見出し画像

一人でいることが平気ってわけではなかった

お疲れ様です。大学後期もラストスパートにきています。

今月末に誕生日を迎えるわけだけど、思えば大学に入ってからは悲しいかな、毎年この時期はレポートをしていました。というわけで今回も例に漏れず、レポートに試験頑張ります。

ついでにいうと、この時期が一番寒くて、子どもの時から誕生日に撮ってもらった写真は風邪でも引いたのか鼻が赤くなっていました。今は大人になったので、そんなことはなくなりましたけどね。オトナっていいものかな。


最近あれって思ったことがありまして。大学で一人でいても平気になったなあとふと思いました。

ありがたいことに大学に友達がたくさんいまして、大学に入ってから知り合った人たちです。

私の大学はコースがあるわけでもないので、毎日の講義を受けるメンバーは違う人たちなんですね。それでも、毎日一緒に過ごせる人が誰かしらいて。

誰かと一緒に講義を受けて、お昼ご飯も食べ、帰りも一緒に帰るというような生活をしていたので、誰かと一緒にいるのが当たり前という感覚でした。一人になってしまったときに、「今暇な人いる~?」って呼びかけてまで誰かと一緒になろうとするくらい。

この頃は、まだ体調も気分も良かったので(うつではなかった)、楽しかったなあとしみじみと感じます。


それでも、たまに講義中に授業を受けずに寝るかスマホゲームをしている友達を横目で見ては、これなら一人で受けたかったと思うこともありました。それでも言えずにいたわけで、私は一人になるのが怖かったのかな。


休学して復学をしたのが、同級生にとっては4年生の後期だったので、同期はもう半年で卒業という時期で。学校に来る人がほとんどいませんでした。

ゼミもオンラインで卒論を見てもらって指導もしてもらうという人もいたくらいなので、本当に大学に来ない友人もいました。

そういうわけで必然的に一人で講義を受けて、一人でご飯を食べるわけですが、それを苦に思うことなく今日までやり過ごしていたので、「あれ私一人でも平気じゃん」と思いました。

ご飯に関しては約束してたまに友人と一緒に食べることもあります。


一人でも平気って思っていたけど、それはちょっと違います。

多分、大学だからだと思います。もちろん集団でワイワイしている人たちもいるんですけれど、私と同じく一人でご飯を食べ勉強をしている人たちも多いんですよね。

それを私が勝手に仲間認識をしているのかもしれない。

これが、私以外は誰かと一緒にいて、私だけが一人だったならば耐えられなかったと思う。

高校一年生の時に、友達数人と一緒にご飯を食べていたけれど、仲がギクシャクしてそれが面倒になってしまい「私は一人で食べるからいいよ」と一人で食べていた時期がありました。

それが本当に辛くて。毎日お弁当を持たせてもらっていたので、平気なフリをしていたけど教室でお弁当を広げて一人で食べるのは、本当は辛かった。

周りで机をくっつけて食べている子達を極力見ないようにしながら、努めて何も考えないように素早くお弁当を食べていました。お弁当が食べ終われば、そのまま自分の机で本を読むか、図書室に行くかして過ごす毎日でした。

おかげで図書室の司書さんとは親しくなれました。卒業するときにタイミングが合わなかったのか、挨拶ができなかったのは今でも心残りです。


そういうわけで、周りが群れを作っている中を一人で過ごすのは、少なくとも私にとっては地獄でした。

それが、周りに一人で過ごしているだけで途端に一人が心地良いものになるのだから不思議。全ては私の気にしすぎかもしれないけれど、周りを見なくては社会の中で生きていけないのも事実だと思うから。


それに今の彼氏がお仕事の休憩に私と電話したがる人なので、大学で彼からの電話に出ることが多くなりました。

(今の補聴器は進化していて、スマホと補聴器をBluetoothで接続できるのだ。私でも電話できるなんて、技術に感謝と感動する日々)


そういうこともあって一人でいても平気なのかもしれない。


それをなぜ今頃思ったかというと、最近約束したわけでもなくたまたま友達と一緒になり特に話すわけでもないけど私の隣に来て作業をしていくことが2回ほどありました。大学でご飯を食べるわけでもなく友達と一緒に過ごすのが久し振りだったので初めは慣れなかったけど、それは私が一人に慣れていたからかと気が付きました。


もちろん、いじめもあって今までの人生で見れば一人になる機会は何回かあったわけで、それもあり小学生の時には私は「誰も信用ならないから私は一人で生きていけるようにならなくては」とずっと思っていました。


そうはいっても助け合いながら生きていくのが人間だと思うので、人間たった一人で生きていくことは不可能であり、それでも私がここまで来れたのは気にかけてくれる人がどこかにいたからだよなと今改めて思いました。

それには自分の障害、難聴というのも大きく関わっていると思います。

嫌な大人もいたけれど、思えば幼稚園に入園したときからずっと気にかけてくれる大人はどこかにいました。幼稚園も、障がい者が初なのか耳の悪い子が初なのかどちらかは分からないけどすんなり入園できずに話し合いも重ねていた結果、皆とは遅れての入園でした。

小学校で普通学級を選び、高校受験のときには障害を理由にやんわりと入学を断られて車の中で悔しくて泣いた日もあったけど(今でもよく覚えている、そこよりもっとレベルの高いところに入ったし、入学試験を受けなくて正解だった)、それでも学校で私がよっぽど思いつめた顔をしていたのか「大丈夫か、何かあった?」と声を掛けてくれる先生はいたわけで。(でもやっぱり大人を信用できなかったので一言も相談できず。相談していればなあ)

それで今も、私は大学の講義では前方に着席をし、毎回先生に機器を手渡しており、大学の中でも私は耳の悪い子で通っているわけです。

その証拠に、一か月前ゼミでの集まりで後輩とも接する機会があり、そのうち一人の子が話しかけてきたんですね。私のことを知っています、と。

私は咄嗟に「なんで?」というような言い方をしてしまって、その子は「あー」と言いながらも、「先生とよく話しているから」みたいな無難な言い方をしてくれて。

同じ講義をとっていたみたいで、私は先生とそんなに話をすることはないんですけど、私が機器を手渡したりしているのを見ていたのかなと思いました。

あーここにも私のことを知っている人がいるんだなと思いました。

それはもしかしたら興味本位で私のことを気にしているだけなのかもしれないけど、それでも意識していなかっただけで私に目を向けてくれている人たちはいて、いや無意識にそのことを自覚していたからこそ、今までここまで私はやってこれたのかなとも思いました。

まさに、私の知らないところで、陰で支えられていたんだなと。


きっとこれから社会に出て、働くことになっても、私のことを気に入らない大人はいるかもしれないし、もしかしたら圧倒的にそういう人たちが多いなんてこともあるかもしれない。

それでも、自意識過剰かもしれないけど、どこかに私のことを見ていて、気にかけてくれている人はいるんだと思うことで心を強く保っていきたいなと思いました。

その考え方をすれば、はっきりと目の前に形として現れていないだけで私の味方はたくさんいるんだと思えて、何があったとてこれからもやっていけると思うから。


ただ一人でいることが平気なんじゃなくて、結局は支えてくれている人だったり、他に人がいてくれるから、私は一人でも自分を見失わずに済むんだね。


noteもそうです。私のnoteを読んでいる人は、私の知らない人かもしれないけど、本当に知らない人かといえばそうではなく、気持ち悪いかもしれないけど、私もnoteを読んで誰か知らない人のことを想うことがあれば、それは知らない人ではなくてどこかで繋がっている人なんだと思います。

直接は伝わらなくても、誰かのために考えたり想ったりしたことはどこかで繋がって、その人にどのような形であれ届くものなのではないかなと思いました。

それでもっと世界が暖かい気持ちでいっぱいになればいいのにな。


今回はここまで。読んで下さりありがとうございました。本格的に寒くなってきましたが、体調にはお気をつけて。では、また。










この記事が参加している募集

最近の学び

サポート、応援してくださったら、とても嬉しいです。ありがとう。