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今は「手書き」のほうが脳にしっくりくる件

■手書き、侮(あなど)るべからず

▼印象に残ったニュースや読後感を「個人的に」「効率的に」メモしておきたいと思ったのが、このnoteを使い始めた理由なのだが、「キーボードで打つよりも、手書きのほうが記憶に残る」という真理を忘れないようにしたい。もっとも、この真理は暫定的なものかもしれないが。

▼2016年4月6日配信のウォールストリートジャーナルに、〈あなどれない「手書き」の学習効果 「書く」というプロセスが情報を記憶に深く焼き付ける〉という面白い記事が載っていた。(By ROBERT LEE HOTZ)

〈米プリンストン大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の研究者により、パソコンに打ち込むより手書きでノートを取る学生の方が総じて成績が良いことが判明した。同じくノートの取り方を比較した別の研究者の実験でも、タイピングよりも手で書く人の方が飲み込みが良く、情報を長く記憶し、新しいアイデアを理解するのにもたけていることが分かった。〉

▼これ、「あるある!」「わかる!」という人、経験したことのある人、けっこういるのではないだろうか?

人類と「紙+ペン」のつきあいのほうが、人類と「キーボード」のつきあいよりも、はるかに長い。

〈17世紀に初めて大量生産された鉛筆でノートを取ろうが、万年筆(特許取得は1827年)を使おうが、ボールペン(同1888年)であろうが、フェルトペン(同1910年)であろうが、大きな違いはない。

だが、いまや大学生のほぼ全員が持ち運び可能なコンピューターを持っている。教育の主な伝達手段は講義で、高等教育の講義にはノートを取るためのキーボードをカタカタ鳴らす音がつきものになっている。〉

■手書きのほうが「生産性」が高い?

▼手書きとキーボードと、どっちが「生産性」が高いのだろう? WSJの記事によると、じつは、キーボード派のほうが〈短期間(講義の直後)ならば効果を上げる〉のだが、〈こうした優位性は一時的〉だそうだ。

24時間後、また1週間後と比べると、手書き派のほうがキーボード派よりも、情報が脳に定着している度合いが高い。これは印象論ではなく、幾つもの科学的な証拠があるらしい。

〈複数の研究によると、パソコンを使っていた学生は24時間後には記録した内容を忘れてしまうことが多かった。また、大量のノートを見返しても記憶を呼び戻すのにあまり有効ではなかった。それが非常に表面的だったからだ。

 対照的に、手書きでノートを取った学生は講義内容を長く記憶でき、1週間後でも講義で示された概要をよく覚えていた。専門家らは、書くというプロセスがより深く情報を記憶に焼き付けると指摘する。また、手書きのノートはよく整理されているため、復習にもより大きな効果を発揮する。〉

■カギは「編集」しているかどうか

▼筆者の経験上でも、誰かの話を記録する際、キーボードのベタ打ちは忘れやすい。手書きのメモは忘れにくいし、アウトプットする時にも便利だ。手書きでメモする場合は、無意識のうちに「編集」している。この「編集」のひと手間をかけるかどうかで、脳に定着する度合いが変わるのだと思う。

編集していない情報はゴミに等しい。

▼マスメディアの政治部の取材などは、政治家の発言を一字一句間違いなく文字起こしすることが決定的に重要な場合が多い。しかし、それは記事をつくる基本というか、前提であって、記事化する際には、結局その言葉の「意味」「文脈」を考えて重要な部分を切り取るのだから、必ず「編集」しなければならない。

■三つの警句、一つめ

▼これからはどんどん「インターネットにつながったままでキーボードとつきあう」時間が増える一方だから、その注意点をどれだけ強調してもしすぎることはない。先日紹介した『図書館』というお気に入りの本から、自戒の念を込めて、警句を三カ所、抜粋する。適宜改行。

〈ウェブ・ユーザーにとって、過去(電子の時代である今日を導いた伝統)は意義をもたない。彼らにしてみれば、いまコンピューターの画面上に映し出されているものだけが重要なのだ。(中略)

ウェブは瞬間的な存在である。時間を占有することはできないが、まるで悪夢のように、どこまでも現在でありつづける。ウェブはすべてが表面で中身はなく、現在だけがあって過去はない。ウェブはあらゆるユーザーのホームであろうとする(まだそうであるようにみずから宣伝する)。

このホームでは、思考するスピードで他のユーザーとコミュニケーションができる。このスピードこそ、ウェブの重要な特徴である。

ベーダ・ヴェネラビリスは、地上での人の生命の短さ、はかなさを嘆き、明かりをともした食堂のなかを飛びすぎる鳥にたとえ、暗闇から飛びこんできて部屋の端から端へ横切り、ふたたび暗闇へ去ってゆくと表現した。私たちの暮らす現代社会は、このベーダの嘆きを大げさな表現と解釈するだろうか。〉(205-206頁)

▼「思考するスピード」でのインプット・アウトプットと、「編集の手間」。このバランスが上手にとれる人と、とれない人がいる。

■三つの警句、二つめ

〈彼ら(多国籍企業)の手法は、効率的なことこのうえない。つまり、電子機器のユーザーに、キーボードを操作してコントロールできる世界を出現させ、キーにぽんと触れるだけで、おとぎ話か何かのように、何にでも「アクセス」でき、なんでも手に入れられるという幻想を目の前に差しだしたのだ。

知らないうちに消費者にされていても、ユーザーが苦情を言わないことを多国籍企業は知っている。ユーザーがサイバースペースを「コントロールしている」ことになっているからだ。(中略)

 読書家たちがウェブを利用するたび、多国籍企業の繰りだす巧みな手法はまんまと成功する。ウェブでは熟考よりも手早さ、複雑さよりも簡潔さが重んじられ、長たらしい議論やこみいった手続きよりも、細切れのニュースや事実の断片が好まれる。

さらに、ブランド名や、巧妙に操作された統計データによって魅力を底上げされた空虚なおしゃべりや無益なアドバイス、不正確な事実、薄っぺらな情報が大量にとりこまれることによって、深みのある意見は軽んじられる。〉(207頁)

▼細切れのニュースや事実の断片のようなトリビアルなものが幅を利かせるようになったのは、ニュースの報道の世界に現れたCNNの流儀があちこちの分野で普及してからのような気がするが、それはまた別のお話。

■三つの警句、三つめ

ウェブは一息つける場所ではなく、懐かしい故郷でもない。キルケ―の洞窟やイタケー(オデュッセウスが冒険の旅の果てに帰りついた故郷)でもない。人がこの世のなかを渡り歩くときに寝床や食事を提供してくれるわけではない。

人が損失をこうむるとき、その責任はテクノロジーではなく、ほかならぬ自分にある。人があえて記憶より忘却を選ぶときにも、その責任は当の自分にある。ところが、意に反してお粗末な選択をしてしまったとき、人は往々にして言い逃れをしたり、もっともらしい理由を捻り出したりするのだ。〉(208-209頁)

▼たしかに、ウェブは「ホーム」にはなりにくい。もちろん、例外はあるのだが。そもそも、今、読者が読んでいるこの文章はすべて、「電気」が切れれば消えてなくなるものだ。その実現可能性を、日本人はつい最近、体感したはずだ。

〈Verba volant, scripta manent.〉(言葉は飛び去る。書かれたものは残る)

というラテン語のことわざは、インターネットのない時代につくられた。しかし、土を踏まずに大人になる子どもが増えてきたように、いよいよ紙の本に触らずに大人になる子どもが登場するようになったら、このラテン語の意味合いも変わるのかもしれない。

(2019年3月24日)

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