のことは置いときましょう」
「ごめんね」
「謝らなくていいです」
本音かどうかはともかく、なぜか「謝らなくていい」という言葉が出ていた。言いながら、あれ、わたしは、本当はこのひとに謝ってほしいのかな? と思う。何のために謝る? 誰のため? 母のため? わたしのため? ん、わたしのため? どうしてわたしが出てくる?

そして、ほんの一瞬迷ってから、わたしは言ってしまった。
「なんていうか、たくさんの女の人がいないと生きていけないって大変ですね」
言うんじゃなかった、とすぐに思ったがもう取り消せない。Iは少し間を置いてから「いやいや、Rのことが一番大切だし、別にそんなんじゃないんだよ」ということをもごもごと濁すように言った。怒り出さなくてよかった。まずそこで安堵できた。これが父だったらアウトだっただろう。そうだ、父とは違う男性なのだった。いや、まあまあ生意気な発言と取れるだろうから、怒り出すのは父に限ったことではないような気がする。むしろIは寛容なのだろう。

いくら大人になっても、親の女性(男性)の部分を見ると複雑な感情が湧く。わたしが大人になりきれていないだけなのだろうか。

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先日の、ある年上の女性との会話を思い出す。
どういう話の流れだったか詳細は忘れてしまったけれど、わたしが「いやいや、わたしはまだ子どもなんですよね…」というような発言をしたのだった。すると彼女はすぐさま、
「そんなの当たり前じゃん、あなたはまだまだ子どもだよ」
と反応してきた。やや意外、そして正直なところやや心外、と感じた。彼女はこれまでのわたしとの会話の中で、わたしを「子ども扱い」していたと感じたことはなかったし、むしろ対等に意見が言い合えている感覚すらあった。
でも、わたしは彼女にとって子どもだった。
わたしは問うた。
「じゃあ、○○さんはいつ大人になったんですか?」
彼女は即答した。「結婚と出産をしてから」

そうかあ。結婚と出産かあ。それが大人になるために必要な通過儀礼ならば、わたしはまだ大人ではない。そうだけど、なんだかな…と感じているわたしを察したのだろう、彼女は続けた。
「いまの聞いてどう思った?」
「…そういう意見もあるのだな、と思いました」
正直な気持ちだった。
「結婚も出産・子育ても、いろんな我慢がいるんだよ。ひとりじゃ体験できないから、経験していないひとは想像が及ばないことがあるんだよね。同世代でも未婚の友達と話してると、なんか違うなと思うし。あ、知らないんだな、って思う」
諭すような彼女の語りを、なんとも言えない気持ちで聞いた。確かにそうなのだろう。「経験しているか、していないか」というだけの相違で捉えれば、結婚も出産もしてみないとわからない部分は必ずあるだろう。そして、どのような忍耐や自己犠牲が生じるのか想像できるか、また、それらの忍耐や自己犠牲を厭わないか、ということは、大人であるための必要条件であるかもしれない。しかし、逆はありうるのか? つまり、結婚・出産は大人であるための必要条件ではある(かもしれない)が、大人になるために結婚・出産は必要条件であるのか?

明快な答えが出ない問いであることを承知しつつも、いつもの癖でだらだら考えていた。
少なくとも、彼女にとっては結婚・出産を経て大人になったという実感があるのだろう。その大人というのは、結婚や出産・子育てをする上で避けられない忍耐と自己犠牲を厭わず受け入れるということであり、彼女も実体験として感じている。もう少し解釈を加えれば、もしかするとそこに誇りや矜持、尊厳のような感情も含まれているかもしれない。「耐えてきてよかった、わたしはつらいこともやり遂げた」というような。
(そういえばひよ子さんも言ってたな、「わたしはダメ子ちゃんだけど、でも子どもを残せたからいっかあ、って思ってる」って)

だけど、経験云々で言うのなら結婚や出産に限ったことではないよな…忍耐や自己犠牲は仕事や両親・きょうだいとの関係、病気や災害、事故など、あらゆるところで経験させられる。彼女はもちろんそれらも含めて考えた末、結婚・出産と言っているのだろうけど…。
と、同じところをぐるぐる回るように思考している自分を見て、はたと気づいた。

わたしは、相手に「子ども」と言われたことに引っ掛かっているんだ。

幼いころ「しっかりしている」とか「大人びている」と言われていたわたしにとって、しっかり年月を重ねた大人になっているにも関わらず「まだ子どもだよ」と言われたことに引っ掛かっているのだろう。引っ掛かっているって、もっと端的に言うと? うーん、「わたしのことをわかってくれていない」かなあ。…あれ、この発言、恐ろしく子どもじみていやしないか。

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冒頭のI、おそらくは、ひとりで抱えたくなくて誰かに打ち明けたいことを、関係を知っている適当なひとにちょっと漏らしただけ、くらいのつもりなのだろう。件の気になる女性とも、食事に行っただけ、連絡取り合ってるだけ、という程度のようだし。
わたしがもっと大人になれば、こんなことに目くじら立てたりしないのかなあ。もしくは、「いいじゃん、子どもで何が悪いさ?」なんて思えたら、そもそもこんなにくよくよしないのかな。


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