見出し画像

心の問題の再考(2)ーー「ありのままの私」と「外」・「内」の感覚

人間の思考において、「表の領域」と「裏の領域」を作ることによって見えてくるものはあるのかもしれない。だけど、自己一致することが求められる職業であるカウンセラーでは例えば、おそらく「表」と「裏」を作ってはいけないのではないだろうか。

私自身、「表の自分」と「裏の自分」というのを作ってしまいがちになってしまうけれども、理想は「ありのままの私」で24時間動き、24時間できれば応答可能な状態になることが望ましいとは思っている。
安冨歩さんの『ありのままの私』という本を読んだ。

『ありのままの私』のなかでは次のように「自分でないもののフリ」をしている状態では暴力が生まれてしまうと書いている。

自分自身でないものになろうとしても、なれませんね? 当たり前です。そうすると「自分自身でないもののフリをする」ということになります。それって、つらいですね? ストレスがたまります。/自分が「自分自身でないもののフリ」をして我慢していると、他の人が「自分自身でないもののフリ」をしていないと、腹が立ちます。なので、他人にも同じことをするように強要します。特に、自分の子供にはとても厳しくそうします。/こうして社会全体に、「自分でないもののフリ」が広がり、同時にストレスが広がっていきます。

安冨歩 『ありのままの私』 ぴあ、2015、17頁。

「自分でないもののフリ」をしていくことによって、自分にもストレスが溜まり、社会全体にもストレスが広まっていくということについて安冨さんは書いています。一人が我慢をして「自分でないもののフリ」をしてしまうと、他の人も「自分でないもののフリ」をしていないと怒りが溜まるので、そうするように強要してしまう。そこから社会全体に「自分でないもののフリ」が広まり、そこにストレスが広まっていってしまう。
それは、とても大事なことだと思う。一方で、役割演技をすることが大事だという社会のなかで、そこで「自分でないもののフリ」をしてしまうと社会全体にストレスが広まっていってしまうということがあるのではないかということ。それは、自分のなかでも考えなければならないことだ。
結局のところ、「自分でないものフリ」というのをどうして人はしてしまうのだろうか、それはどうして他の人に強要しなければならないのか。
そこでは自分というものを自分が演じている役割に同一化させてしまうことによって、自分というものが見えなくなっていくそうした働きがあるのではないか。
私はその点について考えねばならないように思ったけれど、そこではもちろん自分自身の感じている体験、内在性解離のような体験というものがあるということ自体は否定されてはならないと思う。つまり、内在性解離のような体験によって、自分の感じる自己感というものがはっきりしないように感じられることが多いというものである。

確かに自分自身、どこに自己があるのかという問題についてはなかなか答えが出てこないものであり、とりわけどのようにして外言が(これも外言である)組織化されていくのかという問題は非常に大きいものである。
しかし、どのようにして外言が組織化され、どのようにして外と内が境界確定されていくのかという問題は非常に大きいにせよ、どこかで自分自身は何が自分なのかを理解したうえで、「外の言葉」を組織化していかなければならないのではないだろうか。「外の言葉」を組織化するということ、たとえ自分が多重人格的であっても、「外」と「内」の区別が喪失されるような統合失調症のような状態というのはそれとは異なるアプローチのなかで取り組まなければならないものであるかのように思われる。

https://x.com/lovingkaz/status/1702580171906470305?s=20

自分自身、どのようにしてこの「外」と「内」の区別の問題を考えていくかという問題はとても大きいものであるかのように思われる。
自分自身、「外」と「内」の区別自体が喪失してしまう危険からどのように身を守ることができるのか、そのなかで「自分でないもののフリ」をするということから、「外における自分」と「内における自分」というのをトポロジー的に弁別してしまうこと自体、何らかの私秘性(特異性singularity)を持ったものとしての自己を擁護することになるだろうが、しかし「内心の自由」自体は日本の憲法で保証されているものだし、これ自体は簡単には侵されてはならないだろう。

「内心の自由」自体が否定されてはならないものなので、そこで「外」の領域にあるものに関しては何らかの干渉を受ける可能性があるということでもある。私自身、自分の心的な感覚について特に解離の感覚からここに記述をしてきたが、それは何が自分なのか分からないという感覚とも近いと思っている。自分というものはどのような存在であるのか。
それは自分が仮に「意識」と呼ぶものによって捉えることができるのか。
私自身、その問題について考えねばらないけれど、例えば前回のブログで書いた「普遍主義」との観点で言うと、公共的領域に湧出しているものについてはマジョリティであってもマイノリティであっても同じように〈市民〉としての発言として捉えられるという観点になるのだと思われる。

しかし、私自身「普遍主義」に対して「差異主義」も重要であると思っている。次回は、この「差異主義」について考えてみたいと思う。
導入は前回と関係がないような話であると思われたかもしれないが、「差異主義」について次回では考察するつもりであり、そのための前段階として以前のブログで触れた安冨歩さんの『ありのままの私』を読んだので、それを受けて今回のnoteを書くことにした。

読んだ本のなかでこのnoteのなかに取り入れられるものがあるなら取り入れて、それで次回以降の考察に繋げていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?