磯光雄監督 『電脳コイル』 : 「人間」とは、 どういう生き物か?
作品評:磯光雄監督『電脳コイル』(2007年)
『電脳コイル』の評判は、テレビでの本放送(2007年5月12日〜12月1日)当時から聞いていたが、読書を優先して、テレビのシリーズものは視ないと決めていたので、本作も視てはいなかった。
本放送が終了して一括放映されるとか、DVDになって安く手に入るようにでもなればと、そう思っているうちに、忘れてしまっていた作品だったのだが、先日読んだ、陸秋槎によるSF小説「ガーンズバック変換」(同題短編集に収録・2023年)の中で、主人公である女子高校生たちが『電脳コイル』の中古DVDを買いこみ、一晩でいっき視聴して、その余韻に浸るというシーンがあったので、本作のことを思い出した。そこで、もうそろそろDVDも安くなっているのではと調べてみると、十分安くなっていたから購入した、という次第である。
「ガーンズバック変換」の作者である陸秋槎は、『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』に作品を提供しており、2019年3月に早川書房の「note」に掲載されたエッセイ「陸秋槎を作った小説・映画・ゲーム・アニメ」では、小説として、太宰治『女生徒』『葉桜と魔笛』、栗本薫『優しい密室』、北村薫『秋の花』、加納朋子『ガラスの麒麟』、辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』など、年若い女性同士の交情を繊細に描いた切ない作品や、アニメでは百合的な要素の強い『マリア様がみてる』『ストロベリー・パニック』、あるいは少女アイドルものの『ラブライブ!』などを挙げていたからことからも、(それだけではないにしろ)この人は、繊細で汚れのない交情として、百合的なものに惹かれるところのある作家なのがわかるだろう。
で、そういう目で『電脳コイル』を見てみると、決して「百合(女性同性愛)」的な作品ではないけれども、女の子同士の友情や共感といったものがしっかりと描かれており、その一方、「男女の初恋」的なものは、物語を転がすための背景的な要素でしかないという印象もあるし、物語の最終盤では、男の子の出る幕はなかったという印象さえあったから、なるほど「ガーンズバック変換」の主人公たちが、この『電脳コイル』に惹かれたというのも、よくわかるところだった。
本作『電脳コイル』に描かれているのも、言うなれば「手に触れられないものへの想い」といったものであり、「男性的な直接性」ではなく「女性的な繊細さ」であるために、全体の印象としては「女性的に繊細な作品」となっている。
題材としては「近未来テクノロジー」と「民俗学的異界」の重なった世界が描かれており、その意味では「男子的な設定」なのだが、そこに描かれるのは、前述のとおり、「手に触れられないものへの想い」といったものだから、「近未来テクノロジーによって、異界の化け物と戦う」というような「男子的な物語」にはなっていないのだ。
「手に触れられないもの」とは、果たして「手に触れられるもの」よりも、私たちにとって「価値を持たないものなのか?」という「問い」を発する作品となっている本作は、しかし、他でもなく「アニメのヒーロー、ヒロイン」という存在が、「手に触れられないもの」の代表格なのだから、その答は、おのずと明らかだと言えるだろう。
同作の「Wikipedia」の「テーマ」の欄には、次のようにある。
たしかに、磯監督の言うとおりで、本作『電脳コイル』には、「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」の、両方の価値が描かれている。
と言うか、正確に言うならば、「手に触れられないもの」の「有価値性」と同時に、その「危険性」を描くことで、「手に触れられるもの」であることの「重要性」をも語っている、と言うべきだろう。
しかし、ここで視点を変えて、本作では「対照物」的に描かれるに止まった「手に触れられるもの」は、果たして「危険性」がないのかといえば、無論そんなことはない。
多くの犯罪は(殺人、暴行など)は「手に触れられるもの」同士の間で発生するものなのだし、「原発事故」といったことも、(確かに放射能は目には見えないが、物理的な存在であり)「手に触れられるもの=科学的実在」の「危険性」を示していると言えるだろう。
つまり、本作のテーマとして、「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」を、対立的に比較対照して、「手に触れられないもの」の価値を問う、といったものだと考えるのは間違いで、あくまでも問題は、人間にとっての「手に触れられないもの」そのものの価値なのである。
そして、この「手に触れられないもの」とは、何も本作で描かれる「拡張現実の中の存在」や、その他「アニメのヒーロー、ヒロイン」などの「虚構の存在」に限られるものではない。
「アニメのヒーロー、ヒロイン」が「手に触れられないもの」なのだとしたら、「マンガの登場人物」だって「小説の登場人物」だって、まったく同じことであるし、それらが「人に与える影響(と悪影響)」ということで言えば、例えばそれが前述のような「キャラクター的存在」である必要すらないのではないか。
一一つまり、「思想」や「哲学」というものだって、実際には「手に触れられないもの」なのであり、それに影響を受けた「実在の人間=手に触れられるもの」が、それを「体現する」ことで、それを「実在の世界」に持ち込むのである。
したがって、「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」を切り分けて、二者択一的にどちらかを選択するというのは、実際のところ、不可能なのだ。
それらは「観念的に区別」されはするけれども、人間というものは、もともと極めて「観念的」な存在であり、もともと「拡張現実」的な観念、つまり思想や哲学といったものと一体化した存在であり、決して「本能」だけで動いている「生体機械的存在」などではないのである。
そもそも、「心」とか「感情」とか「私」というものだって「手に触れられないもの」なのだから、私たちはそれらを「否定する」ことなど決してできない。
例えば、「火を熱いと感じるのは、火が客観的に熱いのではない。そういう電気信号を脳が受けるから、そう感じるだけで、その電気信号を断つならば、熱いとは感じない」という、いわゆる「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのも、理論的には正しいのだが、私たちは決して(現実的には)「感じる私」や「考える私」を消去することはできないし、もしも、それをしてしまったら、その人はもはや「人間」ではなくなってしまう。
そんなわけで「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」とを比較して「どちらが大切か?」というふうに問うのは、明らかに間違いである。
少なくとも人間というものは、最初から「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」の両方にまたがった存在(複合体)であり、どちらか一方になってしまえば、それは「人間」ではないのだから、そこに二者択一的な選択などあり得ない、ということになるのだ。
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すっかり、原理的な話を先行させてしまったが、本作『電脳コイル』は、次のような作品である。
以上は、あくまでも、物語の「設定」紹介的な冒頭部にすぎない。
この物語はたいへん複雑な作りになっていて、SF作品に慣れていない人だと、いま視ても、よく理解できなくて混乱してしまうところが少なくないはずで、ましてや「拡張現実」的なものが一般に知られていなかった本放映の2007年当時なら、もうこの作品の世界は、「電脳メガネ」で「拡張現実」の加わった世界ではなく、単純に『ドラえもん』的な「不思議メガネ」の世界だと受け取られたであろう。
面白いのは、本作が、当初は「近未来SF」的な発想ではなく、『科学の力を使った魔法少女モノのリアル版か『ゲゲゲの鬼太郎』の女の子版のようなものを考えていた』という点だ。
つまり、SF的な「拡張現実」ものではなく、「妖怪もの」の科学版というかたちで企画された作品なのだが、こうした「当初の狙い」は、物語の中身だけではなく、「キャラクターデザイン」にもハッキリと、その痕跡を残している。
この「Wikipedia」にも、その指摘はないし、本編を見ても気づかない人が少なくないと思うが、『電脳コイル』のキャラクターには、明らかに『ゲゲゲの鬼太郎』の作者である、水木しげるの影響が残されているのだ。
全体としては、「スタジオジブリ」の作品を経過した後のキャラクターデザインではあるのだが、主なキャラクターの一人であるダイチ(沢口ダイチ)の子分の一人である、ガチャギリなどの「口まわり」の描き方は、明らかに「水木キャラ」を意識したものであり、この「口の形」は他のキャラクターにおいても、ちょっと情けない表情を作るシーンなどにしばしば登場する。
ちなみに、この脇役の一人といっていいであろうガチャギリは、次のような人物設定になっている。
で、私が思うに、このキャラクターは、明らかに『ルパン三世』の「次元大介」を下敷きのひとつにしている。
こうした点からも明らかなように、1988年生まれで、二十歳そこそこでアニメーターとなったベテランアニメーターであり、本作で初監督を務めた磯光雄監督の背景には、分厚い「アニメの歴史」があると見ていいだろうし、そんな監督が、「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」とを比較して、どちらかを選べというような、愚かな選択を迫ることなど、あり得ないと言っても良いはずだ。
当然、「手に触れられるもの」としての「現実」は重要であり、そもそもそれがなければ「手に触れられないもの」は作れない。他の動物には、「小説」も「マンガ」も「アニメ」も作れないし、「思想」や「哲学」や「愛」という感情も生み出せない。
それらの「手に触れられないもの」を生み出せるのは、人間が人間であればこそなのだから、人間を「やめる」のでない限り、それらを手放すことなどできないのである。
だから、本作の、あるいは、磯監督の主調音が「手に触れられないものへの愛」ということになるのは、むしろ当然で、この作品を視て「やっぱり、手に触れられるものこそが大切だよね」などと考える人など滅多にいないとは思うのだが、仮にそのように思う人がいたとしたら、その人は、この作品が、まったく理解できていないばかりではなく、そもそも自分自身がわかっていない、ということにしかならない。
もちろん、「捨てられないもの」としての「科学技術」は、しばしば多くの人に「不幸」をもたらすことがある、という事実は否定できない。「原子爆弾」や「原発事故」が、その典型的な実例であり、私たち人間には「巨大科学」を管理しきれないというのは、どうやら事実のようだし、それによって人類が滅ぶというのも、ほぼ間違いのないことであろう。
だから、私たちは無条件に「科学技術」を信奉したりしてはいけないのだが、しかし、より本質的な問題は「人間は、人間の欲望を管理しきれない」ということの方であろう。
本作の終盤で「電脳メガネ」を使う子供たちの間で「不可解な事故」が発生(再発)した結果、大人たちは子供たちを守るために「電脳メガネ」を取り上げるというシークエンスがあり、そうした中で、主人公ヤサコの母親も、娘を抱きしめることで「触れられるもの=柔らかさや温もりを感じられるもの」の重要性を説き、「手に触れられるもの」を選ばせようとして説得するシーンがあるのだけれども、しかしそれは所詮、「不可能な要求」でしかない。
なぜなら、私たちは「私たちの欲望」を満足させる「科学技術」を、「代替技術」なしでは捨てられない「意志の弱い生き物」だからで、「代替技術」なしに、「ただ捨てろ。それが合理的な選択だ」と言っても、それは無理なのである。
事実、先のヤサコ母娘のシーンでも、母親は娘から「電脳メガネ」を回収する代わりに、「電脳メガネ」に押されて廃れかけていた「携帯電話」を、娘に与えるのである。
一一だが私たちは、その「携帯電話」の子供たちに与える「害悪」といった議論を知っており、であれば、この「代替技術」の提供が、本質的な解決にはならない、ということも、十分にわかっているはずなのだ。
したがって、本作は、「これが完全解決だ」というような解答を示しくれるような作品ではないのだけれども、前述のとおりで、私が見たところ、重要なのは「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」との二者択一といったことでは、決してない。
本作が描いている「手に触れられないものへの愛」とは、むしろそれこそが、「手に触れられるものへの愛」という「わかりやすい動物性」を超えた「人間らしさ」であるのだから、結局のところ、「手に触れられないもの」と「手に触れられるもの」は、人間にとって「一蓮托生」だということなのである。
言い換えれば、「想像力」を働かせなられい人間は、その「果てしない欲望」に由来する「科学の制御不可能性」において滅ぶしかない、ということだ。
本作は決して「手に触れられないもの」を単独で選択し、支持したような作品ではない。
それは、本作の中でも「電脳メガネ」と「人間的欲望」の重なったところで、悲劇が起きて、死者まで出していることに明らかなのだ。
だから私たちは、むしろ「手に触れられないもの」への愛において、「人間的・動物的欲望」を自制しなければならない。それができなければ「手に触れられないもの」もろとも「手に触れられるもの」までも、失ってしまうしかないのではないか。
いずれにしろ本作は、見かけほどの「ハッピーエンド」ではない、というのが私の評価であり、鑑賞後に残る、何かスッキリしない感じは、そのあたりに由来するものなのではないだろうか。一一もちろん、この「スッキリしなささ」こそが、本作の、力でもあれば長所なのでもあろう。
(天才アニメーターとしての磯光雄)
(2023年8月4日)
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