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「文は人なり」あるいは、適菜収の品性 : 『もう、きみには頼まない (安倍晋三への退場勧告)』

書評:適菜収『もう、きみには頼まない (安倍晋三への退場勧告)』(ベストセラーズ)

適菜の他の著書のレビューでも書いている人がいたが、適菜収のこの〈時代への警告〉シリーズは、「安倍晋三 妄言録」としては便利な本だ。安倍の場合、論外な言動が憶えていられないほど多いし、かと言っていちいち記録しておく気にもならない。だから、このようにコンパクトにまとめてもらえるのはありがたい。
ただし、適菜収自身の言ってることは「ウンコをウンコと呼んで何が悪い」というレベルをいくらも出るものではないし、あまり品の良いものではない。私自身、決して品の良い人間ではないけれど、適菜の場合、お得意の「箸の使い方自慢」にも明らかなように、自身が品の良い人間だと勘違いしている節があるので、それは違うよと指摘しておきたいのだ。
適菜は、

『 ドナルド・トランプが中米やアフリカの国々を「クソのような国」と呼び、騒ぎになった。橋下(徹)は「金美齢というクソババア」「クソ教育委員会」といった暴言で日本を下品のどん底に叩き落としたが、橋下化が進んでいるのは日本だけではないようだ。』(P122)

などと言うけれど、ご自分も多かれ少なかれ、そうした世の中の流れに乗って出てきた物書きだというのが、分かっていないようなのだ。

適菜収の安倍信三批判やネトウヨ批判については、99%同意できる。
だが、適菜の批判が至極ごもっともなのは、安倍やネトウヨの知的及び倫理的なレベルが極端に低いからであって、適菜のレベルが高いからではない。安倍やネトウヨを批判するだけなら、普通の知性と暇があればそれは誰にでもできることであって、文筆家や批評家として評価するなら適菜収は決して上等な部類ではないのである。

【適菜収の保守としてのレベル】

適菜個人を過大に評価してしまう人の多くは、「安倍晋三憎し」で、安倍をわかりやすく痛快に批判してくれる者なら、誰でも高く評価してしまいがちな、あまり良い本を読んでいない左翼リベラルなのではないだろうか。
彼らの多くも、ややもすると「敵の敵は味方」というところがあるし、まして安倍晋三やネトウヨのような「自称保守」ではなく、本来の「保守」ならば必ずしも敵ではないので、寛容に「ちょっと困ったところはあるけれど、その意見は評価できる」と、大雑把に高い評価を与えてしまう。と言うのも、いまの左翼リベラルは、基本的に「寛容」を旨としているからである。

適菜の、文筆家や批評家あるいは物書きとしてのレベルは、決して高くはない。それは、まともな本を読んでいる人(文章・文体が読める人)には自明であろう。適菜収は所詮、威勢の良い通俗流行評論家に過ぎない。自意識過剰で鼻持ちならなく、文章が端的に下品なのだ。つまり、残るような著作など書けない。
その証拠に、適菜の文章から、ニーチェだなんだという古典的思想家の名前や引用を除いたら、ほとんど何も残らない。残るのは、前述のとおり「安倍晋三(とその周辺)語録」であり、安倍及びその周辺への威勢の良い、わかりやすい批判だけだ。
適菜収の「保守」解説がわかりやすいのでありがたいという読者もいるだろうが、それは反安部読者の多くが保守思想について、これまでほとんど学んでこなかったからであって、適菜の保守思想が深いわけでもなんでもない。適菜の紹介している保守思想家が、ひとかどの人だったというだけの話である。

つまり、簡単に言ってしまえば、適菜収は「保守思想家」と言うよりも、虎の威を借る「保守思想の初心者向け概説者」の域を出ていない。
適菜自身は、

『(安倍晋三提灯持ちライターである小川榮太郎ような)バカがいるから、まともな保守が同類に見られる。』(P21)

などと、自身を「まともな保守」の内に含めているようだし、事実、

『たしかに知識人と呼ばれる人間にはクズが多い。しかし、庶民の「保守性」に期待するような呑気な時代はとうに終わったはずだ。改革を煽るのも庶民である。知識人の役割は、それを庶民と呼ぼうが、大衆と呼ぼうが、彼らに媚びることではない。』(P94〜95)

とか、

『 現在、わが国で発生している状況も、単に安倍晋三とその周辺の暴走と考えると大きく間違える。われわれは過去の事例を想起しながら、なにが発生したのかを見極めなければならない。その結論は聴衆の気持ちを逆なでするようなものになるはずだ。もっともそれを担うべき知識人がほとんど見当たらないという状況が今の惨状を招いたとも言えるのだが。』(P97)

などと書いて、自身が『ほとんど見当たらない』くらいの本物の(保守)知識人の一人であると自認しているようだが、適菜が持ち出すような有名な保守思想家と同じ水準で、適菜収その人を「保守思想家」と呼ぶのは、安倍晋三やネトウヨを「保守」と呼ぶほどデタラメではないにしても、そうとう妥当性に欠けるように思うのだが、いかがだろうか。

【適菜収の「箸の使い方人格論」】

例えば、適菜収お得意の「箸の使い方は、人格を表す論(だから安倍晋三はダメ論)」は、実につまらない独り善がりな議論だ。

『 個人を表面的なもので判断してはいけないというのは近代に発生した妄想だ。顔は情報の宝庫であり、内面は外面に表れる。顔、立ち居振る舞い、姿勢、喋り方、箸の持ち方などに、人間の本性は表れる。』(P84)

そりゃあ、箸の使い方にも(あくびの仕方などにも)育ちが反映し、幾ばくかの人格が反映されるのは事実だろう。しかし問題は、それがいつでも正しく反映される保証など全く無いし、また反映されたものを正しく読み取ることは容易ではないというのは、わかりきった事実である。

言うまでもなく、箸の使い方など、練習すれば誰でも上手くなる(顔は化粧や外科整形で美しくなる)。要は、それに時間(や金)をかける価値を、親や本人が見出すか否かの差でしかない。
皆が皆、適菜収のように「箸の使い方が美しい人は、人格的にも素晴らしい人だ」などと考えてくれるのなら、それを身につける経済的価値(費用対効果)はあるだろう。しかし「箸の使い方を云々する以前に、もっと大切なこと、もっと配慮し時間をかけるべきことは他にある」と思う人も少なくないだろう。

実際、『箸の持ち方』という著書まであるらしい、箸の使い方が上手いのであろう適菜収の文章は、品がない。
同様に、箸の使い方が素晴らしくても、猟奇犯罪者もいれば、安倍晋三の子分もいるだろうし、ネトウヨの中にも箸の使い方が上手い人が大勢いるだろう。安倍の支持組織である日本会議の中核をなす神社本庁の有名神社の神主さんなんかも、たぶん箸の使い方が上手いだろうし「箸の使い方に人間性が反映される」なんて類いの講釈を垂れている可能性さえ、けっして低くはないと思う。一一 箸の使い方なんてものは、所詮この程度のことなのだ。
もちろん、下手に使うよりは上手に美しく使えるに越したことはない。だが、適菜のように「箸の使い方で、人格まですべて見抜けます」なんてのは、「占い」や「宗教」の類いでしかないのだ。

『「箸の持ち方なんてどうでもいい」と言う人がいる。逆に言えば、そういう人たちが安倍を支持しているのだろう。』(P85)

ちなみに、反安倍である私自身は「箸の持ち方なんてどうでもいい」と思っている。
前述の通り「下手に使うよりは上手に美しく使えるに越したことはない」けれども、そんなに力を入れなきゃならないことだとは思わない。それよりも「箸の使い方で、人間が分かる」などという、非科学的で非論理的な「妄信」や「独善的思考」を、どうにかした方が良いと思う。
適菜はご丁寧に、

『 なお、箸の正しい持ち方には合理的な根拠がある。「伝統型」と呼ばれる正しい箸の持ち方は、間違った持ち方に比べて、きちんと箸先を閉じることができることも実証されている。』(P86)

なんて、ささやかな「実利」を強調するけれど、箸の使い方にあるのは、この程度の実利と、個人的かつ過大な「美意識」でしかないのだ。

『 日本大学のアメフト部の選手が関西学院大学の選手に危険タックルをしてケガをさせ、騒ぎになった。選手は「監督とコーチの指示に従った」と主張。反則はよくないし、選手の主張が事実なら、監督とコーチの責任は厳しく問われるべきだが、でもたかだかガキの玉転がしの話でしょう。』(P174)

つまり、適菜にとって大学アメリカンフットボールが『ガキの玉転がし』でしかないように、「箸の使い方」の「伝統型」など、所詮は「伝統主義者の些末な慣習信仰の一つ」に過ぎない。
「伝統型じゃなくても、ひとまず食事するのに困らないなら、それでいいじゃないの。それを美しくないとかあれこれ煩いことを言う人はいるけど、個人的な(あるいは党派的な)美意識の押しつけは御免こうむりたいもの。アメフトなんて洋物をやらずに、日本人なら相撲や柔道剣道をやれと言うのと大差ないでしょう、それって」と言われても仕方ない程度の話なのだ。

【適菜収の自己顕示欲と自慢話】

この「箸の使い方自慢」にも表れているとおり、適菜収は自身の身の程を、決定的に見誤っている。
例えば、安倍晋三の提灯持ちライターである小川榮太郎の文章について、

『 幼稚な文章を旧仮名遣いと、過去の偉大な名前で飾り立てるので、どうしてもこじらせた中学生が書いたポエムのようなものになる。恥ずかしくて正視できる文章ではないが、そこからわかるのは自分が大好きということだ。自分のことが好きで好きでたまらない。それで鼻息も荒くなっていく。』(P24)

と評しているが、『過去の偉大な名前で飾り立てる』とか『自分が大好き』とか『自分のことが好きで好きでたまらない。それで鼻息も荒くなっていく。』なんて部分は、多分に「近親憎悪」的であり、自分にだってじゅうぶん当て嵌まるという自覚はないのだろうか?

そもそも、小川榮太郎の文章が原因の『新潮45』誌廃刊事件を語って、適菜は、

『 大手出版社の本が売れるのは、最低限の品質が確保されているという信頼があるからだ。
 しかし、最近の傾向だが、極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが、言論界に入ってきてしまった。出版不況が続く中、ビジネスと割り切り、モラルを完全に投げ捨てた編集者も増えた。』(P29〜30)

なんて、完全に他人事のように書いているが、『新潮45』誌の廃刊は「一日にして成らず」で、『最近』だけに限った話ではない。
たしかに『極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが、言論界に入ってきてしまった』のは、ごく最近の話かもしれないが、『出版不況』は昨日今日に始まった話ではないし、そうであっても、すべての雑誌に『極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが』『入ってきてしまった』わけではないのである。
『大手出版社』の雑誌で、そういうのが続々と入ってきたのは、他でもない「少し前に」適菜収を起用した雑誌である『新潮45』なのだ。

また、適菜収の「権威主義」は、とてもわかりやすい。平たく言えば、よくいる「有名人好き」の俗物であり「誉められると弱い」人でもある。
例えば、お笑い芸人の村本に対しては、こんな書き方だ。

『 村本は以前もこんなツイートを。
《マリー・アントワネットの頃に共謀罪があったらフランス革命は起こってなくて、いまも独裁の国では貴族は金持ちのまま、庶民は貧しいままだったと思う。国民から声を奪う法律、共謀罪大反対》
 知らないことは口に出さない方がいい。フランス革命の結果、独裁になり、庶民も貴族も殺されたのだ。』(P113〜114)

要は、保守の定番である、エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』からの受け売りだ。
自由を標榜して革命をおこした者たちが、独裁恐怖政治を強いたという「歴史の逆説(的現実)」について「こんなことも知らないんだろう」と自慢しているわけだが、これは自慢話に走り過ぎており、少々的外れな批判である。

というのも、フランス革命があったればこそ、絶対君主制が倒れ、人々はそれを目の当たりにすることが出来たのである。たとえそのあとに一時期、不条理な独裁政治が発生したとしても、それでもやはりフランス革命は、権力者によって虐げられ搾取されてきた庶民にとっては、まちがいなく「希望の光」となり、民主主義をもたらす契機となったからだ。
バーグは、ことさらに革命後の恐怖政治を問題にするけれども、それは所詮「ことの一面」でしかない。彼らが革命を起こさなければ、誰も「虐げられた庶民のために」社会を変えようとはしなかった。

バーグのような保守主義者は、「既成の社会」を守るためには、時代の変化に応じて最低限の変革は必要だとしたけれども、それは自分を含めた、既成の支配階級の生活(既得権益)を「保守」するためであって、虐げられた人たちの生活を改善するためではなかった。
だから、彼らに任せておいては、いつまで経っても民主主義の世の中は来なかっただろうし、フランス革命を経て「プチブル化できた庶民大衆」でしかない適菜や私やネトウヨなどが、好き勝手に「天下に物申す」なんて「身の程知らず」なことが出来る、自由な非階級社会の到来も、必然的に大きく遅れたことだろう。
そもそも「保守」と「左翼」の根本的な違いは「弱者の痛みへの想像力」の有無にある。それは適菜収の著作にも明らかだろう。

ともあれ、村本の言う「フランス革命があったればこそ」というのは、そういう「象徴的な歴史的事件としてのフランス革命」という意味であって「革命後には、血みどろのゴタゴタもありました」などという具体的なエピソードの話ではないのである。

『 先日「赤旗」の取材を受けた。安倍政権に比べれば共産党はまだ保守的なので評価している部分もあるが、程度の低い市民活動家に甘すぎるところが残念。先日も某駅前で市民活動家みたいな連中が「民主主義を守れ、九条改正反対、徴兵反対!」と騒いでいた。逆でしょう。民主主義だから徴兵制になるのだ。私は民主主義には否定的だから徴兵制には反対だけど、彼らは左翼の教典であるジャン=ジャック・ルソー(一七一二〜七八年)すら読んでいないのか?』(P114)

これも似たような話で、要は「ルソーを読んでるぞ自慢」だ。
しかし、民主主義と一口に言っても、ルソーの時代に彼の地で考えられた原「民主主義」と、今の日本での「民主主義」は、当然、同じものではない。ルソーの考えた民主主義の原理を検討して現代に生かすのは良いことだが、それをそのまま、それだけが「民主主義」だとしなければならない謂れは、今の日本人にはないのだ。

ともあれ、ここで適菜が書いているのは、上の「おまえらバークを読んでないだろう」というのと同じで、その本質は「ルソーも読んでないだろう」という、読書家の鼻持ちならない自慢話でしかない。

【適菜収のご都合主義】

適菜は「保守」として、しばしば「左翼」を「革命幻想にとらわれて国を破壊したバカ」として批判するけれども、左翼は、適菜収ごときが一言で裁断できるほど、人材に乏しくはない。
前述のとおり、適菜は『彼らは左翼の教典であるジャン=ジャック・ルソーすら読んでいないのか?』と書いているが、それを言うなら「左翼の多くはマルクスの『資本論』を通読してもいない」のだが、そこは追及しない。なぜなら、自分も『資本論』を通読していないからなのだろうが、それでよくも「左翼」批判などできるものだ。

しかし、適菜収に「左翼」批判が可能なのは、適菜の言う「左翼」とは「左翼の中の、程度の低い部分」でしかないからだ。
実際、適菜収が内外に山ほど存在する「左翼思想家」の本をまともに読んだ上で、左翼批判をしているとは到底思えない。
というのも、自慢話が好きな適菜は、読んで批判できると思えば、きっと読んだ本を挙げて批判するだろうからだ。つまり、適菜の読んでいる本は、彼の「保守」および「古典」趣味に偏っており、敵(広範な左翼思想)の理屈を十二分に知った上での批判ではないのだ。
だが、言うまでもなく、こういうやり方はフェアではない。なぜなら、それは実質的には「粗雑な印象論」でしかないからだ。

「保守」を自称する者たち(安倍晋三周辺やネトウヨ)については、あれこれ厳しく注文をつけて、あいつもこいつも「本物の保守ではない」とし、要は「優れた者だけが保守」だという構えにしてしまっているのに、論敵である「左翼」に関しては、ひたすらレベルの低いところを「左翼の典型」として採り上げることで、安直な左翼批判を成立させているだけだなのだ。

適菜収の、こうした「ご都合主義」は、彼のエドワード・サイードへの高評価に、端的に表れている。

『サイードは「左派」として扱われてきたが、それこそ紋切り型の手垢のついたイメージであり、保守主義の根幹と重なる部分が多い。』(P95)

『 こうした(エドワード・サイード的な)意味における広義の「反体制」、徹底した懐疑、イデオロギーの拒絶は保守主義と通底する。』(P96)

つまり、適菜収の理屈は「優れた左派は保守であり、ダメな左派は左派である」(お前の物は俺の物、俺の物は俺の物)というものでしかないのである。これならバカでも左派批判くらい出来るのは自明だろう。

【適菜収の俗物権威主義】

『 先日、ある大学教員の書いた保守主義に関する文章を読んでうんざりした。大雑把に言えば、知識人は庶民の生活を見失い、イデオロギーや学問の世界に閉じこもってしまっていると。一方、庶民は日々の生活に根差しており、〝常識〟を維持しているので慣習や制度を守ろうとする。「悪いのは象牙の当に閉じこもった知識人だ」というわけだ。吉本隆明(一九二四〜二〇一二年)の「大衆の原像」ではないが、この手のステレオタイプな議論は何度も焼き直されてきた。』(P93)

この文章でも、なぜ批判した相手を名指しにしないで『ある大学教員』などとしたのか、いかにもあやしい。
相手が有名な人なら、名指しで批判したくなかったか、名指しでやったら『大雑把』で「恣意的な要約」で相手を批判することが許されないからなのかと疑われる。
たしかに、この『ある大学教員』のご意見が、この要約どおりであれば、それは時代錯誤も甚だしく、今の時代にはマッチしない。その意味では、ここでの適菜の意見については同感なのだが、しかし、ここで吉本隆明の「大衆の原像」を持ち出して、左翼によって『この手のステレオタイプな議論は何度も焼き直されてきた。』などと知ったかぶりで批判するのは、お門違いである。

というのも、「大衆の原像」という言葉にも明らかなとおり、左翼だって、あながち「大衆」や「庶民」が、「汚れを知らぬ被害者」だとか「生活保守的」だと考えているわけではない。
しかし、理念型としての「大衆」が意味するのは「大衆という在り方に秘められた原基」であり、それこそが見落とされても忘れられてもならないものなのだと、左翼はそのように自身に言い聞かせて、その意味で、しばしば現実の大衆に裏切られながらも「大衆の側に立つ」ことを、自らに課してきたのである。
だが、そのあたりのことを、保守万歳の適菜収はまったく理解してないし、理解する気もないのだ。

ま、いずれにしろ、本職の言論人ではないお笑い芸人や、名指しにしない『ある大学教員』や、アホ丸出しの安倍晋三一派やネトウヨには強気な適菜も、身近な同業者には、案外無難に生きているようだ。

『(西部邁は、自身の主催するテレビ番組への出演を断った適菜を)それでも酒の席に誘ってくれた。赤坂の蕎麦屋で吞み、タクシーで新宿のバーに移った。(西部が)私の本を読んでくれていて、「僕は適菜君みたいに色っぽい文章を書けないんですよ」と言った。私は驚いた。大御所と呼ばれる人たちは、自分より若い人間の書いた文章など基本的にスルーするか、読んでいないふりをするものだと思っていたからだ。その日は再度出演を依頼されたが、さんざん奢ってもらった挙句に断ってしまった。』(P110〜111)

この文章から読み取れるのは「俺の文章の魅力が分かる(誉めてくれた)西部邁はさすがだ」という、煽てにのりやすい適菜の性格と、「転向左翼」でありながら上手に保守思想家になりおおせてみせた西部の、臆面もない「人たらし」ぶりでしかない。

それにしても、よくも『「僕は適菜君みたいに色っぽい文章を書けないんですよ」と言った。』なんて書けるものだ。この言葉をそのまま引用しなくても、西部を誉めることなら出来たはずなのに、よほど自慢したかったのだろうとしか思えない。
実際『その日は再度出演を依頼されたが、さんざん奢ってもらった挙句に断ってしまった。』というオチも、自慢話でしかない。「私は誉められ奢ってもらっても、節は曲げないよ」という自家宣伝。しかし、供応接待を受ける立場を自慢するような人が、自分で「私は煽てや賄賂に弱い」と認めることなど金輪際ないのである。

『妻を殴りけがをさせたとして経済評論家の三橋貴明が逮捕された(二〇一八年一月六日)。私は一度雑誌の鼎談でご一緒しただけなので、どういう人なのかは知らない。そのときに頼まれて、音楽に関する文章を彼のサイトにいくつか転載したことがあるくらいだ。だから擁護するつもりはないが、人格と主張を一緒に論じてはいけないと思う。
 私は政治家は政策や主張より人格の方が大事だと思っている。口先だけなら何とでも言えるからだ。
 一方、物書きは人格よりも主張の方が大事である。その主張はあくまでも思考の材料だからだ。人格的に問題のある人物の書籍を拒絶するなら、ジュネ(一九一〇〜八六年)もバロウズ(一九一四〜九七年)もアルチュセール(一九一八〜九〇年)も井上ひさし(一九三四〜二〇一〇年)も読めなくなる。それ以前に、偉そうにモノを書いている人間なんて、自分を含めてどこかおかしいのだ。まあ、DVはダメだけどさ。』(P115)

この文章から読み取れるのは、落ち目の奴からは適切に距離をおく「世間並みの世渡り術」と、やっぱり度しがたい自慢癖だ。
『偉そうにモノを書いている人間なんて、自分を含めてどこかおかしいのだ。』などと書いているが、これはもちろん裏返しのエリート自慢、つまり「私は、世間並みの人間ではないのだよ」という自慢である。

それにしても、自身をジュネやバロウズ、アルチュセール、井上ひさしと並べてみせるかね。相当ど厚かましくないと出来ない芸当ではないか。よほど自分を高く買っていなければ、自身がただ単に、世間にいくらでもいる単なる『おかしい』人である蓋然性の方が高い、という事実に思いいたるはずなのだ。
(ちなみに、経済評論家の三橋貴明については、保守派評論家である古谷経衡の小説『愛国奴』に、その素顔がコミカルに描写されている)

最初にも書いたとおり、適菜がバカにした小川榮太郎と同様、『過去の偉大な名前』で自分を飾るという行為は、傍目には相当イタいものでしかない。
本書で、適菜と対談した菅野完は、対談の最後で、

『ただでさえ人前で司馬遼太郎の話をするのは恥ずかしいのに。それに僕、司馬さん、好きでもなんでもないのに。』(P66)

と言っているが、これは(司馬遼太郎が『好きでもないんでもない』のは事実としても、そんな)菅野にすれば、国民的人気作家であり歴史通と目されていた司馬の名前を持ち出して、自分を権威付けようとする人たちにうんざりしていたから、司馬の名前を出して語りたくはなかった、ということもあるはずで、要するに菅野としては『過去の偉大な名前』で自分を飾るというのは、それが司馬であろうと、バークであろうと、西部邁であろうと、ジュネやバロウズ、アルチュセール、井上ひさしであろうと、やっぱり『恥ずかしい』ということなのだ。
だが、適菜収には、もしかすると「皮肉」になっているかもしれないその言葉の意味を、読み解く力はなかったのである。
(ちなみに、適菜収との共著『エセ保守が日本を滅ぼす』がある山崎行太郎も、この類いの「虎の威を借る」自慢話好き人間である。山崎の『ネット右翼亡国論』は、それが露呈したとてもイタい本で、その点についてAmazonレビューを書かせてもらった)

『無知を武器に大人にケンカを売るのは子供の特権かもしれないが、しかしこの男(お笑い芸人の村本)は三七歳である。単なるバカだろう。この手の花畑はネトウヨにバカの標本として利用されるだけなので、社会に対して害しかない。むしろ、いかがわしい勢力にとっては都合の良い存在だ。バカに批判されても、痛くも痒くもないのだから。』(P113)

ともあれ、村本が、適菜との年齢差である十数年をしっかり読書に傾ければ、現在の適菜とさほど差のないところまで知識は得られるはずだ。読書家にとって、十年の歳の差は決して小さくはないのである。

一方、適菜も、自分より一周りも若い芸人の無知を挙げつらってバカにしている暇があったら、もうすこし左翼について勉強してから左翼批判をした方がいいだろう。
それなりに歳をとって、それなりに本を読んできたはずの適菜が、今のレベルでは『ネトウヨにバカの標本として利用されるだけなので、社会に対して害しかない。』ということにもなりかねないからだ。
それとも、適菜自身『バカに批判されても、痛くも痒くもない』バカなのだろうか? ネトウヨだって皆が皆、surfジャンキー氏のような人ばかりではなかろう。批判対象の水準を低く設定してばかりいると、自身の書くものもまた低水準になるということに気づくべきである。

初出:2019年1月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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