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「消失」について

こんにちは。ちょっとした、ホラーな話です。
幽霊とか、怪談とかそういうのでは、ありません。もっとありふれたことです。
先日noteで使おうと思って、撮影しておいた写真が全て消えてしまいました。どうやら、写真の移行が上手くいっていなかったようで、その時はよしできたと思って閉じました。次の日フォルダー開けてみたら、その日の写真がまるまる無くなっていました。正直、自分でもかなり動揺しました。どこに消えたのかPCの前で言葉が出ませんでした。多分100枚そこそこありましたが、それらが一夜にして消えました。無くなってしまって、とてもショックでした。夜中に思わず、叫びだしそうになってしまいました。いろいろ調べてあれやこれややってみました。そしたら数枚は破損していたようで、無料の復元ソフトとインストールして、直してプレビュー表示することはできました。しかし、それをファイルに移すのに随分料金がかかってしまうようなので、そこで断念しました。

データが消えてしまった事は本当に悲しかった、ショックでした。自分の不備も重なりましたが、こんなにも簡単にあっけなくなくなってしまうのだと再認識しました。あんな肝を冷やすものなのだとぞっとさせられました。
その反面別の気づきもありました。写真を撮ってあるから、大丈夫という安心が行き過ぎて、依存の一歩手前のように感じていました。なんと言いましょう、忘れても平気と思う気の緩み、保険みたいな気持ちがあったように思います。その状態に自分で気づかなかったら、この世の終わりくらいに思っていたかもしれません。あれがないと困るのにと。
そして、その復元に費やす時間と労力の大変さに、はっとさせられました。それを知るまでにも、やるまでにも時間をかけてしまいました。

無くなったのも、直しきれなかったのも今でもかなり落ち込んでいます。ただ、そこに重きを置きすぎると本当に目を向けるべきことが曇ってしまうような気がしました。その覚書も兼ねて今回noteに書きました。
写真が無くなっても、私の旅や体験、その地で見聞したものが消えるわけではないという事や、写真は瞬間を捉える手段であり、思い出を鮮明に残すための一つの方法に思っています。ですが、それだけが全てではありません。そして、それは他の事にも同じことが言えることだろうと見つけられました。

皮肉なことに、良くも悪く視点を変えるきっかけになりました。大切なのは、今回の経験をどう消化していくかにかかっているように思います。それをこそっとChatGPTと対話してみました。概ね、思っていた通りの返事でした。それを引用して下に表示します。

確かに、データのバックアップが取れなかった場合でも、その経験や思い出を記憶として保持し、それを活かすことが重要です。データが失われてしまった場合でも、以下のような方法で経験や思い出を有効活用することができます。
反省と学び: データの喪失から反省し、次回同じような状況を避けるための学びを得ることが重要です。バックアップの重要性や手法について学び、今後のデータの保護策を見直すことができます。
記憶の活性化: 失われたデータに関連する思い出や経験を思い出し、記憶の活性化を図ることができます。写真やデータがなくても、その出来事や感情、周囲の状況などを思い返すことで、それらを鮮明に思い出すことができます。
新たな表現方法の探求: データが失われた場合には、他の表現方法や手段を探求することも有益です。文章、絵画、音楽、物語など、自分の思い出や経験を別の形式で表現することで、新たな創造的なアウトレットを見つけることができます。
共有と話し合い: 失われたデータについては、家族や友人と話し合い、その思い出や経験を共有することも意義深いです。口頭での語り、エピソードの共有、写真やデータがなくても話し合うことで、その経験を他人と繋げることができます。

データの喪失は悲しい経験ですが、それをただ悔やむだけでなく、記憶として大切にし、それを自分の成長や創造的な活動に活かすことができます。データが失われても、その経験や思い出はあなた自身の一部であり、大切なものです。

やっぱりそうだよね、と思う部分が大半で、ストレートに言ってくるなって思いました。今回の行き先がまだそう遠くはない所であったから、多少ダメージはましかもしれないとは思います。その時と同じものはもうないかもしれませんが、それならまた次の機会で違った形でアップデートとアプローチをしていければと思います。


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