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にせユダヤ人の 〈ルサンチマン〉 : 山本七平論

書評:山本七平『ある異常体験者の偏見』(文藝春秋)

フリードリヒ・ニーチェが、「ユダヤ人」を憎悪し、差別的に批判したという評価は、正しくもあれば、間違いでもあろう。
ニーチェの批判したのは、現実の「個々のユダヤ人」ではなく、言わば「ユダヤ人」性にあるからで、そこは区別して考えなければならないし、そこがどうしても混同されがちな現実がある以上、私たちは、こうした「象徴表現」について、慎重でなければならない。

また、「ユダヤ人」性とか「日本人」性という説明形式は、なるほど分かりやすくはあるのだが、多くの場合、「なるほど」と納得したその読者の多くは、自身がそうしたものから免れ得ているという気持ちがあるからこそ、それに反発することも無いし、作者自身も「私も例外ではないが」などと姑息なアリバイ工作をしながらも、自身を例外あつかいしていることが少なくないのである。

ニーチェのユダヤ人批判が、本質的に「ユダヤ人」性批判であるというのは、ニーチェのそれが「キリスト教批判」の一部であり、キリスト教徒が行ったようなユダヤ人への憎悪迫害とは、明確に一線を画していたからである。

つまり、ニーチェは、キリスト教を「ユダヤ人の負け犬的ルサンチマンの思想を、完成させたもの」であるとして批判したのであって、キリスト教徒が「イエスを殺したユダヤ人」としてユダヤ人を差別的に憎んだのとは、ぜんぜん方向性が違うのである。ニーチェに言わせれば、キリスト教徒がユダヤ人を憎むのは、近親憎悪の類いでしかない、ということになるわけなのだ。

牧師の子として生まれ、ある時期までは優等生的なクリスチャンであったニーチェは、長じて、キリスト教の何を憎むようになったのか。
それは、キリスト教の「偽善的な抑圧性」である。

「生の活力を力強く朗らかに肯定する」ということを嫌うキリスト教。
禁欲、謙遜、受苦といった「受動性」に、ことさら価値を置くことで、「生の肯定性」を抑圧し、この世において「生の肯定性」を生きる者は、決して「神の国」は入れない(入れてやらない)という思想。

それは結局のところ、長らく他民族に支配され隷属させられてきたユダヤ人(=ヘブライ人=イスラエル人)の、「勝者」に対する、積もり積もった「ルサンチマン(恨みつらみ)」に発する「今に見ておれ、最後は吠え面をかかせてやる」という「暗い復讐の念」であり、それが「イスラエルの民族神であるイェホバ」を「唯一神」にまで祭り上げたユダヤ教であり、そうした思想を完成させたのが他でもない、「イエスの十字架上での贖罪死」という転倒的なかたちで象徴させたキリスト教だったと、ニーチェは考える。
「敗者こそが勝者である」というユダヤ人の「ルサンチマンの思想」を、これほど見事に象徴化した形象はないし、その強力な象徴性によって、キリスト教は世界を制覇することになるのだが、しかし、当然のことながら、そこでは「生の活力を力強く朗らかに肯定する哲学」というものは、否定的にあつかわれ、抑圧されることになる。「この世の生を謳歌しようとする者」は、「ルサンチマンに濁った眼」を通して、ことさら否定的に評価される。「おまえたちは神の国には入れない。入れるのは私たちだけだ。神の前に謙遜にならないおまえたちは、最後の審判において選別され、地獄に放り込まれて、永遠の業火に焼かれるがよい」という「暗い情念」を向けられることになる。

山本七平の「思想」とは、こういう「ユダヤ人」性そのものだと言えるだろう。
山本は「にせユダヤ人」ではあったけれども、キリスト教徒であった。キリスト教徒ではあったけれども、彼の思想には「肯定的な意味でのキリスト教」つまり「愛他主義的なキリスト教」性はまったく無く、ひたすら「暗い被害書意識」に基づく「病的なまでに鋭い他者批判」を、その身上としていた。
つまり、山本の「たたずまい」とは、ニーチェが憎悪した「ルサンチマンの思想としてのキリスト教」を典型的に示すものだと言えるだろう。山本七平が、一般的な意味では「クリスチャンらしくない」というのは、そういうことなのである。

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本書「文春文庫版」のレビューで、「杜の百鬼王」氏が、本書に「星1つ」を付けて、

『何かしら不快である。読んでいて「知性」だとか「論理」だとか言われるものの異臭がしてくる。この良心を卸金にのせられたような心持がいったいどこから来るのか、考えてみた。』(「理屈と無神経の狭間」)

と書いておられるのは、思想というものを評価する上で、非常に重要な点を示唆するものだと言えよう。
つまり、書いていること(内容の面白さ)もさることながら、著者の「本質」は、その「文体」にこそ表れるということを、氏は指摘しているのであろうし、それはまったく正しい。

と言うのも、頭が良ければ、人は「心にも無いこと」を書くことが出来るし、そう装うことも当然のごとくするけれども、しかし「文体」には、その人の「本質」が、どうしても滲み出てしまうからなのだ。
昔から「文は人なり」と言うけれども、そこ(文体)まで「読む」というのは、「文学読み」にとっては当たり前なこと。書かれていること(字面)をそのまま読み取るだけなら誰にでも出来るだろうが、「文学作品を読む」ためには、それだけでは不十分なのだ。

例えば「泣いている人」が描かれているのを読んで、「悲しくて泣いているんだな」と理解するだけでは、読んだことにはならない。その「泣いている人」が、何を意味しているのかを「著者の文体」の中に感受する能力がなければ、文学作品においては、作品を読んだことにはならないのである。
それと同様で、思想を語る本を読む場合にも、「書かれていること」を読むだけでは、著者の考えていることを正しく理解することはできない。ただ、著者が読者にそのように「読ませたい」と思っていることを、そのように「読まされている」だけでしかないのだ。だが、そんなものが「読書」の名に値しないのは、言うまでもないだろう。

そこで、本書『ある異常体験者の偏見』を読む上でも大切なことは、著者の主張がどういうものであるのかという「主張内容」の理解は当然として、その「主張」は「著者の何から生み出されたものなのか」という側面についての理解であろう。
本書において著者の山本七平は、それを、自身の「戦争体験」から生み出されたものであると主張している。なるほど、それも嘘ではないであろう。しかしながら、著者である山本七平の論敵である新井宝雄も指摘しているとおり、過酷な「戦争体験」をしているのは、なにも山本ひとりではないし、同じような戦争体験を経たのち、山本のように保守思想家と呼ばれるようになった者もいれば、左翼思想家と呼ばれるようになった者もいる。
つまり、山本の思想が、その「戦争体験」から来ているというのは、間違いではないにしろ、ほとんど何も言っていないに等しいのである。

にもかかわらず、読者の多くが、本書における山本の主張が、その「戦争体験」において必然的に生み出されたものだというふうに思ったのなら、それは山本の「筆力」に説得されただけだ、と理解すべきであろう。山本には、それくらいの「力」がある。しかし、その力は多分に「欺瞞」的に働いている。

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本書における「山本七平の〈詐術〉」とは、端的に言えば、自身の戦争体験を「異常体験」と呼んで特権化し、軍隊を批判するかたちを借りて、先の戦争における「日本軍の行なった蛮行」への批判を、封じようとするものである。
「あなた方のやってることも、日本軍がやったことと同じなんですよ」というかたちでの、逆ねじ的批判だ。

しかし、日本軍を批判する人たちの手際が少々まずかったとしても、「日本軍の蛮行」を批判すること自体は、まったく正しいのであるから、手法の不手際に対する批判が、「日本軍の蛮行」批判そのものを、批判するものであってはならない(また、毛沢東評価において、新井宝雄が少々ナイーブで楽天的であったとしても、そのこともって、自身のルサンチマン的僻目を、単なる慎重論のごとく美化するのはペテンである)。

だか、山本七平は「軍人的断言法」だとか「アントニーの詐術」などという、気の利いた風の命名をしたうえで、よくある「レトリック」について、ことさら大仰に解説をしながら、「日本軍の蛮行」を批判する人たちを、自身も、自身が解説したと同様の欺瞞的レトリックを使って、極めて「煽動」的に批判していく。

本書の『異常体験者の偏見』というタイトルには、こうした「欺瞞」を行う上での伏線が張られている。
まず、自身を「異常体験者」と規定して、いかにも「普通の方々には分からないでしょうが」と、自己を特権化することで、反論しにくくする。「異常体験者以外は黙っていろ」というやり口だ。
次に、自身の意見を、所詮は「偏見」だと、先回りして認めることで、他者からの「それは偏見だ(客観性も無ければ、ロジックの公正さも無い)」という批判を封じ、自身は「偏見」に開き直って、臆面もなく一方的に「偏見」を語るのである(このあたりは、「杜の百鬼王」氏も指摘するとおりだ)。

つまり、本書において山本は「レトリックによる欺瞞を暴く者は、当然、レトリックによる欺瞞を弄さない」という「印象操作の欺瞞」を、読者に仕掛けているのだ。
これはちょうど、オレオレ詐欺の犯人が、狙った獲物に対し「最近は巧妙な詐欺が流行っていますから、くれぐれも注意して下さい。そして少しでもおかしな電話があったら、迷うことなく警察に通報してくださいね」などと、警官を装って電話をかけたりするようなものだと思えばいい。これで、ナイーブな読者は、意外に簡単に引っかかるのである。

山本七平の弄するレトリックは、格別巧妙なものではないから、ロジカルに文章を読める読者には、山本の手管を見抜くことは、さほど難しいことではないだろう。
にもかかわらず、山本のレトリックに巻き込まれて、山本を「鋭い批評眼の持ち主」だと過大評価し、山本の信奉者になってしまう人というのは、まず間違いなく、山本の「論敵」の本も読まずに、性急かつ感情的に判断をしてしまうような迂闊な人であろうし、さらには、山本七平の「ロジック」ではなく、「筆力」に酔わされてしまった人たちであろう(あるいは、誰の著作についても、筆力に酔わされるだけの読者だろう)。たしかに、山本七平の文章には「執拗なまでの情念の力」が存在する。そしてそれは、山本固有の「過剰な被害者意識」に発する、多分に実存的なものだ。

しかしまた、そうした「情念やルサンチマンの力」だけではなく、白を黒だと言いくるめるくらいの「テクニック」がなければ、そもそも自身の信仰の正当性を、一般の非信仰者に向けて語ることなど出来はすまい。

『事実と違えば、聖書だろうが毛沢東だろうが、「事実と違う」と言うだけのことである。』(P312)

などと大見得を切って見せるが、周知のとおり、山本七平はクリスチャンで、いわゆる「事実と違う」ことが書かれている「聖書」を批判的に研究しながらも、キリスト教を「信じている」とも言っている、「信者」なのだ。

山本が、「イエスの復活」だの「三位一体の神」だのといった教理だけではなく、イエスが「完全な神にして完全な人である」とか「イエスはキリストである」などということを「非事実」として「否定」することをせず、キリスト教信者として「事実」だと信じているのであれば、山本の言う「事実」とは、いわゆる私たち(非信仰者)の言う「事実」、科学的物理的でもある「事実」ではなく、山本が「キリスト教徒として」そう思いたいように規定された、ご都合主義的「事実」に他ならないはずだ。

「キリスト教信仰」を持っていると言う以上、そういう「白を黒」と言い包めてしまえるほどの「レトリックの力」が必要となるわけで、たしかに山本には、そんな力がそれなりにある。
そして、そんな山本七平の力量を持ってすれば、「本当は存在しないと思っている神を、信じているかの如く語る」くらいのことも、さして難しいことではなかったろう。これは、神学や聖書学を語る「知識人信仰者」によくある、自己欺瞞のパターンでもある。山本も、そんな自己鍛錬を重ねてきた人なのだ。
だから、ナイーブな読者に、「著者の虚像」を信じさせるくらいの力は、当然持ってもいよう。

例えば、イザヤ・ペンダサンという名の自称「ユダヤ人著述家」が、アイデンティティとしてのユダヤ人という特権的な立場(※ キリスト教は、ユダヤ教の一分派として出発しており、イエスはユダヤ人である)から、ユダヤ人と日本人について、もっともらしく語ったことについて、実は、ペンダサンは山本七平のペンネームであり、ペンダサンを名乗ったのは、自論に説得力を持たせるための「欺瞞(ペテン)」だと批判されたことについて、山本は、次のように抗弁している。


『当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも、否定したことはない。」とも述べている。

後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。

『山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたところ、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけで、ジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。キリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと、3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちに、まとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作については、ローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。』(Wikipedia)

まるで、今どきの保守系政治家が、自身の汚職が露見した際の言い分そっくりに、だんだん供述が変わっていく(例えば「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」発言と同様)。
どうして、山本はこの時も『事実と違えば、聖書だろうが毛沢東だろうが、「事実と違う」と言うだけのことである。』という、きっぱりすっきりした説明をできなかったのだろうか。無論それは、そもそも、前述の主張自体が「山本七平の事実」ではなかったからに違いない。
だがそれにしても、協力者に外国人がいれば、著者はいずこの国の人間だとでも名乗れるというのは、非常に便利な理屈である。

ともあれ、これが、自身を「異常体験」をしたが故の「正直者」めかして上で、そのレトリックによって、論敵のレトリックを声高に批判した、保守派レトリシャンの「本性」である。

山本七平の〈詐術〉とは、その「変装術」と「くどいほどの熱い演技力(筆力)」にあると言ってもよかろう。
「ある時はユダヤ人、ある時は異常体験者、またある時は片目の運転手」かも知れないのが、山本七平という「文筆芸人」なのだ。

そして、さらに言えば、

『 自分がその(※ 自分の語る、自分の)「主義に生きる」気がはじめからないなら、だれでも、どんな過激なことでもいえる。日共(※ 日本共産党)が(※ 中国共産党の助言を無視してまで、自身の)拒否した(※ はずの経済優先の資本)主義を平然と権威としてふりかざすことも出来るし、軍人がぶったまげるような誇大妄想狂的超大軍国主義を売ることも当然に出来るわけである。
 そしてこういう人たちが、自己の弱点をつかまれまいと、本能的といえる一種の先制防御で必ず口にする言葉が「お前は反省がない」といったきめつけである。』
(文春文庫版P117)

と敵手を語るこうした言葉は、まさに「山本七平自身の似姿」であり、これは読者に仕掛けられた「自他反転の術」とでも呼ぶべきもだ。
つまり、山本はここで、自身の真の姿を、論敵に投影して、それを批判して見せている。自分のことは自分がよく知っているので、リアリティーのある理屈にはなるわけだし、山本は、自身の語るとおり、論敵に言われる前に、「先制攻撃」的に自己像を語って、予防線を張っているわけなのだ。

山本七平の〈詐術〉の説得力とは「自身の中にある小狡さを、論敵のこととして語り、一方で自分は、(虚構的に)他人の〈いい話〉を称賛して見せることで、間接的に自己を「いい人」へと美化したり、正当化したりする」という論法にあったのである。
本書には、そんな山本七平の、度し難い「自己正当化・美化」病が、その声高な文体に端なくも露呈している。

なぜ山本は、「普通の人」として「普通のロジック」で、論敵を批判できないのか。
なぜ山本七平には、「善きキリスト教徒」としての「静謐さと慎み」が無く、「地獄の業火に焼かれる者の呪詛」めいた言葉しか出てこないのか。

それは、山本七平が「ルサンチマンの信仰者」だからであろう。
ニーチェが徹底して憎悪した「キリスト教の悪しき側面」が、山本七平というクリスチャンに典型的に表れているのだ。

つまり、山本の文体の「過剰な熱さ」は、「魂の病人」のそれであると言ってもよかろう。したがって、反省などしないのは、当然なのだ。

そして、山本と同様の「被害者意識の強い人たち」、例えば「自分は正当に評価されていない(正当に遇されていない)」と感じているような「承認欲求ばかりが強い」人たちは、「この世」に対するその呪詛において、ひときわ熱量の高い山本七平の「うわ言の世界」に巻き込まれてしまいがちなのである。

初出:2019年11月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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