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ガンバレ、小谷野敦! : 私に2周回遅れで、Amazonレビューを「全削除」さる。

本稿のタイトルにあるとおり、小谷野敦が長らく「Amazon」に書いてきた書評が、全削除されたそうだ。
現在発売中の『本の雑誌』2023年10月号に、「アマゾンレビューから追い出されて」という、見開き2ページ(P18〜19)の短い報告文を書いている。

たまたまなのだろうが、この10年間のAmazonレビューをまとめた本を、出そうとして矢先のことであったらしい。
この報告文の冒頭は、次のような具合である。

『 先ごろ、私は巨大直販サイト「アマゾン」に書いてきたレビューを十年分まとめて『レビュー大全』として読書人から刊行した。人を殴り殺せる「鈍器本」みたいになるかと思ったが、ソフトカヴァーだからか、そうでもなかった。それより前のレビューは『小谷野敦のカスタマーレビュー』として、中川右介さんが十年前に出してくれたが、これはさほど分量は多くなかった。今回は読書人の明石健吾さんが、私が発掘したレビューをもとに綿密な校訂をし、細やかな索引をつけてくれたので、二年くらいかかった。』

文中に出てくる「読書人」とは、もちろん私のことではない。私とは何の関係もない、出版社名である。いや、正確には関係はある。私の「年間読書人」というペンネームは、「読書人」社が刊行している書評専門紙「週刊読書人」の名前をもじったものだからだ。あちらは「読書人社が刊行している週刊書評紙」という意味であり、私のは「年がら年中、本を読んでいる人」という意味だ。

もちろん、私も人並みの読書人だから「読書人」と名乗る資格はある。「読書人」は、登録商標ではないはずだ。まあ、法的なことはよくは知らないが。

ともあれ、私なら、小谷野の「ゴミのような書評」をまとめた本など、絶対に刊行しない。もちろん、読もうとも思わない。

だが、ゴミにはゴミなりに刊行する意義があるというのも一理ある話だから、わざわざ手間暇かけて刊行する人がいても、それはそれで結構なことだと思う。
よく言われるように、「有名なもの」や「立派なもの」というのは、おのずと多くの人に注目されて遺されやすいが、「無名なもの」「無内容でつまらないもの」というのは、誰もわざわざ遺そうとは思わない。しかし、この記事のあとの部分で、小谷野自身『 肯定否定両方の意見があるのが健全なことだ。』と書いているとおり、「文化」というものは「優れたもの」だけで出来ているのではない。だから、「優れたもの」だけしか残らないと、後世では「その時代」の実態を正しく知ることができなくなる。
したがって、ゴミもいっぱいあったのだという事実は、現物として遺しておく必要もあろう。言ってみれば、小谷野のレビュー集は、古墳としての貝塚」みたいなものだ。一種の「ゴミ集積場」であっても、それが残っていたからこそ、当時の生活の実態を窺うこともできたのである。

「読書人」社が何を考えて、小谷野のレビュー集成本なんてものを、わざわざ作ろうと思ったのかは知らないが、そういうものも、無いよりはあった方が良いと思うし、そういう中身的には「ゴミ本」であったとしても、文化的な意味では、刊行する意味を認めることはできる。
単に、小谷野自身による押しつけがましい売り込みに屈した、ということではないのなら、「ゴミ本」の刊行も、それはそれで大いに結構なことなのだ。

このように、書き手としての小谷野敦を、まったく評価していない私としても、ヴォルテールが言ったとされる有名な言葉、

『私はあなたの説には反対である。しかしあなたがそれを発言する権利は命をかけて擁護する。』

については、完全に同意するから、小谷野敦が「発言」することも、「レビュー」を書くことも、「本」を刊行することも、その『権利』として、すべて認めている。

ただし、その「本の中身」については『反対』というよりも、おおむね「ゴミだと評価している」から、読者に向かっては「読むのなら、もっと良いものを読みなさい」と助言するし、「買うのなら、もっと中身のある本を買いなさい」と助言する。
もっとも、その本を買うのが、わざわざ「ゴミの研究」をしているような人なのであれば、それは大いに奇特で、結構なことだ。人がやらない「ゴミの研究」は、とても価値があることだし、私が小谷野を「ゴミ」扱いにできるのも、それはそれなりにではあれ、小谷野の文章を読んで「研究」した、その成果なのである。

ただし、私個人としては、「ゴミ研究」のための「ゴミ漁り」に、人生における貴重な時間の多くを費やしたくはない。
私は、基本「快楽主義者」なので、つまらない本を「文化研究」のために読もうとは思わない。もちろん、たまたまの成り行きで、嫌々ながらも読まないでは済まされない場合もあるにはあるのだが、そんな時間は最小限に止めたいと考える、平凡正常な人間である。いくら私が「変態好き」であり、マゾヒストの気があったとしても、小谷野の本を5冊続けて読むというのは、5万円もらってもしたくはない。批判するためには、その「裏付け資料」として読まねばならない場合も、時にはあるけれども、そういう「ルーチン」的な読書は、可能なかぎり避けたいものである。人生は限られており、本は無限にあって、優れた本、面白い本も無限にあるのだから。

さて、やっとここから、本稿のタイトルとした問題について書いていこう。
小谷野は、上の報告文「アマゾンレビューから追い出されて」に、次のように買いている。

『 ところが、刊行間近に控えて、突然アマゾンから、お前のレビューはガイドラインに違反しているから全部削除すると言い渡されて、私は当初スパムメールだろうと思っていたら、翌日、本当に全部削除されていた。呆れてアマゾンにメールを出したが、ガイドラインに違反しているの一点張りで、どこがどのように違反していて、全部削除するなどということがどこに定めてあるのかも教えず、ただ、そちらに見せられない文章にあるなどと言うだけで、しかも私は新しいレビューを書くこともできなくなっていた。これはいずれアマゾンに対して東京地裁に回復を求めて民事訴訟を起こす予定である。もともとアマゾンレビューは実名で書いていたが、それとは別に、私の著書に対して明らかにいたずらと言うべきレビューを書く人物がいたので、アマゾンに対して情報開示請求の訴えを起こしていたから、それへの嫌がらせか、ないしレビューを本として出すことがいけないのか、それならそうと言えばいいのだが何も言わない。本にしたのだから削除されて良かったとは必ずしも言えないので、私の判断がウェブ上ですぐ検索できることもまた重要なのである。』

Amazonのこうした「不誠実な対応」や「アカウンタビリティ(説明責任)の放棄」については、私は、次の記事で、体験に即して詳しく紹介しているから、興味のある方は、ぜひご参照いただきたい。

また、この記事のページ末尾(下方)には、「レビュー全削除」に至る、Amazonとのやりとりを、逐次報告した記事へのリンクもあるので、より詳しく知りたい向きは、こちらもご参照いただければと思う。

ともあれ、私の場合、「全削除」を食らう前から、個々のレビューの無警告削除が何度もあり、その「削除基準」の問い合わせに対するAmazonの「説明拒否」については、その度に厳しく批判してきたので、その結果、Amazonは私を持て余して「全削除」および「投稿禁止」にしたのであろうというのは、経緯に照らして明らかだった。
だから、たぶん小谷野の場合も、似たような事情だったのであろうと、容易に察しもつく。
Amazonの本音は、要は「面倒臭い奴は、相手にしたくない」という、それだけの話なのだ。だって「中の人」は、同じ「人間だもの」、ということなのであろう。

もちろん、Amazonにだって、載せたくない投稿を載せる義務などない。だから、載せないことが問題なのではなく、載せない理由、削除する理由、出禁にする理由を、明示しないところに問題がなのだ。
では、なぜそうした「理由」を明示しないのかと言えば、それは無論、本音では「面倒臭い奴は、相手にしたくない」ということでしかないのに、しかし、そう身も蓋もなく公言してしまっては、「企業イメージ」に関わるからだろう。つまり、Amazonは、本音と建前の乖離が激しすぎる「二重人格のブラック企業」であり、「本音(素顔)」の方は、決して人前には晒せないほどの「醜貌(ブサイク)」だということだ。
Amazonが見て欲しい「美しい仮面」とは、テレビコマーシャルを見てもらえば、それがいちばんわかりやすいと思う。

ともあれ、小谷野敦も、私と接触があり、直接ボコられたこともあって、まんざら知らない仲ではないのだから、私の「Amazonレビュー全削除」経験に学んでいれば、つまり、私の「Amazonレビュー全削除」関係の記事を参照しておれば、『当初スパムメールだろうと思っていた』などという間抜けなことにもならなかっただろう。
だがまあ、私の記事など読む気にもならなかったという気持ちはわからないでもない。むしろ、私が「全削除」にあったことを「ザマアミロ」と喜んでいたのかもしれないが、それも理解できる心情である。なにしろ、私だって、そう思ったのだから(笑)。

『私がこの十年、アマゾンレビューを書き続けたのは、特に書籍に関して、ほかの人のレビューが納得いかないからである。このところ、文藝雑誌の書評は、仲間同士の褒め合いか、出版社によるプロモーションと化していると言われるが、実際には昔でも、おおむねは「褒め書評」が跋扈していたものだが、それでも異論を唱える人がいた。そして現代日本では、「これは褒める」と大手出版社が決めたら、どこでも批判的なことは言えないシステムが出来上がっているので、せいぜい私が蟷螂の斧とはいえ、アマゾンレビューくらいで批判的なことを書くしかないと思っているからである。(中略)など、私が批判レビューを書かなかったら、ほぼ礼讃で終わってしまうところだったような著作もある。(中略)かつて、山本七平が、全員一致の書評は無効ということを書いていたことがあって、実際にユダヤ社会でそういうことはなかったようだが、風刺として見れば、全員が礼讃するようなコンテンツにはあるうさん臭さが伴うもので、肯定否定両方の意見があるのが健全なことだ。しかしウェブ社会になって、自分と違う意見を認めない人というのが出てきて、ヒステリックに私を攻撃する人がいたりするのはおかしなことだ。私にしてからが、小説も書くけれど、「つまらない」と言われたら、それはもうその人がそう感じたのなら仕方がないと、少しは寂しいけれど、「つまらない」という感想に反論したり怒ったりしたことはない。たとえば私はナボコフ『青い炎』に(※ 5点満点の)一点をつけて、こんなものをまじめに読むものではないと書いている。怒る人は当然いるだろうし、お前がバカでこの文学的遊戯を理解できないのだ、と言う人もいるだろう。だが、そういうのを理解できない人もいるということを示すために私は書いたので、実際それまでは五点レビューしかついていなかった。前衛的なものに難解でわからないというレビューを私は書くが、それは、それでお前はバカだと言われても、世間にはバカもいるのだから良いのである。』

「バカ」の存在を知らしめるために、わざわざ「バカ丸出しの書評」を書く意味もある、というご意見だが、それなら「ヒステリックな人」の存在を知らしめるために、そういう「ヒステリックに攻撃する人」の登場も、ぜひ必要だ、ということにはならないのだろうか。「小谷野の小理屈」からするならば。

それに、そもそも小谷野への否定評価こそ、大半は真っ当なものなのだから、中には、そういう「ヒステリックなもの」もあった方が、小谷野自身にも都合が良かろう。「被害者アピール」の道具として使えるんだから。

こんな具合で、たしかに小谷野は「バカ」だし、世の中には多くの「バカ」がいて、小谷野は、そんな「バカ」の一人でしかないだろう。

しかし、「バカ」の真の問題点というのは、自分が「バカ」だとは決して思わない点であり、要は、自己懐疑に欠け、自己批評性を持たない点である。だからこそ、正真正銘の「バカ」なのだ。
だから仮に「読解力が低く」ても、「自分は読解力が無いのかもな」と思える人は、「バカ」ではない。
正真正銘の「バカ」とは、小谷野のように、いるに決まっている「バカの存在を示すため」に、「バカ」丸出しの無責任な、単なる「悪口」を、「レビュー」と称し、正当化して書いたり、投稿したりする「バカ」のことを言うべきなのである。
要は、小谷野自身は、自分では「賢い」つもりなのだ。だから、本物の「バカ」。

(小谷野の『レビュー大全』への5点評価。きっとこの人も、難解な本は好まないのだろうな)

小谷野は、上の部分で、まるで自分が「自己犠牲的なバカ」ででもあるかのように書いているが、小谷野は、決してそんな立派なものではない。
ただ単に「自分のわからないものが、世間で持て囃されるのが、癪にさわる(妬ましい)」から、それに「ケチをつけているだけ」であり、小谷野が「幼稚」なだけ、なのである。

そしてそれは、小谷野の「1点レビュー」が、「否定的評価の根拠」をまったく示さない、単なる「否定的断言だけ」だという点にも明らかだ。
『肯定否定両方の意見があるのが健全なことだ。』などと言っているが、単なる「無根拠な悪口」の書かれることが「健全」だというのは、とうてい「健全」な発想ではない。「バカ」が大勢いるというのは「避け得ない現実」ではあるのだけれども、それが「望ましい」ことではないのは、わかりきった話なのである。

したがって、小谷野のような正真正銘の「バカ」が、「バカになり代わって、自己犠牲的に、バカの存在をアピール」しなければならない必要性など、どこにも無い。
「単なるバカ」というのは、小谷野敦自身が正しくそうであるように、あるいは「ネトウヨ」がそうであるように、放っておいても、湧いて出てくるものなのである。

言うまでもなく、必要な「否定意見」とは、ちゃんと筋を通した「批判」でなければならない。
「バカ」な自分を認めたくがないために、他人を引き摺り下ろしたいだけの、心卑しい「悪口」など、わざわざ書かれる必要などないのである。

(小谷野が言うところの「貴重な1点評価」。ただし、こう思ってたら、こんな本は読んでいないはず)

もちろん、今の出版界が「褒め書評」ばかりという問題は現にあることだし、その点については、私は、小谷野とは比較にもならない、懇切丁寧な「批判」を、何度も加えている。
そして、そんな私からすれば、小谷野がここで言っているようなことは、所詮、真っ当な「批判」にただ乗りした、機会便乗型の「ペテン」でしかない。だからこそ、私は小谷野を「批判」しているのだし、批判しなければならない。小谷野とは違い、このように「根拠を示して」である。

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私は以前、上に紹介した「小谷野敦批判レビュー」の中で、小谷野が出版業界において一目置かれているのは、小谷野が「訴訟マニアの面倒臭いやつ」だからで、「筆が立つからではない」という趣旨のことを書いたが、そんな「筆インポ」の小谷野が、Amazonに対抗するのであれば、それは能力の足りない「文筆・言論」においてではなく、「裁判による法廷闘争」しかない、であろう。
小谷野はここで、

『いずれアマゾンに対して東京地裁に回復を求めて民事訴訟を起こす予定である。』

と書き、『いずれ』『予定』と二重に「予防線」を張って、「口だけのハッタリ(強がり)」に終わった時のために備えているのだろうが、「裁判しか芸のない小谷野」が、それさえできないのでは、生きている意味がないのだから、是非とも「裁判」を起こして、Amazonの「レビュー全削除・投稿禁止」措置の妥当性を問い、どのようなガイドラインが存在するのか、存在するのなら、そのガイドラインの中身は「公正」なものなのか等を、明らかにして欲しいと思う。
ガイドラインがあると言いながら、「全削除」の根拠を示そうとはしないAmazonの態度は、どう考えたって胡散臭いし、不当なものだろう。だから、「裁判」で勝訴する可能性は十分にあるのだ。
Amazonと同様の「ハッタリの口から出まかせ」ではないというのなら、小谷野にあっては、今すぐ訴訟の準備に取り掛かっていただきたい。
それで、小谷野が勝訴したなら、私も喜んで、それに便乗させてもらうつもりなので、期待をもって心から応援したいと思う。

さて、それはそれとして、小谷野のこの報告文「アマゾンレビューから追い出されて」が、いかにも「奇妙」なのは、次のような締めくくりの部分の存在である。

『 ところでこの本(※ 『レビュー大全』)の刊行記念で写真家のインベカヲリ★さんと対談会をやったところ、西村賢太の恋人だったという人が会いに来てくれた。詳しくは書かないが、名門女子大卒の賢太の二つくらい下の人であった。』

見てのとおり、「Amazonレビューを全削除された」という同文章の趣旨からは完全に逸脱した「蛇足」である。

(インベは写真家で『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』の著者。理解不能なものに惹かれるのかもしれない)

それに、その女性が本当に『西村賢太の恋人だった』のか?
事実そうだったとして、どうしてそんな故人に関する「私事」を、小谷野になど語ったのか?
また、その女性が『名門女子大卒』と自称したことを、ここに書くことに、何の意味があるのか?

もしかすると、小谷野は、自分の対談会に「有名女子大卒の、西村賢太の恋人だった人が、わざわざ会いにきてくれた」ということを「自慢」したかったのだろうか?
だとすれば、やはり小谷野敦は、正真正銘「心根の卑しいバカ」ということにしかならないと思うのだが、その真相やいかに?

ともあれ、Amazonに対する「民事訴訟」は、是非とも実行してほしい。
「バカ」は「言ったことも守らない」ものであり、しかし「(立派な人ばかりではなく)そんなバカも存在することを、示したかったのだ」などという、おかしな言い訳は無しにして欲しいと思う。

(2023年9月29日)

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【追加記事】(2023年9月29日)
いま見つけたばかりだが、このレビューが面白い。
より正確には、記事そのものよりも、素材である「小谷野敦」自体が面白いのだが。必読。

・大江健三郎「お別れの会」に呼ばれなかった小谷野敦の恨み節

(2023年9月29日)

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