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case 私の先生

その人は塾の先生(某国立大学生)だった。

その人は所謂初めての人ってやつで、いろんな人に「勉強以外も教えてもらってたんだね。」なんてよくいじられた。←下品
そして、例によってその人には彼女がいた。←恒例
まぁ、私と付き合うにあたって別れたようだったけど、タイミング的には二股だった。

当時からひどい家庭環境で、家でも学校でも爪弾き者だった私は、毎朝制服に着替え学校へ行く振りをして彼の家に向かい、カバンに詰め込んできた私服に着替え、彼の家で勉強をしたり彼の大学の野球サークルに混ぜてもらったりしていた。友達がいなかった私にサークルのみんなは何も聞かず普通に仲良くしてくれた。ご飯に行ったり、野球をしたり、カラオケしたり、部屋で朝まで話したり、今思えば大学に行けなかった私の人生のキャンパスライフはこの数ヶ月だけだった。←感謝

と、言っても毎日大学に行くわけにもいかないので、たまに高校にも行っていた。当時からなぜか私は午前はどうしても起きられず(深刻な睡眠障害であることは10年以上後にわかる…)お昼頃に登校していた。

こんな私だけれど、おつむはそこそこで進学校に行っていた。
数日もサボれば全然授業にはついていけない。
クラスのみんなは1年生から予備校と学校の授業の二刀流で機械のように勉強していた。休み時間も、お弁当の時間も。

そんなこんなで居場所がない私は教室に行かなくなった。
下駄箱から一番近い、家庭科室の隣に非常勤の女の先生が待機する部屋があった。なんとなく私はそこになら毎日行ける気がした。

二人とも非常勤なので担任のように成績のことや出席日数のことをくどくど言わなかった。一人はお母さんくらいの年齢で一人は30歳くらいの先生でお母さんとお姉ちゃんが出来たようだった。クラスに来なさいと散々言っていた担任も観念して「neco来てますー?」と、出席を取りに家庭科室に来るようになった。←先生ごめんなさい

家庭科室登校はもう一人いた。そいつは学年一のイケメンでやっぱり家庭が複雑だった。そいつの彼女は休み時間になると私たちに声をかけに来てくれる子だった。少しづつ家庭科室友達が増えていった。

3年生のバレンタイン近くに私とその彼女で手編みのマフラーをそれぞれの彼氏に作ったことがあった。家庭科の先生直々の指導が受けられ素晴らしい環境で素晴らしい作品をプレゼント出来た。

数週間経った卒業間際のある日、そのお母さん先生から私はマフラーをもらった。先生が指導ついでに作ってくれていたそれは私へのものだった。

私は嬉しくて恥ずかしくて変なリアクションをした気がする。

今でも忘れない。あんなに優しい気持ちを私はもらったことがないから。

誕生会もクリスマスもない家庭だった私には目が飛び出るほど嬉しい贈り物で、目のかわりに涙が飛び出たと思う。

こんな駄目な私がグレずに生き続け、高校をなんとか卒業出来たのはこの先生たちのおかげだと今も感謝している。

まぁ、卒業する頃にはその彼とは別れてしまっていたのだけど。
原因は、私の進学。東京しか知らない私に関西を勧めるのだ。
理由は彼が大学を出たら関西(彼の実家近く)で就職するつもりだから。
今になって考えると可愛い話だが、当時はお互い真剣だった。
私は馬鹿正直に親にそれを打診した。
関西どうのって言う前に、塾講師と破廉恥な関係であることにキレられた。←当たり前?
親と彼氏と学校…私にとって一番良い方法を誰も考えてくれていなかった。
どうあるべきか、どうさせたいか、みんな私を見ていないし知らないようだった。
疲弊した私は、進学をやめた。彼氏とも別れた。親とは前より話さなくなった。

その後形だけ専門学校に行って1ヶ月で辞めた。←根性なし

進学校からそれなりの大学に行っていたらどうだったかしら、なんて今更思うこともあるけれど、あの多感な時期に私を愛し居場所を設けてくれた彼と家庭科室の先生には今でも感謝している。

ありがとう、私の先生。

necoco

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追伸 その彼は私に振られて居酒屋で飲んだくれ、その時に箸の袋にメアドを書き店員さんをナンパし、その後めでたくその子を関西に連れて行き結婚しましたとさ。←天晴れ



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